光射す庭2
長かった一日がようやく終わりを告げる。
待ちに待ったご主人様のお帰り。
遥か向こうでする大きな門を開ける音を聞きつけ、深司は玄関まで走っていく。
「おっ…おかえりなさい!!」
橘は咳ききって走ってきた深司に少し驚いたがすぐに笑顔を返す。
「ただいま」
それだけで思わず涙が出そうになる。
独りでいるのはここは広すぎて、それでなくても退屈で淋しい時間。
余計に身にしみてしまう。
橘はスーツの袖を掴んで離さない深司を連れて部屋に戻った。
「深司、そんなにしなくても俺はどこにも逃げたりしないぞ」
橘の笑いを含んだ言葉に我に返り、深司は慌てて体を離す。
「あ…っと…ごめんなさい……」
橘が脱いで畳の上に放り投げたジャケットを手に取り、握り締めてシワになった部分を一生懸命伸ばした。
「そんな事、お前がしなくてもいい」
「…でも…」
「お前は俺の側にいてくれればそれでいい」
ジャケットを取り上げられぎゅっと抱き締められる。
深司の胸に締め付けられるような痛みが走った。
物質的な痛みではない、心の奥底を突き刺したような痛み。
自分には何もない、何もできない。
せめて橘の望むことは何だって叶えようとここに誓った。
だからその為ならどんなに淋しい思いをしようと耐えられると思っていたはずなのに。
どうしてだろう、こんなに胸が苦しいのは。
普段二人が過ごしている部屋のすぐ隣にある閨だけの部屋。
他の部屋に比べれば狭い部屋の中に一段高くなった寝所があって御簾で遮られている。
深司は初めて見た時、将軍様の大奥かと笑いそうになった。
だがこの部屋にだけは誰も近付かないように橘が緘口令を敷いている為、本当に二人きりで過ごせる。
一人じゃない。その他大勢に囲まれているわけでもない。
橘と二人。だから唯一心休まる瞬間でもあった。
「………ん……?」
隣りにあったはずの温もりがなくなっている事に気付き、深司は目を覚ました。
「あ…れ?…橘さん?」
その瞬間。
凄まじい寂寥感に襲われ、深司は肌寒い中上着も羽織らず裸足のまま部屋を飛び出した。
「橘さん…?」
真っ暗な廊下に灯りがぽつぽつと所々についているだけで暗闇が拡がっている。
使用人たちも皆寝静まっていて、昼間の喧騒が嘘のような静寂の中。
建物が古い分、物陰から何か飛び出してきそうな雰囲気だ。
深司は竦む体を一喝し、足を踏み出した。
「橘さんっ…」
もう一年近くここに住んでいるが今だこの夜の闇に慣れることができず、足が震え上がる。
普段はお化けや幽霊の類は信じていないと鼻で笑い飛ばしているが、兎に角ここの夜は不気味なのだ。
ドライな深司をもっても脅かす雰囲気に包まれている。
と、廊下の突き当たりにある大きな襖が開いていることに気付いた。
そっと足音を殺して近付いていくと大きな影が廊下に落ちた。
一瞬驚いたがその優しい声に緊張が解ける。
「…深司…お前何してるんだ?」
その影が誰かを確認すると深司は思わず抱きついてしまった。
「………橘さんが…いなかったから………驚いて…」
「すまんな。会社から電話あって…お前がよく眠っていたから起こさないようにここで電話してたんだ」
携帯電話を深司の目の前で振って見せるがもうそれは目に入っていない。
橘の胸に顔を埋めたまま抱きついて離れないのだ。
普段こうして甘える事のない深司に戸惑いながらも、反面嬉しくて仕方ないとばかりに抱き締める。
「深司…?上着も羽織らないでいるから体が冷えてるじゃないか………」
橘は軽々と深司の体を抱き上げ、そのまま部屋に帰った。
褥に下ろしてもなお離れようとしない深司に口付けを施す。
「…ちばな…さ…ん…」
徐々に深まってゆくその口付けに深司の息は上がっていく。
「淋しかったか…?」
優しい指先に隠していた本能を引きずり出される。
こんな時素直に頷ければどんなによかっただろうと深司は旋毛曲がりな自分を呪った。
このままではいつか橘に飽きられてしまうのではないか。
そんな事を考えて、いつも見えない何かに怯えていた。
橘が大切にしてくれればくれるほど、何もできない自分に嫌気がさしてしまっていた。