蜩ノ唄4
優しい瞳をした人だと、そしてそれ以上に悲しい瞳をした人だと。
初めて会ったその瞬間から恋に落ちていた。
その時は強烈な感情に身がついて行かず、自覚はなかった。
だが内側からじわじわと追い詰めるその緩やかな炎は、思った以上に身を焦がしてきた。
気付いたときには遅すぎた。
彼の瞳に映るのは自分ではない。
初めから解っていた結末だが、それでも追い詰めずにはいられない。
それほどに焦がれてしまった相手は、隣に住む美しい声の人だった。
慈郎は絡まる足を必死に前に進め、逸る気持ちを押さえ込み家までの道のりを全力で走りきった。
年季の入った玄関の扉はギシギシと軋む音を立ててなかなか主人を家に入れようとはしない。
慈郎は力のまま戸を引き、長い廊下を走って居間へと突き進む。
だが開けようとした襖が自動的に開き、さらにその向こうに立っている人物に動揺を隠し切れなかった。
「跡部……っ!!」
「よぉ…上手く帰ってきやがったな」
跡部は汗だくになり息を切らした状態で駆け込む慈郎に薄笑いを浮かべ、見下ろす。
いくら真夏とはいえ汗の量が尋常ではない。
出先から全力で帰ってきたのだろうと安易に想像がつく。
遣いにやった滝にでも会って聞いたか、と相変わらずの間の良さに二度目の舌打ちを漏らした。
「……何だよそれ…」
「いや、何でもねぇよ」
そう言い残し、慈郎の隣をすり抜け跡部は出て行ってしまった。
取り越し苦労だったか、と思った。
しかしそれは部屋の中にいた侑士の恰好を見て見事に打ち消される。
「慈郎さ……」
部屋の中央で呆然と座り込み、着物の襟元や裾の乱れを必死で直している。
「な…何でもないんよ…」
いつも綺麗にまとめられている髪は乱れ、何もなかったとは思い難い雰囲気だった。
「……っ…あいつに何かされたのか?!」
「え…?」
慈郎は部屋に散乱した岳人の服などお構いなしに踏みつけ侑士の側に駆け寄り、肩を掴み顔を覗きこんだ。
酷く動揺はしているが、見る限り跡部が不貞をはたらいたようには見えない。
恐らく無理矢理何かをしようとしたのだが侑士の抵抗を受けて諦めたのだろう。
だが最後に跡部が残した言葉で察するに、あと少し帰るのが遅ければどうなっていたか解らない。
「怪我とか…ねぇみてーだな…」
「…大丈夫やよ……」
本当は跡部に激しく掴みかかられた手首が悲鳴を上げていたのだが、侑士はそれを隠し、無理に笑顔を作った。
「おおきに…心配してくれて」
「…っべ…つに心配なんてしてねぇよ!!」
言われて初めて自分のした事に気付き、慈郎は慌てて肩を掴んでいた手を離した。
今度は自然に嬉しそうに笑う侑士に背を向け逃げようとしたが、逆に手を掴まれる。
「何?!」
「いや…えらい汗やで。暑い中走って帰って来たんやな」
着物の袂からハンカチを取り出し、慈郎の顔から滴る汗を拭っていく。
「いいって!!触んな!」
ハンカチを握る手を振り払われ、穢いものでも見るかのような慈郎の視線に侑士の表情が凍りついた。
一瞬バツの悪い顔をして、慈郎は振り払った拍子に侑士が落としたハンカチを拾い上げた。
「いや…じゃなくて……あの…」
「ほな何か冷たいもん用意してくるわ…ごめんやけどその間にこの荷物お隣に届けてくれへんかな?」
侑士は部屋に散らばったままになっていた岳人の荷物を再びトランクに直し、慈郎に渡した。
「お願いな?」
余程怖い思いをしたのか、そう言って台所へと消えた侑士の肩が酷く震えている事に気付いた。
慈郎は過去にも同じような光景を見たような、そんな既視感に襲われた。
あの時の相手は確か。
手繰り寄せた記憶の糸の先にある消し去りたい過去が鮮明に蘇る。
振り払うように慈郎はトランク片手に家を飛び出した。
隣家との境にある朝顔の垣根に作られた裏口を使えばすぐに行く事は出来る。
書生らと慈郎が仲良くなって頻繁に行き来するようになり、何をさせても器用な鳳が垣根の一部を戸口にしたのだ。
お互い広い敷地に住んでいる為、玄関から玄関へと移動するよりもはるかに便がよい。
庭同士を繋ぐそれを使えば隣家まではすぐなのだ。
だが、つい今し方の事を考えるとあまり跡部には会いたくない。
そしてあまり早くに用事を済ませてしまい、侑士の待つ家にも帰りたくない。
慈郎は玄関経由でゆっくり時間をかけて隣家へと向かった。
「あー……気が重いー…」
跡部には会いたくない。
そう思い慈郎はこっそりと玄関から入り、すぐにある岳人の部屋に荷物を放り込んですぐに帰ろうとした。
「慈郎」
「げっ」
岳人の部屋を出たところで待ち構えていたのは会いたくないと思っていた人物。
扉の前に立ちふさがるように跡部がいた。
「ご苦労だったな。向日が帰ってきたら取りに行かせようと思ってたんだが」
「向日まだ帰ってないのか……」
滝の挑発に乗ってしまい岳人を放ったまま帰ってからかれこれ半時間は経っている。
何をやっているのだ、と思ってからふと我に返った。
世間話をしている場合ではない。
「そうだ…おめぇあいつに何したんだ!!」
「あぁ?何の話だ?」
「とぼけんな!あいつに変な事したらただじゃ済ませねぇぞ!!」
「変な事って何だよ…」
クックッと喉の奥を鳴らして笑う跡部に、慈郎はからかわれていると解っているがつい飛び掛ってしまった。
力は互角。しかし相手は何かしら武術を心得ているのか軽く慈郎の拳をかわしてしまう。
二発、三発と繰り出すが尽く外れてしまい形勢逆転とばかりに胸倉を掴まれた。
「放せよ…!!」
「テメェに何の権限があってそんな事を言うんだ?あぁん?」
「何のって…」
「まさか親父の為だなんて言わねぇよな?テメェがそんな親思いだとは聞いてねぇぜ?」
そう言われ、慈郎の言葉が詰まった。
今の自分の行動は忌み嫌っている相手を庇うもの。
どう考えても不自然だ。
「好きなんだろ…侑士が」
「そんなわけねぇだろ!!あいつは……あいつは母ちゃんから親父を奪って金目当てにうちに入り込んだ男だぞ?!」
「だったら庇い立てする理由はねぇだろ」
「それは…そうだけどよ……」
力でも敵わなければ口でも敵わない。
慈郎が言葉を失うのを見計らい跡部は掴みかかっていた腕を離し、その指で胸元を突いた。
そして一言。
「この際だからはっきり言っておく。………俺は本気だ」
そう言った跡部の瞳に偽りの欠片も感じられなかった。
これで遊びのつもりなら近付くなという脅しが効かなくなってしまった。
「お前はどうなんだよ。あいつが好きなのか?」
八方塞になってしまった慈郎の心に秘めた想いは跡部の言う通りのものなのか。
目を大きく見開いたまま動かなくなった慈郎に、とどめとばかりに言い放つ。
「喩えあいつがどこの誰だったとしても俺の気持ちは変わらねぇ。覚えておけ」
跡部の言葉に返せる言葉が見つからない。
呆然と立ち尽くす慈郎を満足気に見下ろし、跡部は体を離した。
「げっ!跡部何やってんだよ!!」
その時、玄関が派手な音を立てて開いた。
同時に聞こえてきた元気な声に慈郎の意識が戻る。
「向日…テメェ帰ってきてるなら先にこっちに帰って来い。手間かけさせやがって」
「うるっせー俺の部屋に勝手に入ってんじゃねーよ!!」
自室の扉が開いていて、その前に仁王立ちする跡部に岳人がぎゃんぎゃんと噛み付く。
「ここは俺の家だ。見られて拙いもんでも隠してんのかよ」
「そんなんじゃねぇ…って、あれ?慈郎来てたのか?」
丁度扉の影になって隠れていた慈郎に気付き、部屋の前に立ちはだかる跡部を押しのける。
跡部は遠慮ないその態度に若干不機嫌になりながらもその場を岳人に譲った。
「テメェの荷物届けてくれたんだろうが。礼言っておけよ」
そう言って居間の方へと歩いていく背中に、岳人は思いきり顔をしかめ、舌を出して見送る。
そして跡部に言われたからではないと自分の心の言訳してから慈郎に向き直り礼を言う。
「ありがとな慈郎。あ、侑士に渡したか?」
「……まだ………あいつに邪魔された」
岳人は口を尖らせ文句を言う慈郎の肩を励ますように叩く。
「侑士なら絶対喜ぶって。早く渡してやれよ」
「うん…じゃあ俺帰るわ」
「おうっ!じゃあな!」
明るい岳人の声だけが慈郎の落ち着かない気持ちを和らげてくれる。
何か傷ついているであろう侑士にこれ以上追い討ちをかけないように、慈郎は心に言い聞かせながら家に帰った。
「萩之介…てめぇいつから見てやがった」
「何のことー?」
この飄々と攻撃を受け流す滝と攻撃型の跡部は最悪の相性を誇っていた。
幼い頃から跡部を知る滝は彼の扱いに一番慣れている。
だが跡部はいくつになっても滝のこの態度に慣れないでいる。
チッと跡部の舌打ちが空を舞った。
「まぁいい。どこまで聞いてやがったのかは知らねぇが邪魔だけはすんなよ」
そう言い残して去る跡部の背中を、滝は居間に続く廊下の端から眺める。
「邪魔ねぇ……」
本当は使いの続きを岳人一人で行かせ、ずっと物陰から見ていたのだ。
商店街から帰ったところで丁度、岳人の荷物を持った慈郎がこの屋敷に向けて歩いているところを見かけた。
何か起きるかもしれない。
そう直感した滝は裏口から帰宅し、二人の動向を見ていた。
流石は跡部と言うべきか、そんな滝に気付いていたらしい。
「これで五分五分…か……」
跡部の言葉に詰まっていた慈郎は、恐らくこの後自身の気持ちと向き合う事になるだろう。
自覚をして、そしてこの先どうなるか。
顎に手を当てて考え込んでいた滝の目の前に、岳人が現れ我に返る。
「重い!!ボーっとしてねぇで手伝え!!」
「あぁ…ごめんごめん」
岳人が二本持っているうちの一升瓶を一つ預かり、台所に向かって歩き始める。
「お前さー…あんまり慈郎や跡部けしかけんなよ。皺寄せは全部侑士に行くんだし」
「そうだね」
果たして当の侑士がその皺寄せをどう思っているかは別として、侑士が大好きだと公言する岳人らしい一言だった。
そういえば跡部は妙な事を言っていた。
喩えあいつがどこの誰だったとしても。
あれは一体どういう意味だったのだろう。
慈郎は何も言わない上、侑士も自分の事となると何も話さない。
確かに滝らは侑士がどこの誰だかなど、詳しくは何も知らない。
跡部は一年早くこの家に住んでいたから滝の知らない何かを知っているのかもしれない。
そしてそれが慈郎のあの態度に何か関係ある。
「何一人でニヤニヤしてやがんだよ、滝」
急に冴えわたった思考に自然と緩む口元。それに気付いた岳人は顔を歪める。
「俺の言う事聞いてたか?」
「もちろん。気をつけるよ。あんまり人のゴタゴタに首突っ込むのは好きじゃないしね」
物事を派手にゴタゴタさせてるのはお前だよ、と心の中で呟く岳人の声が聞こえたかのように滝は意味深な笑みを浮かべる。
跡部同様に滝を苦手とする岳人は上手くあしらう方法はないものかと模索するが、思いつかない。
「ただいま帰りました!!」
そこに救世主の如く現れたのは宍戸と出かけていた鳳だった。
何やら大きな桶を手に勝手口から入ってくる大きな影は、台所に下りてきた滝らに近付く。
「おかえり鳳。何それ?」
「うっわ卵じゃん!!すっげーこんなにいっぱい」
滝からの質問に答える間も与えず鳳の手の中にあった桶にかけられた布巾を取り、中身を確認した岳人は感嘆の声を上げる。
「さっき日吉から預かったんです。何でも跡部さんのお得意様からの差し入れだそうで…」
「ふぅん…今度は何やったんだろうね、あの男は」
「さぁ……あ!先輩方!!それ俺が片付けます!」
鳳は二人の持つ重そうな一升瓶に気付き、慌てて桶を流し台に置きに行く。
父は軍事から離れた職についたものの、軍人一族の鳳家に生れた嫡男は縦社会に従順。
目上の人に重い荷物は持たせられないと、二人の持っていた瓶を預かり、いそいそと戸棚に片付ける。
「鳳、宍戸はどうしたの?」
「お隣です。きっとこんなに沢山あるなら跡部さんも差し入れしろと言うだろうからって…宍戸さん先に持っていったんです」
滝の質問に、戸棚に頭を突っ込んだ状態で鳳が答える。
返答に何も言わない滝に不安に思い、慌てて頭を出す。
「駄目でしたか?!すみません勝手に…」
「いや、大丈夫だよ。跡部もきっとそう言うだろうし」
「そうですか。よかった」
ただ一つ気になるのは、と滝は顎に手を当て、得意の笑みを浮かべる。
「また一人でニヤニヤしてやがる」
小さく笑ったつもりだったが、再び岳人に見つかってしまった。
お前がその笑い浮かべるとロクな事が起きないんだよ、と毒づく。
その方が楽しいかもよ。
つい先刻岳人に言ったはずの言葉など頭から消し去った滝は心の中でそう呟き、部屋に戻った。
家に帰った慈郎は真っ先に台所へと行き、流し台に向かい溜息を吐く侑士の背中を見つめていた。
自分があのような姿にさせているのだと否応無しに思い知らされる。
だがじっと見つめていたところで何も始まらず、慈郎はその背中に話しかけようと一歩踏み出す。
床の軋む音に気付いた侑士が振り返り、そこに立つ慈郎に一瞬驚いたが、すぐにいつもの柔らかい笑顔を向けた。
「お帰りなさい…ご苦労さんやったなぁ。サイダー用意しといたったから飲んでや」
「あのさ……あの…」
「…ん?何や?」
ポケットに入った小さな包み紙を布越しに握り締め、意を決し口を開く。
「……いつも―――…」
「侑士ー」
張り詰めた空気を裂く様に勝手口から入る人影に、慌て口を噤む。
籠を手に戸口からずかずかと遠慮なく入ってきたのは宍戸だった。
「宍戸君…どないしたん?」
「差し入れだ。卵、たくさん貰ったからよ」
「ありがとうな、いつもいつも…」
「いいんだって。この卵だってこれの三倍ぐらい貰ったんだからよ」
二人で食べるには充分すぎる量の籠の中身に萎縮気味の侑士に、宍戸はカラカラと笑い、戸口近くの台に籠を乗せる。
その時ようやく居間に続く戸の前に立っている慈郎の存在に気付いた。
「どうしたんだよ慈郎。そんなとこボケっと突っ立って」
「あ…………別に…何でもねぇ」
小さく呟き、慈郎は踵を返し自分の部屋に続く廊下へと消える。
「おい慈ろ…」
呼び止める宍戸を侑士が制する。
そして何か言いたげにしていた慈郎が気になり、宍戸によく礼を言うと侑士は慌てて慈郎の後を追った。
何かあったのか、と気になったが二人の問題に首を突っ込むわけにもいかず、宍戸はそのまま帰宅した。
勝手口から憮然とした表情で入ってくる宍戸に、何かあったと直感した滝は笑いを堪えながら、おかえりと何食わぬ顔で迎え入れる。
「どうしたの?そんな顔して」
「いや、慈郎の奴がよー……また何かしたんじゃねぇかと思って」
「へぇ……喧嘩でもしてた?」
こみ上げる笑いをかみ締める顔を見られないように、弾みそうになる声を極力抑え、滝は夕飯の支度をする手を止めずそう小さく呟いた。
「いやぁ…そういうわけでもねーんだけどよ。何つーか…罵り合ったり怒鳴り合ったりしてる方がまだマシだよな」
「あぁ…冷戦だもんね、あの二人」
鍋に入った煮物を覗き込み一つ摘んで口に放り込む宍戸に呆れ、一つ溜息をつく。
二つ目に手を伸ばそうとするその甲を叩き、静かに蓋をする。
滝はむっとする顔を隠さず舌打ちする宍戸にくすくすと笑いを漏らした。
「あの二人も君ぐらい解りやすかったら、もう少し進展もあるだろうに」
「どういう意味だよ」
ますます不機嫌な顔を露呈する宍戸と笑いを湛えたままの滝が睨み合う。
「あの二人はね、お互いに遠慮しすぎなの」
「遠慮?あの慈郎がか?!」
笑わせるなと鼻で嘲る宍戸に、解ってないね、と返り討ちにする。
「てめーは解ってるって言い方だな」
「君よりはね」
同じような事を昨日も言っていた。
宍戸は苦い顔をし、長く伸びた髪をわしわし掻き上げる。
それは思い悩んだ時などに見せる宍戸の癖だった。
その様子に滝はまた笑みを浮かべる。
「あのね、誰も彼も君みたいに自分の思ってる事全部顔に出せないの。解る?」
「んだと!!」
「悪いって言ってるんじゃないよ。言葉にしなくても表情で窺い知れる相手の気持ちってあるだろ?」
「まぁ…そうだけどよ」
表情から笑みを消し真面目にそう答える滝に、瞬間的に湧き上がった怒気が沈む。
「侑士さんはあの通り柔らかく笑ってるだけで何考えてるか解んないし…慈郎は自分の気持ちも理解してないみたいだし」
このまま放って置いても平行線辿るだけだ。
解ってはいるが今の状況を脱するには、まずは本人に気持ちを自覚させる事しかない。
今日の一件をきっかけにどう変化するか。
まだ傍観者でいる事しか出来ないのかと、滝は黙り込んだ。
上手くいくか抉れてしまうか、一か八かの勝負に出るかと、持っていた包丁を置いた。
「どうしたんだよ?」
前掛けを外し、戸口へと向かう姿を、宍戸は慌てて呼び止める。
「来る?一緒に」
「どこに?」
「お隣。君も慈郎の事、気になってるんだろ?」
「また何か企んでんじゃねぇだろうな?」
訝しがる宍戸に、こいつといい向日といい一体俺を何だと思っているのさ、と滝は心の中で毒づく。
しかしそれも身から出た錆だ。
そう言いたい気持ちをぐっと堪えた滝は宍戸を連れ、朝顔の垣根を越えた。