光射す庭3
その日は珍しく、橘は昼過ぎまで家にいた。
誰かを待っているらしく玄関に近い部屋で秘書たちと話をしている。
広い主庭ではない、その部屋の続きのように出来た坪庭。
深司は橘の邪魔にならないように縁側に座ってぼんやりと庭先にある小さな池を眺めていた。
数分後。
大きな車が数台、門扉から玄関に向かって走ってくる。
そして黒いスーツに身を包んだ男が車から降りてきた。
見たところ橘と年は変わらないだろう。
玄関先まで迎えに出た橘はしばらくその人物と二人で談笑をしていた。
ふと、視線をずらした男の目に止まってしまい深司は居住いを正す。
男は指を深司に指し何かを言っているようだ。
人に指差すなよ、とむっと表情を歪めた瞬間橘が振り返った。
慌てて表情を戻す。
「深司」
橘に手招きをされ、深司は恐る恐る近付いた。
庭を通って直線距離で僅か。
橘の斜め後ろに立ち、すっと客人の顔を見上げる。
「これか?」
「これって…犬じゃないんだぞ。深司、こいつは俺の古い友人で跡部だ」
「よろしくな」
ふっと見せる癖のある笑みにますます警戒心を強める深司の頭を橘は優しく撫でてやる。
「そんな怯えなくても取って食いやしない」
橘はそう言ったが、人を見下すような視線がどうにも気に入らないと深司は身を硬くした。
それから。
応接間に場所を移して三人で話をしていた。
しかし深司は一言も言葉を放つことなく、二人が自分にはわからない仕事の話をしているのを遠くのもののように聞いていた。
ここに居場所ないと。
自分の知らない橘がここにいる。
不安が闇となって深司の心を浸食してゆく。
全部を知りたいなんて贅沢なことは言わない。
それにそれは絶対にできない。
深司とて橘に全てを見せている訳ではないのだから。
しかし、どうしても不安に思ってしまう。
時折気を使って話し掛けてくれる橘の話も漫ろに曖昧な返事を返すしかできなかった。
その後跡部を連れて橘は会社の方へと行ってしまった。
深司は沈んだ気持ちのまま廊下を歩いていると、ある部屋の前で話し声が聞こえてきて思わず立ち止まってしまう。
立ち聞きなんて趣味の悪い事はしたくなかったが、足が動かなくなってしまったのだ。
話題の中心が他ならぬ自分だったから。
それも一番聞きたくなかった言葉の群れ。
「――よねー跡部様ー」
「そうそうカリスマ性っていうの?」
「あのお二人並んでいる姿絵になるわー…」
「見てるだけで幸せよねー」
黄色い声が上がってるのは沢山並んだ和室ではない、数少ない洋室の一つ。
普段あまり使っていないが、時々やってくる客人を接待する部屋だった。
そこで掃除をしていた数人のメイドたちがあの二人の噂をしていたのだ。
確かに彼女たちの言う通り、誰が見たって自分といるより跡部といた方がつり合いがとれている。
解ってはいた事だがあれを目の前にしては認めざるを得ない。
更に追い討ちをかけるように明るい声が聞こえてくる。
「若旦那様もどうせ男と結婚するなら跡部様と一緒になられたらよかったのにねー」
「ほーんとほんと。そうすれば今進めてる事業もいい方向に進むのに」
「だいたい若旦那様もわからないわよね。何たってあの男がいいんだか…」
「そうそう…なーに話しかけても無反応で何考えてるか解んないしさ」
「たまに口開いたと思ったらすっごい毒舌だし」
「許嫁だっていたんでしょ?」
「寝取ったんじゃないのー?」
やっだーやらしー!!と、一斉に上がる下世話な声に踵を返しその場から駆け出していた。
自室の更に奥。
誰も入って来れない閨に駆け込むと布団の上げられた畳の上に崩れ落ちる様に倒れこんだ。
混乱する頭を抱え込み、止めどなく流れる涙をまるで他人事の様に思う。
酷い。
あまりに酷すぎる言葉。
どれだけ深司が橘を想っているかなんて彼女たちが知る由もない。
ただ目の前に映る現実を噂するだけ。
でも彼女たちが言っていることは間違っていないのだ。
それが余計に悲しくなってしまう。
いくつか自分の知らなかったことさえ話題となっていた。
仕事の話はまだいい。
許嫁の存在など聞かされていなかった。
何も、本当に何も知らないのだ、橘の事を。
この家のことも。
急に自分の存在自体に疑問を覚えてしまう。
今ここに何の為にいるのか。
俺なんていない方がいいのかもしれない。
今まで必死に否定し続けてきた言葉が脳裏を過る。
そうだ、橘の為にも。
この家の為にも、自分なんていない方がいい。
その悲しい結論に深司は静かに立ち上がった。
得意の毒舌もぼやきも出てこないほどに深司は打ちのめされてしまっていた。
何も考え付かない。
思考が全て止まってしまったような感覚に襲われる。
荷造りなんて必要ない。
自分の物などここには何一つないのだから。
全て橘が買い与えてくれたもの。
たった一つだけ、施設から持ち出したのは幼い頃両親と撮った写真。
色褪せてしまいボロボロになったそれが深司の唯一の持ち物なのだ。
それを胸のポケットに収めると、誰にも見つからないようにそっと屋敷を抜け出した。