光射す庭5
早い夕食を済ませ、子供たちはそれぞれ宿題をしたりTVを見たりして過ごし、
神尾と深司は子供たちが食べ散らかした食器の後片付けをしていた。
他愛無い話をしながら二人でシンクに向かっていた時、玄関のチャイムが鳴らされた。
「誰だ?こんな時間に…」
大きな声で返事をしながら神尾は玄関の方へと行ってしまった。
不意に胸を過る黒い影に深司は身を固くした。
まさか、まさか。
そう思いながら神尾のいる玄関からダイニングキッチンに続く廊下をそっと覗いた。
神尾の背中の向こうに見えたのは、見紛うことない。
橘の姿だった。
何故。どうして。
鈍くしか働かない深司に理解できたこと。
橘は迎えに来てくれたのだ、黙って家を出てしまった自分を。
たくさんの疑問符を振り払うように頭を振り、逃げるように施設を後にした。
しばらく歩いているといきなり後ろからクラクションを鳴らされ、心臓が飛び出さんばかりに驚いてしまう。
眩しいヘッドライトに目を細めフロントガラス越しに見えた人物に再び驚く。
それは昼間屋敷にやってきた跡部だった。
「何やってんだ?こんなとこで」
何をしているわけでもないのだが強いて言うならば橘から逃げている。
しかしそんな事言えるはずがなく黙りこくってしまう。
「まぁいい。乗れ」
「は?」
「いいから早く乗れよ」
「………何で?」
深司とて昼の警戒心を忘れたわけではない。
いきなりそんな事を言われても素直に従う事なとできるはずもない。
「乗れ」
しかしその力強い瞳にそれ以上抵抗を見せることができず、深司は大人しく助手席に座った。
乗り心地のいいはずの高級車なのだが、ほぼ初対面のこの男との二人きりで至極居心地が悪い。
跡部はもぞもぞと何度も座り直す深司に鋭い視線を向ける。
「……何?」
「別に。何でもねぇよ。危ねぇから大人しく座ってろ」
それ以来どちらとも話し掛けるきっかけもなく車は夜の街を切り裂いてゆく。
そして行き着いた先は跡部の自宅だった。
橘の家が純和風の寝殿造ならば跡部の家は西洋風のお城といったところだろうか。
対照的な造りだったがあの家と負けず劣らず、否、奥まで見えない分更に広いかもしれない。
門から手入れの行き届いた庭園を抜け、玄関には行かず離れへと通される。
離れ、といっても先程までいた施設と同じぐらいの大きさがありそうだ。
「ここは客間だけしかねぇから気兼ねなく使え」
それだけ言われ、広い部屋へと通されると再び沈黙が訪れる。
「あの…」
気まずさから何か話をしようと口を開く。
しかしそれは跡部の声にかき消された。
「行くとこねぇんだろ」
「え…」
何故そのことを知っているのだと深司は目を丸くした。
「だから暫くかくまってやるよ」
何故この男がそこまでしてくれるのかは解らないがとりあえずその厚意に甘えることにする。
それに今深司には他に行く当てがない。
「昼間、会社で仕事してたら家から電話あって橘が飛んで帰ったんだよ。お前がいなくなったからってな」
「え…?」
そんな大ごとになるなんて思ってもいなかった。
誰にもバレず家を出たはずなのだから。
状況が把握できず、深司はただ唖然とするだけだ。
「…何が気に入らねぇのかは知らねぇがあんまり虐めてやるんじゃねぇよ。あいつ死にそうな顔して帰ってったぜ」
橘さん心配してくれたんだ、と。ほっとする自分と落ち込む自分が交錯する。
橘が気に掛けてくれたことの嬉しさとまた迷惑をかけてしまったという心苦しさ。
その二つの想いでまた自分自身に嫌気がさす。
「俺は出掛けるから適当にくつろいでろ。何かあったら内線かければ誰かが出るようになってる」
「あ…あの……ありがとうございます…」
まだ何を考えているか計り知れない部分があるが、最初のような警戒心は些か解けてきていた。
とりあえず礼だけでもいっておくかと頭を下げた。
ふっと表情を緩め跡部は部屋を出て行った。
それと入れ替わりに、長身の男が二人入ってくる。
いきなりの事で深司は身を構えた。
「ほー…こら別嬪さんやな、今日のお客さんは」
そのうちの一人が深司の顔を覗き込み何故か品定めを始めた。
「こないだの威勢のええのとはえらい差やん…あいつには好みっちゅーもんはないんかぃ。なぁ?」
「ウス」
初対面だというのに何て失礼な奴なんだと深司は不機嫌な表情を向ける。
「そんな顔せんと。折角の綺麗な顔が台無しやん」
「あんた誰?」
綺麗な顔、と言うその男もなかなか整った顔をしている。
軽い調子で言ってくる丸眼鏡のその男に、さっきまでの緊張はいつの間にか解けていた。
「俺は忍足。んでこいつは樺地な。俺ら跡部の側近やと思てくれてええで」
「側近?」
「そう。よろしゅうな。あいつに頼まれてん。逃げ出さんようにって」
見透かされている。
深司は跡部が出て行ったのを見計らい出て行こうと思っていたのだ。
しかしこの状況では逃げ出すことができない。
それどころか忍足は深司をソファにエスコートして座らせる。
樺地は何も喋らずメイドの用意した紅茶を給仕してくれた。
深司は緊張から喉が渇いていた為大人しくそれを啜る。
そして先程の忍足の会話から、何か勘違いをされているのではないかと弁解を始める。
「あの俺…さっきの人とは今日初めて会ったばっかで……だからそういうんじゃないですから」
「知ってるて。あれやろ、自分橘の嫁さんやろ?」
知っているならどうして、と思うと同時に気付いた。
自分はからかわれたのだと。
深司がむっと表情を変えるとまた胡散臭い笑みを向けられる。
「せやからそんな素気無い顔しぃなや」
「あんたがそうさせてるんじゃないか…」
「あかん…完全に嫌われてもぅたわ」
そう思っているなら一人にして欲しい。
深司のそんな気持ちを敏感に汲み取った忍足はやれやれと立ち上がった。
「ほな俺らは隣の部屋に詰めてるから何かあったらすぐ呼んでや」
そう言って忍足と樺地は部屋を出て行ってしまった。
本棚に置かれたやたら高そうな時計を見ればもう日付が変わっている。
再び訪れる静寂に嫌な思いがまた湧き上がる。
拭いようのない不安が闇となり深司の心をどんどんと侵食してきた。
これ以上何も考えたくないとばかりに深司は部屋の中央に偉そうに置かれたベッドに潜り込んだ。
この上なく豪華なベッドで寝心地は最高なのに、眠れるはずもなく、そのまま朝まで浅い眠りと闇の間を交差し続けた。