稀椿
その唐突な問い掛けに、次郎太刀は思わずといった調子で口にした酒を吹き出した。
目の前で弟の粗相を見せられた太郎太刀は珍しく嫌そうな顔を隠さない。
「汚いですね」
「いやいや!兄貴が突然変な事言うからだろう?!あたしは悪くないって!」
汚いと言いつつも懐から手ぬぐいを出し、吹いた酒が溢れてしまった次郎太刀の着物を拭いてやる優しさは太郎太刀にもあった。
着物に広がるシミと次郎太刀の態度に不服そうな溜息を聞かせる。
「何が変なのか。真面目に聞いているんですよ」
真面目ならば余計にたちが悪い。
だが己が兄がこの手の冗談を言うような性格でない事はよく良く知っているのだ。
じっと見つめる目は真剣そのもので、それ以上茶化す事も出来なくなってしまった。
「ちゃんと答えてあげなよー」
兄の横で他人事のような顔で呑気にあたりめを囓る蛍丸が憎々しく感じられる。
珍しく大太刀が一人も欠けずに本丸にいて、皆で広間に集まり角火鉢を囲み昼間から酒を飲んでいたのだが、会話の途切れた境目に不意に太郎太刀が口にしたのだ。
貴方は私を大事に思ってくれているのでしょうか、と。
太郎太刀の問い掛けは突然で、何の前触れもないものだったが答えは一つだった。
「ああもう!大事さ!大事に決まってんだろう?!たった一人の兄貴が大事じゃないわけない!」
こんな事を聞いて一体何だと言うのかと疑問も尽きないが、それよりも次郎太刀の答えが不満なのか太郎太刀は眉を顰めている。
本当に何だと言うのだ。
これでは告白し損ではないかと、飲み過ぎだと渋る兄に酌をさせて酒を煽った。
顎に手を当て、何か考える素振りを見せる太郎太刀に石切丸が尋ねる。
「何かあったのかい?誰かに大事だって言われたとか」
「ええ、蜻蛉切殿に」
その言葉に、今度は蛍丸が酒を吹き出す番だった。
丁度いい場所に盃があり、着物を汚した次郎太刀と違い大惨事とはならなかったが、口に含んだ酒は全て盃に逆流してしまった。
「げふっ!!え……なん……けひょっ!」
あの色恋に鈍重な男も己の気持ちに気付き、思いの丈を太郎太刀に明かしたのか、と前のめりに聞きたかった。
だが蛍丸の細い気管に入ってしまった酒が邪魔をして言葉が上手く出てこない。
代わりに事情を察した石切丸が、咽せる蛍丸の丸くなった背を摩りつつ言葉を続ける。
「一体何があったの?詳しく教えて」
「何、とは……?何もありませんよ」
「なっ、何もなくそんな話になるわけないだろ!」
目を見開いて頬を紅潮させ、詳しく話せと詰め寄る次郎太刀にも動じる事なく続けた。
「先日庭で……」
「庭で?!」
全員が一斉に固唾を飲み、前のめりに太郎太刀の言葉を待った。
庭で、という言葉に、やはりついに言ったのかと高まる期待を抑えきれない。
だが続く言葉は思っていたものと違っていた。
「……じゃ、何かい?つまり、兄貴はその言葉を聞いて落ち込んだってのかい?」
「はあ……蜻蛉切殿は大事に思ってと言っていましたが、やはり私を頼りないと思っているのではと。先程あなたに言われた時と、蜻蛉切殿に言われた時とは違う心持ちだったのです。きっと蜻蛉切殿は私を童のように思い、気遣ってくれていたのでしょう」
違うだろう、そうじゃないよ、と。
顔には出たが誰一人として口は開けなかった。
弟が兄を大事に思う気持ちと、蜻蛉切が抱いているであろう気持ちとは違なるものなのだ。
これは誰も確認したわけではないが、誰もが確信していることだった。
蜻蛉切は太郎太刀に懸想している。
恐らく以前の主の手元で何かがあったのだろう。
その後離れ離れになり、太郎太刀はその記憶を失くし、蜻蛉切はそれを覚えている。
その辺りの事は本人に聞かなければ分からない。
だが余計な事をして事態を拗らせるわけにはいかない。
さてどうしたものかと次郎太刀達は互いに目で会話をしていると、回り廊下と部屋を仕切る障子に影が映った。
「失礼致す」
「蜻蛉切殿」
何故このタイミングでやって来る、と声も無く飛び上がり驚く三人の側で一人落ち着いた太郎太刀が対応に出る。
障子ににじり寄り、細く隙間を開けた後、影と同じだけそれを開いた。
「如何なさいましたか?」
「あ、いや……皆おいででしたか……出直すといたしましょう」
戸口で折り目正しく座る太郎太刀と、室内で寛ぐ大太刀達を交互に見ると、蜻蛉切は頭を下げ後ろに身を引く。
「何かご用だったのでは?」
「いや、何、大した事では……」
踵を返し、立ち去ろうとする蜻蛉切をただ見送るだけの兄を見て、次郎太刀は慌てて呼び止めた。
「待った!!兄貴に用なんだろう?あたしら暇持て余して酒かっ食らってただけなんだよ。気にせず連れてっとくれ」
「はあ……では、遠慮なく。あなたに見せたいものがあり呼びに参ったのですが……お連れしても構ませぬか?」
「ええ、もちろん。では皆は酒宴を続けていてください」
太郎太刀の呼びかけに皆片手を挙げ、間延びした返事で元気に諾を示すが、誰一人としてそれを守ろうとはしなかった。
一体何が起きるのかと好奇心が抑えきれず、すぐさま二人の後を追っていく。
物陰に隠れ切らない次郎太刀と石切丸を制し、先鋒を買って出た蛍丸は二人に見つからないよう慎重に足を進める。
やがて二人は庭の見える母屋の縁側へとたどり着いた。
見つからないよう距離は保ちつつ、声は聞き取れる絶妙の場所を陣取ると、そっと壁の端から顔を出し二人の様子を伺った。
「主より賜ったので……これをあなたに見せたく」
「これは……何の花でしょう。見た事がありませんね」
それは覗き見る三人も見た事のない花だった。
蜻蛉切の手にある小さな鉢に植えられた木に付いた花は、姿形は椿のそれであるが、あんな色のものは目にした事がない。
蝋梅のような艶のある黄蘗色が美しいのだが、今はそれよりも二人の動向が気になると次郎太刀達は耳に手を翳し、聞こえてくる会話に全神経を集中させる。
「椿にございます」
「椿……椿とは、赤や白なのでは?」
冬の間、殺風景な庭を鮮やかに彩る椿の花は庭を区切る生垣になっていて、この本丸では身近な存在だった。
だが植わっているものは赤や白、時折桃色や斑模様が混ざっているだけで、あんな色はない。
「この色はとても珍しいものなのだと主も仰っていました」
「美しいものですね。これを主から?」
「ええ……先の出撃にて、初めて誉を賜りその褒美にと」
「それはおめでとうございます」
ようやく桜の衣を賜ったのですねと自分の事のように喜ぶ太郎太刀に、蜻蛉切ははにかんだ笑みを返している。
どうやら自分達の知らない間に、何やら二人の世界が出来上がっていたらしいと思わず鼻で笑い飛ばしそうになる。
「いえ、その、今本丸には同じく誉を拝した者が大勢いる、そなたは折角の初の武功一等なのだからと主がこれをと……」
「左様で。主も粋なことをなさる」
「いやはや、しかし、喜びのあまり自ら誇示するような真似をしてしまい……これでは自分も童と変わりませぬな」
「蜻蛉切殿のそのように素直な様、とても好ましく思います」
太郎太刀が深く考えずに放ったであろう言葉に蜻蛉切の顔がみるみる赤く染まっていく。
「あれ兄貴何も考えてないよ、絶対」
「うーん……でも蜻蛉切殿の方も照れてはいるけど好いた人に言われてっていうより子供じみた事をしたって方に照れてないかい?」
二人にバレないよう声を潜め、次郎太刀と石切丸が視線を交え会話する。
その間も抜かりなく観察していた蛍丸が、二人が奥の部屋に消えていったと指差した。
「あっ!障子閉めちゃったら見えないじゃないかい!」
「しかし、あの様子だと何もありそうにないけどね」
「どうせお茶でも飲みながら、あの珍しい椿眺めてるんじゃないのー?」
焦れったいと爪を噛む次郎太刀と蛍丸をまあまあと宥め、石切丸は二人の消えた先を鋭く眺めた。
野暮だとは自覚しているが、気になるものは仕方ないと足音を殺し、部屋に近付く。
声の小さな太郎太刀の方はよほど気を付けなければ聞き取れないが、張りのある声で話す蜻蛉切の方は障子の先にも充分に聞こえてくる。
石切丸は近付いても大丈夫、と腕で大きな輪を作り二人に合図した。
すかさず近付き障子に耳が付きそうなほど顔を寄せる。
しばらくは他愛ない話をしていたが、ふと思い付いたように太郎太刀が尋ねた。
「何故私にこの花を見せようと?」
「この花の色を見た時、あなたの瞳を思い出した故……並んでいる様をこの目で見たかった。主より花を賜り、あなたと並べ眼福に預かる。これ以上の褒美はありませぬな」
蜻蛉切の歯の浮きそうな言葉に、次郎太刀は甲高く叫びそうになり、己の手で口を押さえ何とかそれを堪える。
相変わらずすごいやと口の中で呟く蛍丸も、緩みそうな口元を手で押さえている。
石切丸に至っては、何を思ってか縁側の柱にがんがんと頭をぶつけている。
一見奇行にも思えたが、その気持ちはよく解ると次郎太刀は石切丸の肩を叩き、うんうんと頷いた。
「……君達何してるの?」
縁側で大勢が声もなく身悶える様はさぞかし気味が悪い事だろう。
湯呑みを乗せた盆を手にした燭台切光忠が怪訝そうな表情を浮かべて皆の背後に立っていた。
声が大きいと慌てて次郎太刀が飛びかかり口を塞ぐ。
幸いにも二人の世界に浸る兄達には届いていないようで、何事もなかったように会話が続いている。
ホッとした次郎太刀はそのまま光忠の背を押し、その部屋の前から離れた。
「蜻蛉切が帰ったって聞いたからお茶持ってきたんだけど……何かあったの?」
「何でもないよ!馬に蹴られたくなきゃ、今はあの部屋に近付かないことだね」
「馬?」
気配に鋭い武人気質の蜻蛉切ならばいい加減この騒ぎにも気付くかもしれない。
そうなる前に逃げなければと、事情の飲み込めない光忠と未だ部屋に張り付き中の様子を伺う蛍丸達の頭を小突き回収すると、三人を小脇に抱えた次郎太刀は先程皆でささやかな酒宴を開いていた部屋に戻った。
「で、一体どうしたんだい?」
蜻蛉切に淹れた茶を啜り一服すると、光忠が心配そうに言葉を切り出した。
隠すか、と石切丸は思ったが、完全に面白がっている次郎太刀は目を輝かせ巻き込む気満々だった。
「話すからにはあんたにも協力してもらうからね!」
「え、う、うん。僕で出来る事なら……」
それから半刻もしないうちに、何だか面倒事に巻き込まれてしまったという気持ち半分、初々しい恋の行方への隠しきれない好奇心が半分といった複雑な表現を浮かべた光忠が出来上がった。