蜩ノ唄2

侑士はいつも僅かに伸びた髪を綺麗にまとめていた。
それを留める鼈甲細工のかんざしには慈郎も見覚えがあった。
母親のもの。
何故それを侑士が持っているのかなど、慈郎の知る由もない。
気にはなっていたが、わざわざ聞くほどの事ではないと自身に言い聞かせていた。


起きている間はなるべく家には居たくない。そう思い縁側でぼんやりとしていた。
そんな慈郎に隣に住む書生らが声をかけ、皆で近所にある喫茶店へと足を運んでいた。
「慈郎さぁ…いい加減仲良くしてあげなよ」
「何と」
「解ってるんでしょ」
目の前の滝に口の端を上げただけの笑みを返され、慈郎はむっと頬を膨らせた。
滝が言わんとしている事が侑士である事は明白だ。
「そうだぜー慈郎。別に悪い奴じゃねぇだろ」
隣に居る、肩より長い髪を揺らした少年も同じように非難の目を慈郎に向けている。
彼も滝と同じく跡部の家に住む書生で名前は宍戸亮と言った。慈郎や滝の同級だ。
しかし跡部や滝と違い、どこか庶民の匂いを漂わせる。
長い髪も単に床屋に行く金がないからという、涙を誘うものだ。
無造作に伸ばされてはいるが、美しい艶をもつ髪は、侑士のそれを彷彿とさせて慈郎はあまり好きではなかった。
視線を逸らすと二人同時に溜息を聞かされる。
「………お前らに何が解るんだよ…」
「解るわけないじゃない。慈郎何にも言わないのに」
滝の言い分は尤もだ。
慈郎が侑士の事をどう思っているかなど言った事はなく、また滝も宍戸もそれを詮索するような真似はしなかった。
自発的に聞かされるまで待つつもりなのだろう。
三人から言葉が消え、蓄音機から流れるジャズと他の客の話し声だけが店内を支配する。
その音の均衡を崩したのは、駆け込んできた学生が店の扉を開ける音と少年の声だった。
「すみません遅くなってしまって!!」
平均遥かに超える長身が折り曲がるように低い扉をくぐって来る。
さほど広くない店内で入り口近くに陣取っていた慈郎たちを見つけると、その人物は迷わず駆け寄ってきた。
「おっせーぞ長太郎!」
「ごめんなさい宍戸さん…跡部さんに頼まれた用事がなかなか済まなくて…」
「いいから座りなよ。走って来たんだろ?何か冷たいものでも飲む?」
宍戸の罵声に萎縮し、滝の救いの声に元気良く「はい!」と笑顔で答えて空いた席に窮屈そうに座った。
長太郎、と呼ばれた少年は滝や宍戸と同じく跡部の家に住む書生だ。
仲間内では一番年下で慈郎や滝たちより一つ年下だ。
鳳長太郎に滝萩之介。名前も仰々しい二人は跡部同様、所謂良い所の坊ちゃんである。
皆親元を離れ、この地で勉学に励んでいる。
宍戸はごく普通の家の生まれで水準以下の家ではないが二人に比べればやはり庶民的だ。
どちらかといえば慈郎は前者二人と近い生活を送っていたが、性格的には宍戸の方が合っている。
それは物事を歪曲し、何かを悟ったように笑みを浮かべるだけの滝や穏やかに物事を受け流す鳳よりも、
多少子供っぽい部分が残り何事にも直球勝負の宍戸の性分が慈郎に近いからだろう。
そして跡部の家にはあと二人書生がいた。
向日岳人という小柄な少年で、今は夏期休暇を利用して実家に帰っている為不在だ。
二、三日のうちに帰ると手紙が来たのだと今日出会ってすぐ滝が言っていた。
岳人は慈郎と一番仲の良い級友だ。その報に僅かだが慈郎の機嫌が上向いた。
だがその後の話題に次第に機嫌も下降の一途を辿る。
もう一人は樺地といって、岳人とは対照的に大層大柄な少年だ。
彼はこの様に滝とつるむ事は少なく、ほとんどを跡部の側で過ごしていた。
代々跡部家に仕える家に生まれ、例に漏れず跡部に忠誠を誓い世話をしている。
だから今この場にはいない。

「何のお話してたんですか?」
運ばれてきた冷たい珈琲に口をつけ、のんびりと言う鳳に慈郎の機嫌が一層悪くなった。
「侑士さんと慈郎を仲良くさせよう作戦」
ふふっと滝が笑いを漏らし、鳳も何かを察した。
「何だ、まだ仲直りしてなかったんですか?」
「るっせ…」
「いいじゃないですか。あんなに若くて綺麗な母親なんて……いてっっ!!!」
その言葉の最後を待たずに慈郎の拳骨が鳳の脳天を直撃する。
「慈郎てめぇ!長太郎に何すんだ!!」
抗議の言葉は頭を抱え蹲る鳳の代わりに宍戸が吐いた。
「俺はあんな奴母親だなんて一度も思った事ねぇ!!」
「だからって殴るこたぁねーだろ!!」
「宍戸さんっっ!すみません慈郎さん…」
鳳は痛みで涙目になりながらも、自分の発言の所為で今にも掴み合い喧嘩を始めそうな二人を宥めた。
そんな三つ巴なんて我関せずと、滝は上目遣いで傍観を決め込んでいる。
「滝!てめぇものん気に見てねぇで何とか言えよ!!」
理不尽な宍戸の八つ当たりも軽く受け流し、滝は静かに口を開いた。
「……一つ疑問だったんだけどさ、聞いていいかな?」
「……何だよ…」
相変わらず底の見えない笑みに、慈郎は一瞬身構えた。
何か嫌な予感がする、と。
「そんなに嫌うなら、何でお父様が亡くなった時別れなかったの?慈郎が家主なんだから追い出せたじゃない」
案の定碌な事ではなかった。
以降慈郎はすっかり臍を曲げ、への字に口を縛り何も答えなくなってしまった。
「あーぁ…拗ねちゃった」
「滝さんがあんな事言うからですよ…まぁ俺の失言もありましたけど」
「あいつのはガキの我侭なんだから気にすんな長太郎」
結局機嫌の直らないまま慈郎は帰宅してしまった。
店内に残された三人はまだ動こうとはせず、ゆっくりとお茶を楽しんでいた。
「にしても…結局解らなかったね」
窓の外を見つめながらぼんやり佇んでいた滝が、ふと思い出したように呟いた。
「え?」
「ずっと同居してる理由」
滝は窓の外から視線を外し、目の前の二人ににっこりと微笑んだ。
この場面でなお、笑顔を向けるなんて相変わらず何考えてやがるんだ、と。
宍戸は苦い表情を浮かべ腕を組み考える素振りを見せた。
「別に理由なんてねーんじゃねぇの?飯、風呂、掃除っておさんどんやってくれる便利な召使ぐらいに思っててよ」
「はぁ…確かに」
宍戸の極端な意見にも呑気に賛同する鳳に、些か気の抜ける思いをしながら、再び窓の外へと目を向ける。
「何にも解ってないんだね」
「何がだよ」
「教えてあげない」
そう言い、滝は手元にあった伝票を鳳に押し付け立ち上がった。
「お…おい…教えないってお前…」
慌てて宍戸は言葉も途中に立ち去ろうとする滝の腕を掴み、引き止める。
「お前さっき理由は解らねぇって言ってたじゃねぇのか?ほんとは解ってんのかよ?」
「さぁ…どうだろうね。自分で考えてみれば?伊達にこの数ヶ月見てきたわけじゃないんだし」
クスリと馬鹿にされたような笑みを向けられ、むっとして掴みかかっていた腕を解いた。
「じゃ、俺は先に戻るからね。今日買出し当番なんだ」
「あ…はい……解りました」
拗ねて口を利かなくなった宍戸の代わりに返答する鳳に向けて手を振り、滝は席を後にした。
この喫茶店は跡部も馴染みの店で、
週何度も来るわけではないのだからお前らの珈琲代ぐらい俺が払ってやると豪語する跡部の奢りとなっている。
月毎の附けとなっていて、定期的に樺地や書生らが払いにやってくる。
それが解っている滝は、カウンターの中にいる店主に笑顔でご馳走様と言っただけで店を出て行ってしまった。
「一番簡単な事なのに…誰も気付いてないんだから……」
蠱惑な笑みを湛えたまま独り言を口の中で反芻させる。
この調子だと気付いているのは自分と跡部ぐらいだろう、と思った。
跡部は間違いなく気付いているはずだ。
慈郎自身まだ気付いていないであろう、しかし誰の目から見ても瞭然たる彼の想いを。
何せ想い人を取り合う事になるであろう恋敵の心中、彼が知らないはずもない。
しかも何事にも力半分で上手くやり過ごしていたあの男が、本気かと思わせるような態度でお隣の未亡人を落としにかかっている。
二者が巴となり、互いに牽制し合い一人の男を取り合っている。
だが肝心要の相手は全く違う方向を向いていて二者の想いなど全く気付いていないのだ。
それがこの不安定な均衡を生み出しているのだから皮肉なものだ。
滝はこの状況を楽しんでいた。
もちろん心を痛めている忍足の事は心配している。
だがいつも横柄な態度を取る跡部がお隣さんの前だと、途端に弱気になったりやけに強気になったりと情緒不安定な部分を見せるのだ。
これを面白く思わずして何を面白がろうというのだ。
他人の色恋沙汰はいつの時代も恰好の話のネタだと、滝はいつも少し離れた場所からこの奇妙な人間関係を観察していた。
「…あれ?慈郎……」
大通りを抜けたところで滝は先に帰ったはずの慈郎の姿を見つけた。
普段は気にも留めないであろう店先に立っている。
後ろから声をかけようか、否、暫く見守るか。
一瞬の思考時間だったが、慈郎はすぐにその店先から立ち去ってしまった。
気になった滝は、慈郎の視線の先に何があったのか見に行ってみる事にした。
いらっしゃい、という笑顔のよい店番の老翁に軽く会釈すると、慈郎が見ていた場所をきょろきょろと見渡した。
「………櫛?」
そこにあるのは塗りやラデン細工の施された櫛の数々。
「何や、お兄さんもそれが欲しいんか?」
「え…?あ…えぇ…まぁ。とっても綺麗ですね」
お兄さんも、という老翁の言葉が気になり、滝はそこで会話が終わらないように笑顔でそう返した。
「さっきもお兄さんと同じぐらいの年の子がそれ見てはったわ…よっぽど欲しいんやろ、あの子はもう半月ぐらい通てたかなぁ…
そない高いもんでもあらへんけど……学生君らにはちょっと値ぇ張るもんやさかいなぁ」
老翁の言葉に滝は確信を持った。
慈郎はこれをあの人に贈るか否かで悩んでいるのだ。
確かに一介の学生身分ではとても買えそうにない額のものだが、慈郎はそれに該当しない。
むしろ本柘植のもっと良いものだって買えるだけの財力だってある。
慈郎にとっては、物の値段が問題なのではない。
彼に、侑士にこれを贈るという行為が問題なのだ。
「さぁて…どうしたものかな」
意地悪い笑みを唇の端に浮かべ、並んでいる櫛を順番に見て回った。
「ねぇ、さっきの子ってどれを選んでたか解る?」
「あぁ…その朱塗りで蝶のラデン細工の。その中やと一番のもんや」
「そっか…僕もこれが欲しいな。あぁでも今日は手持ちがないや……次に来た時は絶対に買おう」
滝がその美しい髪を揺らしながら言った言葉に老翁は少し困ったような表情を見せた。
恐らく、見るからに人の良い亭主は次に慈郎が来た時に今日の会話を話すだろう。
他にも欲しがっている子がいたから早いところ買わないと品切れてしまうよ、と。
これで少しは前進するかな、と思い滝はもう一度唇の端を上げ、こっそり笑みを浮かべた。
滝の取ったこの行動が、後々吉と出るか凶と出るか。
この時点では誰も知りえない事だった。

その頃、店を後にした慈郎は夕飯までの時間をどう過ごそうかと、大通りをぶらぶらと徘徊していた。
滝の言った言葉は慈郎の不安定な心を酷く荒れさせていた。
どうして追い出さなかったのか。
これには明確な理由があったのだ。誰にも言った事はなかったが。
「慈郎さん」
突如背後から振る声に、慈郎は身を固くした。
声色の明るさで誤魔化してはいるが、どこか悲しげに掠れた声は特徴がありすぎる。
振り返らずしても誰が出したものか判ってしまう。
「何」
顔を見ないようにそのまま足早に立ち去ろうとしたが、腕を掴まれてしまった。
「捉まえた。何で逃げようとするん?」
こんな往来で喧嘩する事もないか、と慈郎は腕を振り解くだけで逃げようとはせず侑士の顔を見上げた。
四尺九寸ほどの身丈しかない慈郎よりも侑士の方が頭一つぶん大きい。
それなのにどこか頼りなさげで儚く見えてしまうのは錯覚だろうか。
強い西日を避ける為に開いた日傘が慈郎の体にも影を作る。
同じ傘に入る形となり、ぼんやりと侑士の顔を眺めていると、相手は何を思ったのか突然慌て始めた。
「何?あ、顔に何かついてる?」
いつも目を逸らしてばかりの慈郎がじっと顔を見る事など稀だ。
侑士は慌てて袂から小さな鏡を出すと覗き始めた。
「違っ…」
「何やのもぅ…吃驚したなぁ」
否定の言葉に少し気の抜けた返事をし、折角出したのだからと少し髪を整えてから鏡を仕舞った。
慈郎は照れ隠しの為に半歩先を歩き始めた。
その後ろをゆっくりと侑士もついて歩く。
二人分の影が西日に長く伸びている。
こうして並んで歩くのはいつぶりだろうと、侑士は嬉しく思っていた。
「さっきな、日吉君とこに仕出し頼んで来てん」
日吉は鳳と同級で家が料亭を営んでいる。
京の町でも名の通った店で、慈郎の家でも先代先々代と世話になっているのだ。
何か行事があると必ずそこで仕出しを頼むのが慈郎の家での通例になっている。
「仕出し?」
「お父様の一周忌…来月やろ?さっき本陣から電報来てん」
本陣。
その言葉に慈郎の顔が不機嫌に歪んだ。
東京にある本家の本邸は事業の中心の為にあるもので現在伯父夫婦や慈郎の兄らが住んでいる場所。
そして隠居した祖父らが住んでいるのは祇園にある本陣。
つまり実権を握る要人が住まう為の家だ。
古い家であるが故、実際に家を取り仕切るのは新しく事業を継いだ若い世代ではなく、こういった年寄り連中になってしまう。
そんな大将が住まう家だから、昔から本家とは呼ばず本陣と呼んでいた。
頭の堅い奴ばかりが集まっている為、当然のように侑士を家の人間とは認めていない。
だがこういった面倒事は全て侑士任せにしてくるのだ。
相変わらずの勝手都合にますます不信感を募らせる。
侑士を庇うつもりは毛頭ないのだが、こうして本家の人間が出てくるとなると話は別になる。
慈郎は家の人間を侑士以上に嫌っている。
父親が亡くなった時、誰の世話にもならず侑士を側に置き朝顔屋敷に住み続ける事を決めた理由の一つがそれだ。
しかし決定打となった出来事は、侑士が取った行動にあった。
父が亡くなった時、本家やまきの人間らは誰もが位牌に背を向け父の残した銭勘定に勤しんでいた。
そんな中、彼だけは違った。
人の心の黒さに忌々しい思いを抱え、慈郎は葬式が行われていた祇園から朝顔屋敷へと帰った。
それまでの騒々しさとは打って変わって、怖ろしい程の静寂に包まれた屋敷。
庭の楠に止まる蝉の声だけがやけに大きく響いている。
靴を脱いで長く続く畳敷きの廊下を歩き、自室に入ろうとした。
だが向かいにある小さな部屋から物音がする事に気付き、そっと近付いた。
その部屋は箪笥や長持ちを詰め込んだだけの雑然とした納戸。
ふすまを開ければその中央にいたのは、父の着物を抱き、声を殺して泣く侑士だった。
侑士は愛する人を亡くしたというのに、男であるからと葬式にも出席させてもらえなかった。
ここで一人、ずっと泣いていたというのか。
慈郎は胸を締め付けられた。
実の息子である自分ですら、反抗心からこの死を悲しんでいないというのに。
侑士だけが父の死を真っ向から受け止め、そして涙していた。
その事実があったからこそ、慈郎は屋敷から彼を追い出す事は出来なかったのだ。
そしてそんな危うい彼一人をこの屋敷に留めておく訳にはいかないと、それを大義名分としてこの屋敷での同居を決めた。
「もう一年になるんやなぁ…」
ポツリと漏らされた侑士の言葉に、慈郎は酷く重い何かを感じた。
それ以上何かを話す事もなく、二人は無言のまま家路へとついた。
「慈郎さん、御神樹にちゃんと手ぇ合わしてね。神さんが見てはるんやから」
重い沈黙を背負ったまま帰宅し、いつもなら絶対に忘れない習いをうっかり忘れてしまった。
侑士に呼び止められ、慈郎は漸くそれに気付いた。
玄関先にある大きな楠はどこかの神社に立っていたものらしく、この家では御神樹(ごしんじゅ)と呼ばれている。
ここを建てた曽祖父はこの樹を甚く気に入り無理矢理この家に運ばせたのだ。
以来家の守り神として大切に扱われていた。
門をくぐった後は必ずこの樹に向かって手を合わせるのがこの家の決まりとなっている。
馬鹿馬鹿しいとは思うが、すっかり習慣となってしまった今となれば慈郎も身に染みていて考えずともその行動を取っていた。
だが今は他所事ばかりが頭を支配していた。
そういえば幼い頃、遊んで帰った慈郎を玄関先で掃除をしていた母がよくこうして自分を咎めていた。
今、侑士が言ったそのままの言葉でだ。

傾きかけた西日が髪を結わえた鼈甲のかんざしをキラリと光らせる。
もしかしたら、この男は母と何か縁があるのかもしれない。
慈郎は手を合わせ目を伏せる侑士の横顔を眺めながら、ふとそんな事を考えた。


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