嬉々白茜
梅雨の中休みともいえる快晴の日、太郎太刀は朝から主に呼び出された。
何かあったのではと朝餉も取らず急ぎ社へ向かったが、その下の渡り廊下で待ち構えていた近侍の光忠に大きな平かごを差し出され面食らう。
「これは?」
「えびらだよ。二の廓にある梅の実を収穫してきてほしいんだ」
「はあ……で、主のお加減は?」
臥せった当初、主自身が言っていたように梅雨明けに近付くにつれ体調は少しずつ快方に向かっていて、本復ももう間もなくと聞き安堵した。
「何かあったのではと肝が冷えましたよ」
「ごめんごめん。でも主が太郎太刀君が丹精込めて世話した梅を本当に楽しみにしているから。このお役目、頼んだよ」
「分かりました」
渡された二枚の角えびらは立て掛ければ太郎太刀の腰ほどの長さもあり、これがいっぱいになるほど取れればいいがと思い唇に笑みが乗る。
するとどこに隠し持っていたのか、光忠は小さな丸いえびらも次々差し出してくる。
「あとこれも。これもこれも、これも持って行って。本丸に残ってる短刀達も連れて行ってあげてね。薬研君は膳所の当番だから行けないけど、他の子は皆お願いするよ。あの子達もこういう果実の収穫って初めてだろうから、楽しんでくれるんじゃないかな。ああ、そうそう!背の高い人は蜻蛉切君以外皆出払っちゃってるから手伝いは彼に頼んでね」
太郎太刀の手に十枚程えびらを積み上げながら一気にそう畳み掛けると、じゃあ僕は収穫した梅を保存する為の材料揃えに買物に行ってくるからと言って光忠は足早に立ち去ってしまった。
落ち着いた物腰の彼にしてはいやに性急で、畳み掛けるように言いたい事だけを言って相手の返事も聞かずに去るなど珍しい事もあるものだ。
それほどまでに準備に手間が掛かるのだろうかと首をかしげる。
「太郎太刀ー!おはよう!」
光忠が水屋へ向かった後、その後を追うように離れから乱が渡ってくる。
「おや、乱殿。おはようございます。ちょうど良かった」
「何?ボクに何か用?」
嬉しそうに目を輝かせる乱に先刻光忠に言われた事を伝え、朝食後共に梅林へ向かおうと誘った。
彼に言っておけば皆に伝わるだろうと思い、他の者は誘わずその足で表戸口へえびらを置きに行き、大広座敷へ朝餉を摂りに向かった。
「おはようございます、太郎太刀殿」
広い座敷に置かれた座卓に着く人はなく、皆早くに朝餉を終えてしまったようだ。
そこにいた蜻蛉切もすでに食べ終えた後のようで、からの器を乗せた膳を水屋に下げに行くところだった。
「おはようございます蜻蛉切殿」
「これは珍しい。いつもはお早い太郎太刀殿が最後とは」
出撃した部隊や遠征部隊はもちろんのこと、留守番の者達もすでに朝餉を終えていると知り、片付けを手間取らせるわけにはいかないと蜻蛉切と共に水屋へ向かう。
「あの……蜻蛉切殿、今日は非番でしょうか?」
「ええ。太郎太刀殿も?」
「私は主より命を……二の廓の梅林で梅の実を収穫するように仰せつかりました」
「おお、では是非自分にも手伝わせて下され」
元よりそのつもりにしていた太郎太刀は改めて願い出て、蜻蛉切もそれを快諾する。
この後表戸口の前で集まるよう伝え、最後の一つとなった朝餉の膳を持って大広座敷に戻った。
特に意識はしていないが、普段は食べるのが遅いと次郎太刀によく指摘されていた。
だが己はこれほどまでに早く飯が食べられたのかと驚くほどの速さで全てを平らげる。
膳を下げ、内番着に着替える為一度部屋に戻る。
部屋の前にある廊下が俄かに騒がしくなり、少しだけ襖を開けて覗くと短刀達が全員揃って母屋へ向かうところだった。
各々はしゃぎ声を上げて楽しみにしている様子に安堵し、急いで着替えると表へ向かった。
そこにはすでに短刀達がいて、置いてあった小さなえびらを持って目を輝かせている。
「お待たせしました」
「あ、太郎太刀!蜻蛉切ももう来てるよ!」
乱の示す方に視線を向ければ、角えびらに竹の脚立を二つも抱えた蜻蛉切が笑顔で待っていた。
「一つお貸し下さい。重くなくとも歩き辛いでしょう」
「いや、それより、皆が迷子にならぬよう見守ってやってくだされ」
「は、いや、しかし……」
「自分は大事ござらぬ故」
蜻蛉切がそう言って先に表へ出るや否や、乱や厚に背を押され太郎太刀も庭へ飛び出る。
「わっ……あまり急ぐと危ないですよ」
「早く早くー」
身の丈半分ほどの者に手を引かれ背を押され、歩きにくい事この上ない。
だが今までは太郎太刀を怖れ遠巻きに見ているだけだった五虎退や小夜左文字も輪に加わり手を引いているのが嬉しく思える。
普段の内番時には長い道のりも、皆で話しながら歩けばあっという間に辿り着く。
二の廓の端にある梅林は甘酸っぱい香りに包まれていた。
花の頃は微かに香る程度だったが、果実は思い切り自己主張して芳潤な空気を辺り一面に振りまいている。
目を瞑り、胸いっぱいにその香りを吸い込んでいると、いつ間にか隣へやってきていた蜻蛉切も同じように深く息を吸い込む。
「良き香りですな」
「ええ、とても」
「ですが未熟な梅は毒がある故、そのまま食べてはなりませんぞ」
「えっ……」
一つ味見をと思い、目の前になる実を今まさに摘み取ろうとしていた太郎太刀は動きを止め、思わず物悲しげな顔を蜻蛉切に向けてしまった。
「ああ、そのような顔をなさらずとも!然るべき下ごしらえをすれば食べられます故」
「そ、そうですか……」
慌てふためき必死に言葉を尽くす蜻蛉切に、己は一体どれほど物欲しげな顔をしていたのかと恥ずかしくなる。
照れて顔を上げなくなった太郎太刀の心中を察してか、蜻蛉切が足元にえびらを並べ話を変えた。
「黄色く熟したものは梅干しに、青梅は砂糖漬けにいたす故、皆で励みここに沢山採りましょうぞ」
梅干しならば太郎太刀も知っていた。
食卓には必ず並んでいたからだ。
この実をどのようにすればあの真っ赤な梅干しになるのだろうかと、恥じていた気持ちも消えまじまじと木になる実を眺める。
短刀達もそれぞれに木に手を伸ばし、各々収穫を始めている。
太郎太刀も熟したものを狩り始めた。
えびらがいっぱいになれば、普段収穫に使っている大きなかごに中身を移し、また木に向かう。
そうしてしばらく黙々と作業していると、不意に袴を引く感触があり、視線を下ろせば今剣が立っていた。
「どうしました?」
「かたぐるまをしてください」
細い両手を伸ばし、笑顔で願う今剣の姿に大いに困惑する。
このように小さな者を抱えても大丈夫なのだろうかと考え込んでいると、今剣が沈み込んだ声で駄目ですかと呟く。
決してそうではないと勢いよく頭を振った。
「し、しかし高いですよ?大丈夫なのですか?」
「だいじょうぶですよ。いわとおしのほうが、おおきいですから」
言われてみれば、と我に返った。
己より大柄な者などこの世に居ないように思っていたが、この本丸には多からずとも存在する。
彼が懇意にする岩融もまたその一人だった。
大柄な者と接するに慣れた今剣ならば大丈夫だろうかと太郎太刀は意を決して身を屈め、今剣に腕を差し出した。
すると慣れた様子でするすると体を登り、ちょこんと右肩に座った。
「いきますよ」
「はーい」
今剣の脚を支えて立ち上がると、辺りから歓声が湧いた。
「あっ!いいな、今剣!太郎太刀、俺もやってくれよ!」
竹脚立はすでに別の者が使ってしまっているようで、溢れ出した愛染が羨ましげに見上げてくる。
「で、では順に……」
流石に二人一緒に乗せることは出来ないと思い、一先ず待ってくれと膨れる愛染を宥める。
「然らば、自分が肩を貸そう」
短刀達が脚立から落ちないよう見守っていた蜻蛉切が名乗り出るや否や、愛染だけでなく他の者も肩車をと手を挙げた。
順を決めよと言われ、短刀達は輪になって三すくみ拳を始める。
何度かの勝負の後、決着がついたようで愛染の後ろに小夜が並んだ。
「二人とも、しかと掴まられよ」
右肩に愛染を、左肩に小夜を乗せた蜻蛉切は、二人分の重さなどないようにさっと立ち上がり梅の木に近付いた。
すぐ目の前に迫る木の梢に歓喜の声が湧く。
今剣一人を支えるので精一杯の太郎太刀は、何とも惚れ惚れする男振りかと感心した。
短刀達の身の目方を思えば太郎太刀も二人抱えるぐらいは出来るだろう。
だが均整崩れてしまえば恐らくは支えきれない。
短刀達も人形ではないのだからきちんと受け身を取り、軽い身のこなしで怪我もしないだろう。
それでも心の奥に潜む不安は拭いきれない。
「たろうたち?どうかしましたか?」
「すみません。もうこの辺りは採りつくしましたか?」
手の届く範囲から実が消え、移動を待っていた今剣に声を掛けられ我に返る。
辺りを見渡し、まだ誰も手を付けていない木を見つけると、そちらへ向け一歩踏み出す。
だが何かに足を取られ、体が大きく傾いた。
危ないと叫ぶ短刀達の声に何が起きたかを察し、太郎太刀は肩に乗った今剣を守ろうと手を伸ばす。
しかしそれより先にひらりと身を翻し、今剣は梅の枝へと飛び移った。
太郎太刀も膝は折れたものの体ごと倒れることはなく、傷一つ負わずに済んだ。
「太郎太刀殿!大事ございませんか?!」
酷く驚かせてしまったようで、隣の木の側から蜻蛉切の切迫した声が耳に届く。
彼の肩に乗る二人も心配そうに視線を寄越している事に気付き、まだ動揺は残っているが努めて冷静を装った。
「私は何ともありません。今剣殿、怪我はありませんか?」
「ぼくはだいじょうぶですよ」
頭上の今剣も無事だったようで、枝に座りひらひらと手を振る姿にほっと一息吐く。
「みのかるさにはじしんがありますから。たとえたろうたちのかたからおちてもへいきです」
「そのようですね」
立ち上がり、手を差し出すと今剣は何の躊躇いもなく再び太郎太刀の肩に乗った。
今剣が収穫した実はいくつかえびらから落ちてしまったが、彼自身が無事であることにほっとする。
次はこのようなことにならないよう気をつけると謝ると、気にしていないので早く続きをと急かされた。
それから皆で手分けして大方採り終えた頃、遠くより呼ぶ声がした。
声の方へ目を向ければ、大荷物を抱えた薬研が歩いてきている。
「弁当、持ってきたぜ」
もうそんな時刻であったかと高くなった太陽を見上げ、片付けを促す。
腹を減らしていた短刀達は喜び、勇んで畑の端にある井戸へと向かった。
手を洗い、顔についた泥を落とし戻ってくると、二の廓にある数寄屋の縁側に並べられた彩りよい重箱の中身に歓声を上げる。
「二人も早く手を洗ってきな。みんな食われちまうぜ」
道具を片付けていた蜻蛉切と太郎太刀に向けそう言う薬研の言葉も強ち誇張ではなく、すでに重箱の半分が攫われてしまっている。
皆両手におにぎりを持ち美味しそうに頬張っていて、それまで感じていなかった空腹感が太郎太刀を襲う。
それと同時に腹の虫が鳴き、反射的に蜻蛉切の顔を見上げる。
どうか聞こえていませんようにという願い空しく、しっかりと耳に届いてしまっていたようで驚いたような顔を返されてしまった。
「す、すみません……」
「なんの。我々も早に手を洗いに参りましょう。本当に皆食べられてしまいますぞ」
何がそんなに恥ずかしいのかと思うほど顔が熱くなるのを感じ、蜻蛉切から顔を隠し井戸まで足早に駆ける。
泥と葉の汁で汚れた手を洗い、冷たい水で顔を冷やしてようやく気持ちも落ち着いた。
いつの間にか追いついていた蜻蛉切が差し出してくれた手ぬぐいで手と顔を拭う。
「おや、袴が……」
桶を地面に置いた際視線が合わさったようで、蜻蛉切は太郎太刀も気付かなかった袴の泥汚れに目をやった。
太郎太刀の手にあった手ぬぐいを受け取ると水桶に浸し、固く絞って丁寧に拭き始める。
「先程膝をついた時に汚してしまわれたのでしょう。本当にお怪我はありませんか?」
「はい、私は……何とも」
これは作業着なのだから汚れなど気にしなくてもよいと言うが、蜻蛉切は笑顔でそれを撒き、泥を綺麗に拭い取る。
「それはよかった。あなたが膝をつかれているのを見て肝が冷えましたぞ」
「……私は、今剣殿に怪我を負わせてしまったのではと肝が冷えました」
「あの方に限らず短刀達は皆身軽故、我々が思うよりずっと丈夫で怪我もしませんぞ」
「ええ、本当に。この体躯に怖がられているとばかり思っていましたが……本当に怖がっていたのは私の方でした」
先日次郎太刀が窘めていたのはこの事であったかと、ようやく理解が出来た。
太刀には太刀の、短刀には短刀の強みというものがあるのだからめったやたらと怖がり遠ざけるような真似はしなくてもよい、と。
そのようなつもりはなかったのだが、怖がられるより先に自分から距離を置いてしまおうと思っていたことは確かだった。
「では今日よりは更に皆と親しくなれますな」
「そうあれば良いのですが」
「太郎太刀殿はお優しい故、皆すぐに懐いてくれましょう」
ほら、すでに、と蜻蛉切が指し示す先には平野と前田がいて、太郎太刀へ向け駆けている。
普段から折り目正しい二人だが、非番の今は少し心安く接してくる。
お二人とも早くおいでくださいと太郎太刀の手を引き、皆の輪に戻ろうと再び駆け始めた。
* * *
ようやく梅雨空もひと段落したようで、雨天続きから徐々に晴れ間も増えるようになってきた。
先日太郎太刀や短刀達皆で手分けして刈り取った梅は、塩漬けや砂糖漬けにされ、納屋で本格的な梅雨明けを待っている。
部屋の縁側を陣取る太郎太刀は一つ溜息を吐き、曇り空を見上げた。
「あーにき!また溜息なんて吐いちゃってさ。幸せが逃げちまうよ」
どうやら梅の実を食すことを楽しみにしていたらしい兄は、塩漬けにされて以降いつ食べられるのだろうかとそわそわしているのだ。
梅干しは少なくとも半年は待たなければ美味くないと光忠に言われてしょげていたのも記憶に新しい。
衣食住全てに興味の薄い太郎太刀が何かに興味を持ち執着することは珍しく、次郎太刀はそれを受容していた。
折角ひと形となり、生を受けたというのにぼんやりと日々を過ごし、言われるまま戦うだけの状態であった最初の頃を思えば今の太郎太刀の姿は実に面白く、安心出来るものだった。
「次郎太刀、あなた出立の刻限でしょう?こんなところにいていいのですか?」
「ああ、まだ支度の終わってない奴がいるから四半刻待ってくれって言われたのさ」
今回の遠征はかなり遠方まで行き、泊りがけ仕事となるため部隊長も色々と支度がかかるのだろうといえば太郎太刀も納得したように頷いた。
そういえば先日の梅狩りの日も前日から大わらわであったなと思い返し、次郎太刀は苦笑いを酒で身の内に流し込む。
何とかして太郎太刀と蜻蛉切を親密にさせ、尚且つ兄と短刀達を仲良くさせるためのいい機会とすべく、事情を知る者で一計を案じたのだ。
背の高い者を優先的に隊に組み込み本丸不在として逃げ道を塞ぎ、蜻蛉切に頼らざるを得ない状況を作り、更に戦場に出ない他の者も適当に理由をつけて遠征へ向かわせ半日は帰って来ないよう努めた。
その甲斐あってか太郎太刀は蜻蛉切を頼り、また短刀達とも深く交流を持てたようで、あの日以来よく太郎太刀に短刀が話しかける様子が見受けられた。
それにホッとしたのも束の間、誤算も多かった。
思っていた以上に短刀達が懐いてしまい、本丸にいる間も四六時中誰かしらが太郎太刀の側にいるのだ。
事情を知る乱や、事情を話してはいないが察しているであろう薬研がそれとなく引き離したりもするのだが、また別の者がやってきて堂堂回りとなる。
太郎太刀もようやく打ち解けられたのが嬉しいのか、際限なく短刀達の相手をするのだ。
これでは蜻蛉切と二人きりで過ごす時間がなくなってしまう。
また一つ計を案じねばなるまいと爪を食んで考えていると、廊下側から掛ける声があった。
その声の主気付くと次郎太刀はハッと顔を上げ、そのまま適当な言い訳をして隣にある自室へと縁側伝いに戻った。
だが障子は開けたままに、息を潜め隣の部屋の様子を伺う。
聞こえてくるのは蜻蛉切の声で、部屋の間越しにもよく届く声にほくそ笑む。
「つい先程まで次郎太刀もいたのですが……陣触れのようで出て行ってしまいました」
「おや?笛は聞こえませなんだが……」
それはそうだろう、陣触れまではまだ少し暇がいるのだ。
そんな事より早く要件を聞いてやれと、相変わらず気の利かない兄を心の中で叱り飛ばす。
「この部屋は良き香りが……梔ですな」
「ええ、主の部屋にあった鉢植を賜りました。私がこの香りを甚く気に入ったものですから。ねだったようで心苦しいのですが……」
「なんの。香りまで美しきこの花、主も太郎太刀殿に似合いだと思い下されたのでしょう」
近頃太郎太刀の部屋は縁側に置かれた梔の鉢植からする甘い香りでいっぱいだった。
雅とは縁遠いと言いつつ、蜻蛉切はそのような変化を汲み取りしっかりと褒める。
梔の独特の香りは無骨な者ならば敬遠しそうなものだが、また歯の浮くようなことをさらりと言ってのけて聞き耳を立てる次郎太刀の腸を傷めつけていた。
「蜻蛉切殿、それは?」
何かに気付いたような太郎太刀の言葉の示す先が気になって仕方がなく、二人きりにしてやろうと座を退いたのは間違いだったかと思わず舌打ちが漏れる。
もどかしい、と思わず壁を殴りそうになるが寸止めで我慢する。
「……次郎太刀?何してるんだい?」
「あっ!しっ!しーっ!声が大きいよ!」
人の部屋に勝手に入ってきていることよりも、声の大きさが気になると、降って湧いた石切丸の口を塞ぐ。
「まさかまた聞き耳を?」
「人を悪し様に言ってんじゃないよ。あんただって気になるんだろ?」
だったら大人しくしなと言うまでもなく、好奇心の勝った石切丸は息を詰め聞こえてくる会話に耳を澄ました。
「綺麗な緑ですね……これがあの梅ですか?」
「はい。光忠殿に頼み少し分けて頂きました故、すぐに食べられる甘露煮にしてみました」
「甘露煮……」
二人の会話に次郎太刀と石切丸は同時に呟き顔を見合わせる。
その名に聞き覚えがあったのは、先日の梅狩りの後、大量に積み上がった青梅を見た三日月宗近が言ったのだ。
茶請けに梅の甘露煮が食べたい、と。
だが光忠も歌仙も珍しくそれを盛大に嫌がり、結局作ってもらえなかったと三日月は落ち込んでいた。
この本丸の者は皆あの好々爺に甘く、だいたいの我儘は文句を言いつつも誰かが聞いていたりする。
それをあの二人が断ったという事実が気になり、それがどのような過程で出来上がったものなのかを大倶利伽羅に調べてもらった。
するとその工程に二人のあの嫌がりようの原因を知った。
さして複雑なことはしないのだが、とにかく時間がかかり面倒な上、繊細な作業が多くて神経をすり減らしそうな料理だったのだ。
それを蜻蛉切は作ったというのかと驚嘆させられる。
仕上がりがどんなものかは解らないが、太郎太刀の口ぶりからして美しいのだろう。
つややかで玉のようだと弾んだ声が聞こえてくる。
「やるじゃないのさ蜻蛉切……!兄貴の心も胃の腑もがっちり掴んでる!」
「次郎太刀、声、声」
思わず声を上げてしまい、自身の手で口を塞ぎ、目ですまないと合図する。
再び耳を澄ませれば、甘酸っぱくて美味しいという太郎太刀の声と、安堵する蜻蛉切の溜息が聞こえてきた。
念願叶い、ようやく口にした梅の実によほど感動したのか太郎太刀は珍しく饒舌になっている。
「冬に剪定をしていた時に思っていたのです。この木になる梅とはどのような味がするのかと……ようやく願いが叶いました。本当に美味い。甘酸っぱくて……良き香りが口の中にいっぱいに広まる」
「……よかった。太郎太刀殿の口に合うたようで何より」
蜻蛉切のほっとした声にかなりの緊張を取って悟る。
初めて作る料理を他人に出すだけではあれほどの緊張感などないだろう。
「兄貴の奴ほんと大事にされちゃってさー……」
「おや、やきもちかい?」
無意識に口を吐いた言葉は石切丸の耳にも届いていたようで、にやりと唇を上げそれを肯定する。
「大事な大事な兄貴だからね」
格好良く決めたつもりだったが、続いて聞こえてくる会話に二人の動きも思考も止まった。
「その……太郎太刀殿が、短刀の皆と仲良うなったのは何より祝着と思っておったのですが……あなたのお傍にはいつも誰ぞかがいて……もう自分など構ってもらえぬかと考え至り、あの……」
それはつまり、他の者に埋れ己の存在が忘れられてしまうのではとの憂いから、太郎太刀の願いを叶えるべくいそいそと厨に立ち、手間も時間も惜しまず調理していたというのだろうか。
一体何を言い出すのだと二人に見つからない限界まで縁側に近付き耳をそばだて、次郎太刀と石切丸は互いの肘で腹を突き合い、目で会話する。
「それは……私が蜻蛉切殿を等閑にしているということでしょうか?」
「断じて!断じてそのようなことは……!!自分が勝手に……屈折した思いに悶々としていただけであって太郎太刀殿は何の咎もありませぬぞ!」
「よかった。無意識にでもあなたに無礼を働いていたのかと思いました」
「あ、あなたが気に病むようなことは何もありませぬ。これは自分の気の持ちようと言いますか……」
この子供じみた独占欲を一体どう捌くのだろうかと興味津々の表情の次郎太刀はいつになく生き生きとしていた。
それは石切丸も同じで、普段の涼しい顔など微塵も感じさせない崩れた表情で事の成り行きを聞き入っている。
「私はたとえ誰と縁を結び、誰と親しくしようとも、蜻蛉切との縁を大切にしたいと思っております」
どんな表情でそんな事を言っているのかが気になると障子から顔を出し縁側を覗き込もうとする次郎太刀を石切丸は必死に止めた。
ここで覗きをしている事が露見すればこの後の言葉が聞けないではないか、と。
「蜻蛉切殿には何か特別な縁があると、そう感じるのです」
「おっ、思い出されたか?!」
「……はい?何をでしょう?」
一瞬、記憶を取り戻したのだろうかと次郎太刀も思った。
だが冷静になった耳に刻まれたのは何も解っていない兄の声だった。
次郎太刀の高揚した気持ちが一気に冷め、更に落ちる様子が見て取れ、石切丸は慰めるように肩に手を置いた。
しかしそうそうに落ち込み悩むような性格ではない次郎太刀はすぐに気持ちを切り替え再び耳をそばだてる。
「蜻蛉切殿がいつも人心地でいられる為に、私は何をすればよいのでしょう?私はあなたが思い煩う様を見たくはありません」
それを本人に聞くのかと次郎太刀と石切丸の心に同時に浮かんで、必死に心の声を飲み込む。
喉に出かかった言葉を何とか嚥下し、蜻蛉切の言葉を待った。
「そ、それは……」
「それは?」
ごくりと二人の喉が鳴り、危うく隣室に届いてしまったのではと思うほどの静寂が太郎太刀と蜻蛉切の間に流れる。
「時折でよいので、こうして茶などを飲みつつ……また二人で花などを愛でれればと……」
枯れた爺のような言葉に期待して膨らんだ次郎太刀達の胸が萎み、へなへなと力なくその場に倒れこむ。
黙って唇を、尻を差し出せとさえ言われても頷きそうなこの雰囲気でそれはないだろう。
じれったい思いを通り越し、若干の苛立ちさえ覚える欲のなさに思わず床を殴りつけそうになったが、それは寸前で石切丸の掌で止められる。
必死の形相で隣室を指差し何かを訴える視線を送れば石切丸も百も承知と深く頷いた。
「そのような事でよいのですか?」
「もちろん。戦に荒む心を癒すにあなたと過ごす時は至上。桜の衣に適う報いですぞ」
「私もあなたと過ごす時が日々の糧と思っております。このような事を願ったり叶ったり、というのでしょうか」
よく言った兄貴という心の中の絶叫を必死で飲み込み、顔を両手で覆った次郎太刀は畳の上を大きな体でごろごろと転がる。
一頻り暴れて気を落ち着け石切丸に視線をやれば、指で眉間を押さえ壁に手をつき肩を震わせていた。
「何なんだい、あの二人は……何なんだい君の兄君は」
「あ、あたしに聞かないどくれよ」
「あれで恋仲でも何でもないなんて、何の権謀術数だい?!」
「うちの兄貴がそんな器用な真似出来るわけないだろ?!」
「だから怖いんじゃないか!」
何の裏もない言葉だからこそ恐ろしいという石切丸の涙ながらの訴えは尤もだった。
しかし思った以上に声が大きくなってしまい、隣から次郎太刀いるのですか、という声が届く。
面倒な事になる前に逃げなければと転がるように部屋を出る。
立ち上がる時に若干もたついた石切丸は部屋に置いてきてしまったが、無事逃げ切れただろうかと他人事のように思う。
恨みを買ったかもしれないが遠征から戻った頃には忘れていると信じて、遠征部隊の皆を待つため一足先に表へと向かった。