光射す庭6

翌朝。
深司はいつの間にか帰ってきた跡部によって強制的に屋敷に帰された。
帰宅した時はすでに橘は出かけた後で、顔を合わせることはなかった。
部屋から出ようにも誰かしらが廊下で目を光らせているため、こっそり出て行くことができない。
広い部屋の隅で膝を抱えるように座り込み目を閉じる。
そして長かった昨日の出来事を思い出した。
黙って、誰にも何も言わず出て行ったのに橘は見つけ出してくれたのだ。
すごく嬉しかった。
今更ながら大切にされているんだと深司の心は喜びで満ち溢れていた。
その身に余る無償の愛が嬉しくて仕方なかった。
しかしそれは同時に影も落とした。
更にタイミングの悪い事に、追い討ちをかけるような声が部屋の外からする声が耳に入ってくる。
窓の外はそこだけは別世界のようなバラ園で、そこからは季節のバラが咲き乱れむせ返るような香りが流れてきている。
数人のメイドたちが休憩をしているのかサボっているのか、身を潜めるように座っていた。
また聞きたくもない噂話が聞こえてくる。
「―――逃げ出したってー」
「若旦那様、会社から血相変えて帰って来たじゃない」
「そうそう。そういえばー結婚してから毎日この屋敷に帰ってきてるわよね。会社近くのマンションに帰ることがほとんどだったのに」
「あそこなら近いし今みたいに無理して帰ってくることもないのにねー」
それ以上聞きたくないと窓を閉め、急いで簾を下ろした。
橘の会社がここから車で1時間以上かかるのは深司も知っている。
それでも毎日帰っていたのだ。
出張などでよほど遠くに行ってない限り、毎日必ず帰宅していた。
どれだけ遅くなっても、翌日どれだけ早く出勤しなくてはならなくても。
それがどれだけ負担になるのかを考えただけで胸が締め付けられる。
やっぱり自分なんかいない方がいいのかもしれない。
そう思い、深司はそのまま廊下へと続く襖に手をかけた。
その時予想外の衝撃が体を襲った。
突然襖が勝手に開いたのだ。
「え――…?」
深司はそのままバランスを崩し前に倒れた。
「危ないっ!!」
目の前は床ではない。
もっと柔らかい感触といい香りに包まれる。
誰かに支えられていると、その腕の中には自分と、大きなバラの花束があった。
顔を上げると橘の心配そうな表情とぶつかる。
深司は倒れることなく橘の腕に抱きとめられたのだ。
「大丈夫か?」
「あ…はい……えっと…何で?まだ3時ですよ?」
「あぁ…でも早い目に切り上げてきたんだ。今日は…」
「あ…」
また要らぬ心配をかけている。
仕事の邪魔までしてしまっている。
その事実に耐え切れず深司は橘から体を離した。
「深司?どうした?」
「すみません…俺……もう橘さんとは一緒に居られないです…」
それまで柔和に微笑んでいた橘の表情が一瞬で崩れ、みるみる蒼褪めていく。
「何で…俺が何かしたか?」
「いえ…」
「なら…淋しい思いさせてたからか?すまなかった…これからは…」
「違います!!」
震える声で橘の言葉を遮り、真っ直ぐその瞳を見つめた。
「俺…橘さんに相応しくないですよ…今までの生活とか住む世界とか……全然違うし…」
その言葉を受け橘が見せたのは今までになく真剣な、怖いぐらい真剣な表情だった。
深司は自分の言った言葉のせいで橘を怒らせてしまったと萎縮してしまう。
しかし橘の口から次に出た言葉は思いもよらないもの。
「お前、何を怯えているんだ?違う?何がだ?俺とお前の差って何なんだ?」
「えっと…」
矢継ぎ早に質問を繰り出され、深司は言葉を澱ませる。
橘の求める答えが解らないのだ。
「金か?この家?俺の地位?それだけか?」
橘は呆然と見上げたままの深司に、今度はこれ以上なく柔らかい表情を向ける。
「なら俺はその全部を捨ててお前を手に入れる」
「は?…え?え?」
怒っているのではないと解った安堵と橘の言葉を理解しようとする思考が麻痺する。
深司は訳が解らないと大きく目を見開き橘を見つめ返すと、にっこりと満面の笑みを向けられた。
「そんなもんでお前が俺の側にいるんなら安いもんだ」
「何でそうなるんですか!!」
「お前がいつまで経っても俺との距離を縮めようとしてくれないからだろう?」
橘の言葉に深司は思わぬ方向から衝撃を受けた。
余計な思考に阻まれ自然と取ってしまった距離。
いつだって橘は深司の作ってしまった溝を埋めようと必死になっていたのだ。
こうして全てを擲ってまで深司を必要だと言っている。
甘んじていたのは深司の方だったのだ。
常に一線を画し、もしも何かあったとしても傷付かないように距離を置いてきていた。
それが橘を酷く傷つけていたとも知らずに。
「それは……あの…だって俺は橘さんさえいれば…幸せになれるけど……でも俺橘さんに何もできないし…」
「何故そう悲観する。俺はお前が側にいて笑っててくれるだけでいいと言っただろう」
「だってそんな…笑ってろって……何か俺バカみたいじゃないか…何もしないで笑ってるだけって…」
「あのなぁ…」
もそもそと口の中で小さく繰り返されるぼやきに、橘は天を仰ぎやれやれと溜息を吐く。
「……よし解った。どうやらお前には直球でしか伝わらんようだ」
何がだ、と首を傾げる深司の肩に手を置き、視線で瞳を捕らえる。
そして一息で言い切った。
「俺はお前が好きだ。この世で一番な。だからそのお前を失ってまで守るもんなんてない。
俺にとっての幸せはお前無しにはありえない。だからずっと側にいて欲しい。俺がお前に望む我侭はそれだけだ」
「なっ……何なんですかいきなりっ」
突然の告白にいつも平静でいる深司が顔を真っ赤にして動揺した。
珍しい事もあるもんだと橘はそれまでの羞恥が一気に消え去る思いだった。
「お前そんな顔もできるんだな」
「あんた俺の事何だと思ってるんですかっ…俺だって……色々考えてるんです」
「だったらその色々考えてる事、俺にも教えてくれ。お前の事は何でも知りたい」
僅かに赤みがかった橘の顔を見て、相手も同じ様に照れているのだと解り深司は少し冷静さを取り戻す。
視線だけ橘を見上げると優しい笑顔とぶつかり、頭を撫でられた。
「解ってくれたか?」
「はい…橘さんが恥ずかしい奴だって事も解りました……」
「何だそれは…照れくさかったがそうも言ってられんだろう。言わないとお前が離れてしまいそうだったからな」
それにしたって解せないのも仕方ない。
深司は何故自分がそこまで思ってもらえるのかが解らないのだ。
何故俺なんか、と言うと橘はそういう風に言うなと咎めた。
「今の俺はお前なしにはありえなかったって事だ」
「何ですかそれ」
「お前は覚えてないみたいだけどな。俺たちの出会いは施設の視察の日じゃない。もっと以前に会ってるんだ」
深司の記憶の中で一番古い橘は、仕事で自分たちの住む施設にやってきたあの日。
一目見てその強い風貌に惹かれた三年前のあの日のはずだ。
橘の瞳に映り込む深司の顔がゆらり、揺れ動く。
それよりも以前から橘は深司を知っているのだと言うのだ。
まだ理解できないでいる深司に橘は胸の中に抱いたバラの花束を差し出す。
「もっと昔に…一度会っているんだ。このバラを見ても思い出さないか?」
これは今窓の外で咲き乱れているバラ園のバラだ。
綺麗に棘は取られてリボンを掛けられているが間違いない。
それが何を意味しているのか、深司はまだ解らないでいた。
「仕方ないか…あの頃は今と全く違う格好だったしな」
「違う格好?」
「もう十年も前になるか…まだ中学生だった頃だ。今でこそこんな偉そうな風を装ってはいるが、あの頃は色々あってな…
まぁその事で親ともよくケンカしてたんだ。普段は冷戦ではあるんだが一度キレると派手でな…ある時俺は家出をした。
その時お前の住む施設に行ったんだよ。園長は俺を良く知ってたし匿ってもらおうと思ってな。その時…お前と初めて会った」
「あ…」
記憶の中から微かに光が漏れ出して、少しずつその時の情景が思い出される。
園芸が趣味の園長が手入れしていた庭で綺麗に咲き誇ったバラたちに囲まれて、確かに誰かと出逢っている。
しかしそれは橘とは違う。
確か金色の髪をなびかせ、随分と柄の悪い男だったはずだ。
「あれが…橘さん?………っていうか俺何かしたっけ…?」
深司にとっては何気ない日常だった。
だから記憶の片隅には残っていたものの、今こうして言われなければ思い出すこともなかっただろう。
しかしそれは橘にとって一番大切な思い出だった。


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