天華風花
「春は……まだ来ないのだろうか」
晩秋を迎え、今季初めての雪が薄く庭を彩るのを眺めながら、ぽつりと漏れた兄の一言に次郎太刀の顔が大きく歪んだ。
「何言ってんだい兄貴。冬もまだだってのに、もう春の話かい?まさか季節の並びまで忘れちまったんじゃないだろうね」
「まさか。それぐらいは私にも分かります」
「ま、確かにこの寒さは堪えるねえ。人の体ってのも、案外面倒なもんさね」
そういうことでは無いのだが、と思いつつもそれは口にはせず、太郎太刀の視線は庭先にある大きな藤棚に定まった。
蜻蛉切は春になればあの棚から花が零れ落ちると言っていた。
それがどれほどに美しい光景か、想像もつかない。
まだ見ぬその景色に想いを馳せる太郎太刀とは対照的に、次郎太刀は庭には目もくれず手にした酒瓶を掲げる。
「こんな寒い日は火鉢にでもあたりながら熱燗引っかけるのが一番あったまるってね。ほら、兄貴も行くよ。人の体でもこう冷えちゃ錆びついちまうんだから。特に風呂上がりには気をつけなって光忠も言ってたろう?」
まだ少しこの雪化粧を眺めていたかったが、次郎太刀に引きずられるよう湯殿から母屋へと続く渡り廊下を歩く。
戦さ場から戻ってすぐだというのに元気なことだと呆れつつも力強い腕に引かれていると視界から藤棚が消え、続いて見えたのは大樹だった。
何の樹であるかはまだ知らないが、梢が渡り廊下に覆い被さるほどにたいそう立派な様から自分達とそう変わらない年の頃なのではないかと思っていた。
「何ぼーっとしてんだい?」
「この木は、何だか知っていますか?次郎太刀」
「この木って……なんだ、桜じゃないかい。あたしらのいた神社にもあったろう?」
その名は太郎太刀の朧げな記憶の中でも鮮明に残っているものだった。
春の訪れと共に満開に咲き、人々の目を楽しませていたその木がここにもあったのだ。
花はもちろん、葉も付けていない姿では分からなかった。
太郎太刀は吸い寄せられるようにその逞しい幹に手を伸ばす。
ひんやりと冷たく、生が固い幹に閉じ込められているように感じられた。
寒い寒いと愚痴をこぼす次郎太刀を先に母屋へ向かわせ、再び幹に触れる。
「あなたも、春の訪れが待ち遠しいのでしょうか」
この寒い季節を乗り越えればこの木も満開に花を咲かせるのだろうか。
そんな事を考え、手がかじかむのも忘れて軒先から腕を伸ばし幹に触れていると、背後から声を掛けられた。
「太郎太刀殿?こんな場所で如何なされた。何かお困り事か?」
「蜻蛉切殿……いえ、そういう事では」
驚いた顔で立っている蜻蛉切に心配させまいと手を引き、何でもないのだと取り繕う。
まだ少し訝しんではいたが、何かに気付いた蜻蛉切はその手を掴んだ。
「太郎太刀殿。こんなに冷えてはお風邪を召されますぞ」
温かい蜻蛉切の手に掌を包まれ、冷えて痺れた指先がじんわりと温まる。
「湯冷めなどしては皆が心配いたします。さあ、早う母屋へ。火にあたりに参りましょう」
腕に腕を絡ませ、力尽くに引っ張っていた次郎太刀と違い、無骨な手からは想像もつかない程に柔らかな力で蜻蛉切に手を引かれて廊下を並んで歩く。
それは不思議な心持ちだった。
次郎太刀や蛍丸もよく同じように手を引き己を導いていたが、そのどちらとも付かない感触が心を掴んでいる。
記憶のなさ故に面倒をかける側とはいえ兄として接する次郎太刀や、力の有無はさておき体の小さな蛍丸と相対する時とは全く違っているのだ。
そうか、これは庇護される側の心持ちかと思いつく。
本丸でも殆どない己よりも体の大きな者を前に、そのような気持ちになっていたのだ。
慣れないことで酷く落ち着かないが、不思議と嫌な気分ではない。
身体中がむず痒く、心の中はふわりと温かい。
この思いがいつまでも続けば良いのにと思っていたが、不意に手が離れていってしまった。
「し、失礼仕った!力が強すぎましたか?!」
繋がれた手をじっと見つめていたのを勘違いした蜻蛉切は申し訳なさそうに頭を下げる。
そうではない、快かったのだと伝えたかったが、己のような大きな図体をした者が短刀達がしているように甘えるなど薄気味悪いかもしれないと、痛い思いはしていないと伝えるだけに留まった。
あらぬ事で気を遣わせてしまったようで、しばらく押し黙っていた蜻蛉切だったが、不意に髪を撫でられる。
唐突な事に驚かされたが、向けられた温かい笑みに波立つ心が落ち着いた。
「太郎太刀殿から春の香りがいたしまする」
「……え?」
春を待ち焦がれるあまり、何やらよからぬ物でも発してしまっていたのだろうかと恐縮したが、その香りの正体を思い出した。
「これは主が……」
「おお、では此度の戦、太郎太刀殿が武功一等であられたか」
以前の世でならば、最も戦働きをした者は主より朱槍を賜っていた。
だが今生にそれは相応からぬと主が衣に桜の香を焚き染める事が花御殿における武の誉れだった。
主力となる大太刀である太郎太刀はその誉に預かる事が多く、今も湯から上がった後主から新たに香を焚き染めた衣を賜ったばかりだった。
故にすっかりと鼻も慣れてしまい、改めて言われるまで己がどのような香りを振りまいていたかなど考えてもいなかった。
「武人の誉れですな。自分も早くそうなりたいものだ」
「あなたならば、きっとすぐに」
日頃の鍛錬も怠らず、遠征も地道に着実にこなす蜻蛉切もすぐにこの香のする衣を賜るだろう。
「だがこのように華やかな香りは……やはりあなたのような方に相応しい」
太郎太刀の肩に垂れる髪を一掴みし、蜻蛉切は愛おしげに鼻を寄せた。
それほどまでにこの香りが気に入ったのならば、武功を挙げて衣を賜った方が良いのではと思う。
だがまだ練度の足りない彼ではそれも叶わないのだ。
それまでは不本意であろうがこうして己の香を楽しんでくれれば良いと大人しくされるがままにする。
しばらく髪や肩口に顔を寄せ香を楽しんでいた蜻蛉切だったが、勢いよく顔を離してしまった。
「重ね重ね申し訳ない!何と不躾な真似を……!」
「いえ、あなたがよろしければ、いくらでも」
「そっ、そのような……!それにいつまでもこのような場に止めるなど……体を壊しては次郎太刀殿に顔向け出来ぬ!」
大切な兄君に風邪を引かせてはと気遣っているようだが、蜻蛉切の顔の離れた首筋は酷く寒く感じられる。
「そう思われるなら、お手を」
「で、では失礼を」
再び繋がれた手は先程よりも熱く、冷えた手が一気に温もった。
ああ離れ難い。春の日向もこのようなものなのだろうかと蜻蛉切の大きな手に包まれながら、太郎太刀はまだ見ぬ春に思いを馳せた。
* * *
「ちょっと兄貴!いつまでこんな寒いとこにいてんだい!燗が冷めちまうだろ!」
「じじじ次郎太刀殿っ」
温かな二人の空気を割る声が母屋の広間から聞こえる。
忙しない足音も同時にすることから、間もなくここへとやって来てしまうと蜻蛉切は慌てて手を離した。
何も疚しい事はないのだから堂々としていればいいのだが、どこか背徳を覚えてしまい挙動不審に陥った。
「あれ?蜻蛉切じゃないかい。こんなとこで何やってんだい?」
「いえ、その……雪見を、少し」
「雪見もいいけど程々にしないと風邪引いちまうよ」
「面目ない……」
先を歩く次郎太刀の背を追い広間へ行くと、そこには幾人かの刀剣たちが集まっていて、頭を突き合わせ紙に何かを書いていた。
「ほら、次の公給品何にするか、あんた達も決めないとね」
この本丸では生活にかかる給金とは別に、月に一度公給という名目で刀剣たちへの褒美が政府より与えられていた。
数の制限はあるものの、本人の望むものは大抵それによって手に入る為、皆それを楽しみにしているのだ。
無欲で欲しい物を考える事が難しい者もいれば、あれもこれも欲しいと毎月困り果てている者もいる。
太郎太刀は前者で次郎太刀は後者である為、今回も弟にそれを譲るものかと思っていたが、その輪に率先して入り、太郎太刀が筆と紙を手にした。
それが珍しいと次郎太刀も瞠目する。
「どうしたんだい兄貴。何か欲しいもんでも出来たのかい?」
「ええ、一つ」
さらさらと運ぶ筆先が画く文字に驚いたのは次郎太刀だけではなかった。
新しい鍋を望む光忠もたいがいではあるが、欲しがる物に違和感はない。
だが太郎太刀が欲しがる物に覚えのある蜻蛉切も酷く驚かされた。
「薄縁?そんなもん何に使うつもりにしてんだい?」
「花見をしたいと……」
「花見ィ?!随分と気の早い話だねえ。あ、それでさっき……」
「ええ。春が待ち遠しい」
「いいねえ、いいねえ!皆であの桜の下でぱあっと宴でも開こうかい!」
次郎太刀の威勢の良い声に、広間がわっと湧き立った。
その影で少し困ったような笑みを浮かべる太郎太刀と視線を交わし、蜻蛉切は二人だけの花見に思いを馳せた。