〜プレリュード〜
お前はただ
ずっと俺の側にいて
ずっと笑っていてくれればいい
その言葉
嬉しかった
すごく嬉しかった
でも
この箱庭の中では
どうしてだろう?
うまく笑えない自分がいるんだ
「じゃぁ行ってくる」
いつものお見送り風景。
長い廊下の端にある扉の前で交わす小さなキス。
橘さんは小さく手を振ると畳の敷き詰められた長い廊下を歩いていってしまう。
俺はそれを溜め息と共に送り出す。
結婚してからおよそ一年、それが日課となっていた。
部屋に戻り、縁側から裸足で飛び出して橘さんの大きな背中を見送る。
広大な庭園を抜け、黒光りする重厚な車に乗り、それが見えなくなるまで見続ける。
それが俺の日常。
この家に、橘さんに引き取られてからの。
早くに両親を亡くし、ずっと施設で育った俺にとってここは針の筵。
橘さんは俺のいた施設の他にいくつも会社を持っている実業家。
片や俺は、施設育ちの孤児。
釣り合わないこの組み合わせ。
一文無しの孤児から一気に資産数百億の人の伴侶になったのだから。
最初は色々と言われた。
この国の法律が改正され、同性同士の婚姻関係が認められて早数年。
しかしまだまだ一般人の理解は得られてはいない。
影で色々と言われている事は知っている。
それはあまり気にならない。
この生活が始まる前は不安でいっぱいだったけど不思議と何も感じなかった。
今はそれ以上に不安に思うことがあるから。
ここにはありあまる時間とお金しかない。
施設にいた頃、あれ程までに欲しがっていたものだった。
あの頃は時間にもお金にも追われていた。
学校に行きながら学費と生活費の為に死に物狂いで働いて。
でも今は?
手を伸ばせば欲しいものは何だって手に入る。
何でも好きな事をする時間がある。
でも足りない。
一番肝心なものが抜け落ちた生活。
施設の偵察に来た橘さん。
一目見て恋に落ちた。
それまでのモノクロの世界が色鮮やかなものになったかのように。
恋なんて心に余裕のない生活の中で。
橘さんのことを考えるだけで幸せになれたり、思い悩んだり、悲しくなったり。
橘さんに初めて名前を呼んでもらった日。
橘さんが『深司』と呼んでくれた日。
夜布団の中で何度も何度も思い出して、その度緩む頬を引っ叩いた。
色んな世界を見せてくれて、今までに味わった事のない幸せを教えてくれた。
だからプロポーズされたときは本当に嬉しかった。
もう、この世の全てを失っても構わないと思える程に。
橘さんは俺の全て。
橘さんがいなければもう息もできない。
でも。
俺はこうして橘さんを想うだけで幸せになれるけど。
橘さんは?
俺は橘さんに何ができる?
橘さんは俺に
『お前はずっと側にいてずっと笑っていてくれればいい』
そう言ってくれたけど。
それだけじゃ駄目だ。
きっと橘さんの重荷になってしまう。
負担にだけはなりたくない。
そうして愛想を尽かされてしまったら俺は?
生きていけない。
でも俺には何もない。
家も財産も学も。
考えないようにはしていたけど。
でも無意識に比べてしまう。
橘さんと俺の間にある見えない壁。
違いすぎる…
俺と橘さんは…違う世界に住む人間だ―――…
光射す庭1
まるでどこかの旅館の大宴会場か、はたまたテレビの中の時代劇でしか見た事のないような畳で敷き詰められた広い部屋。
無限に続いているのではないかと錯覚するほどに部屋が続く座敷。
深司はその中央で大きく手足を広げてゴロゴロと寝転がる。
「暇――――――………………………」
施設にいた頃は学校とバイトと施設の手伝いで自分のことをする時間なんてなかった。
だから暇を持て余す今、何をしていいのかわからないのだ。
橘は何をしてもいいと自由とお金をくれた。
でも何もできないでいた。
結局深司には橘を愛する以外にすることがないのだ。
そうだ、と思いついた。
料理も洗濯も苦手だったが神経質な性格から掃除だけは得意だった深司は
せめて橘と過ごすこの部屋を綺麗にしようと立ち上がる。
「そんなことされなくても!!」
「あ…」
バケツと雑巾を持ち出し、部屋の隅にある床の間を拭き始めたその時。
部屋の掃除をしにやってきたメイドたちに唯一の暇つぶしを取り上げられてしまった。
メイドとは言っても着物姿なのでどちらかといえば仲居のような風貌だが。
その中の一人が右手に持った雑巾を軽々と取り上げる。
母親に近い年のその人は使用人の責任者で、言わば女中頭のような存在。
貫禄の姿に深司は非難めいた視線を向けるも、それ以上に棘のある視線で対抗された。
「私たちは旦那様に貴方が快適にここで暮らせるよう申し付けられてるんです。
掃除なんてさせたなんて知れたら…私たちが叱られます」
それ以上何も言えず、せめて掃除の邪魔にならないようにと部屋を出た。
「何だよ…折角暇潰しの方法見つけたってのにさ………」
ぶつぶつと文句を口の中で小さく反芻させながら、長い廊下を歩く。
昼間ではあるが皆それぞれに仕事をしているのか誰とも会わない。
廊下に並ぶ襖を順番に破っていきたい衝動にかられる。
それ位に暇なのだ。
恐らくは行動に移したとしてもここでは誰も咎めたりはしないだろう。
しかしそんな事をしても何にもならないと辛うじて押し留まる。
暇を持て余した深司は庭に出ると橘の愛犬を見つけ、近付いていった。
金色の毛並みが美しい大型犬は甘える様に深司に擦り寄る。
この広大な屋敷の中での唯一心を許せる相手。
彼を連れて庭の端にあるバラ園に行く。
庭師によって手入れされた本格的な日本庭園の中に、全くそぐわない一角になっている。
しかしバラ達はそんな事はまるで関係ないと季節でもないのに馨しい香りを振りまき綺麗に咲き誇っている。
その中にしゃがみ込み、深司は大きく溜め息を吐いた。
「…お前……俺の事解んの?」
忠実にしつけられた愛犬はその隣りに座り心配そうに顔を覗き込む。
ぎゅっと抱きつき思わず本音が漏れてしまう。
「…………笑うって…そんなに難しい事だったっけ……」
元々表情豊かではないし、感情をそのまま顔に出す事もない。
それでも嬉しい悲しい悔しい、感じた事はもっと素直に言えていた。
それがここでは出来ないでいる。
いつも誰かがいるのに、いつも一人でいるような気分だった。