桃色銀河
本丸には主からの幣物として、現世を知る為の物が多く取り寄せられていた。
古きを愛し、雅を好みながらも最新の文明の利器も取り入れる。
それが刀剣達には新鮮で退屈しない良い本丸だと感じさせる要因ともなっていた。
色とりどりの絵巻物のような書物は雑誌、というらしい。
それには石切丸にとって懐かしい風景が描かれていて、非番の間、飽きもせずそれを眺めていた。
「石切丸、お茶が入りました」
「ありがとう。どう?太郎太刀も一緒に読まないかい?」
「それは……何でしょう?」
「主が懐かしかろうと見せてくれたんだ。これが私のいた神社だよ」
古い記憶のない太郎太刀もどこか心に残る風景であるようで、望郷に遠い目を見せた。
彼のいた神社とでは規模が随分と違うが、それでも懐かしいような気持ちが生まれたのだろう。
石切丸は円座を用意して太郎太刀に隣に座るよう促し、雑誌を差し出す。
「ここを訪れる者は信心深く、温かかった。それに皆明るくてな。笑いの絶えぬ土地だったよ」
「石切丸にとって居心地の良い場所だったのでしょうね」
新たに見る現世の物に興味が湧いたようで、太郎太刀は雑誌を捲り始める。
しばらくは音もなくしげしげと眺めていたが、ふと止まった手に気付く。
「何?桜?この本丸にもたくさんあるね」
花見を特集した記事が気になったようで、食い入るように見つめている。
一体何が彼の琴線に触れたというのか不思議に思っていると、太郎太刀は視線を上げ、じっと見つめてくる。
「どうかしたのかい?」
「石切丸のいたこの神社には、藤……はありますか?」
「藤?さて、どうだったか……紋にはなってるけど境内にはあったかな……あ、でもすぐ近所に藤で有名なお地蔵さんがあるよ」
「では見た事があるのですね?!」
雑誌を脇に置き、距離を詰める太郎太刀に気圧され、一先ず落ち着けと肩を撫でた。
「申し訳ない……その、何かを楽しみにするというのが初めてで……衝動に身の置き場を失ってしまいそうになるのです」
「藤が?咲くのが楽しみって事かい?」
「ええ……咲いたら花見をしようと、約束を」
誰と、と具体的な名は挙げなかったが、恐らくは蜻蛉切とだろう。
以前共に藤棚の修繕をしていたと蛍丸が言っていたので、その時に約束を交わしたのだ。
何とも愛いことだと目を細める石切丸は、早くその日が来ると良いなと声を掛けた。
* * *
不穏な空気を察し、皆で憩う場であるはずの大広座敷に一人として短刀達がいないという稀有な状況が朝から出来上がっていた。
いつもならば朝食後、誰かしらが居残り遊んだり、掃除を手伝ったりしている。
だが今日は大太刀二人がいるだけだ。
一体何があったのかと聞き出そうにも、その空気の発生源である太郎太刀は部屋の隅で丸くなっている。
困り果てた光忠はせめて自分が出撃する前にきっかけだけでも作っておこうと、無関心を装い部屋の対角線上でごろごろと寝転び読書する蛍丸に話を聞くよう頼む。
だが返ってくるのは間延びした嫌がる声だ。
このままでは留守居の短刀達がますます怖がるだけで、それだけならまだしもこの状況を面白がり、引っ掻き回す輩も少なからずいるのがこの本丸なのだ。
何とかしなければ主に余計な心労を掛けさせることになるやもしれない。
「あ、そっか……」
忘れていた、こんな時こそ切り札を使うべきなのだと、光忠は音を立てないよう部屋を出て、刀剣達の部屋が並ぶ回り廊下を走った。
「蜻蛉切君いる?!」
何度か声を掛けるが返事がない。
朝の鍛錬に出た後だろうかと思いつつ、何度か呼びかけていると、隣の部屋の障子が開いた。
「蜻蛉切なら鍛錬に出てると思うけど」
ひょっこりと顔を覗かせたのは隣室の御手杵だった。
内番に出る為に着替えている最中に邪魔をしてしまったようで、下着姿のまま対応するその優しさにさらに乗り掛かり甘える。
「じゃあさ、戻ったら大広座敷に行って貰えるよう伝えてくれるかな?」
「ああ、構わないぜ」
何かあるのか、と尋ねられたが上手く答えられず、ただ行けば分かるとだけ伝え、急いで出撃準備に取り掛かった。
* * *
御手杵に光忠からの言伝があると言われ、蜻蛉切は何かあったのだろうかと足早に大広座敷へと向かう。
途中、回り廊下ですれ違った次郎太刀に挨拶するも無視されてしまい、何かしてしまっただろうかと首を捻る。
考えども思い当たる節はなく、きっと二日酔いというやつなのだろうと考えを整理して本丸の中でも中心にある大広座敷へと向かった。
皆で食事をとったり、歓談したりと憩いの場となっているそこから声が聞こえず、寒々しい空気すら漂っているように感じられる。
一体何があったのかと水屋との間仕切りの襖を開けた。
「……おや……?誰も居らぬではないか」
確かにここへ来るようにと言われたはずだったが、遅くなった為に入れ違いになってしまったのだろうかと部屋を辞す。
しばらくは本丸の中枢をうろうろと徘徊していたが誰とも会えず、仕方なく自室へ戻ろうと踵を返した。
長い母屋の廊下を過ぎ、刀剣達の個室が並ぶ離れに差し掛かってようやく人影と出会う。
「おお、蛍丸殿」
自室に戻るところだったようで、両手にたくさんの菓子や飲み物があった。
大荷物で大変そうに見受けられたので手を貸そうかと申し出るが、あっさり平気だと断られる。
体の大きさで、つい短刀たちと同じように扱ってしまうが彼は大太刀であり、太郎太刀らとそう変わらない力を持っているのだ。
「光忠殿に大広座敷に行くよう言われたのだが、何用であったかご存知か?」
今行ったが誰もいなかったのだと伝えると、憐れむような視線を向けられた。
「可哀想な蜻蛉切ー……面倒事に巻き込まれちゃったね」
「は?面倒事、とは?」
「あーもう!苛つくねえ!」
蜻蛉切の問い掛けの言葉は襖を引く音と大声に掻き消される。
声のする方を見れば、酒瓶を抱えた不機嫌そうな次郎太刀が髪を掻き毟っていた。
「次郎太刀殿。如何された?」
今度は無視こそされなかったが、不満げに睨まれた。
「どうせあんたは兄貴の味方なんだろ?」
本当に腹が立つと言い残し、母屋へ向け歩いて行ってしまった。
「今のは一体……蛍丸殿、本当に何があったのだ?」
「喧嘩だよ喧嘩。太郎太刀と喧嘩したみたい」
「喧嘩?!あのお二人が?」
あの仲の良い二人に限ってそんな馬鹿なと俄かに信じ難い。
だが蛍丸に連れられやって来た太郎太刀と石切丸がいるという部屋をこっそりと覗いた時、見たことがないほどに不機嫌な様子の太郎太刀を見てようやく事態が飲み込めた。
「光忠はさ、蜻蛉切に仲裁させようとしてたんだよ。このままじゃ、空気悪いもんねー」
それで大広座敷に誰も居なかったのかと納得がいく。
ただでさえ太郎太刀の体躯の大きさに脅えている短刀達にしてみれば、このように不穏な空気の太郎太刀には絶対に近付いてこないだろう。
今頃部屋で丸くなっているかもしれない。
出撃前だというのにそんなところにまで気を回す光忠の心労を思えば手を貸してやりたいとも思う。
だが原因を探ろうにも先刻から尋ねている石切丸には口を閉ざして一向に喋ろうとしていない。
「蛍丸殿は何かご存知か?」
「俺?知らなーい。聞いても答えないんだよねー」
喧嘩などこの本丸にやってきて初めての事で、皆対処法が分からず戸惑っているようにも見受けられる。
自分が何かをして事態を打破できるとは思えないが、少しでも助力出来ればと蜻蛉切は思いきって声を掛けた。
「失礼いたす」
「ああ、蜻蛉切。良いところに」
本当に困っていたようで、石切丸の表情が一気に明るんだ。
遠回しに聞いたところで口を割らないだろうと、蜻蛉切は真っ向から切り込む。
「次郎太刀殿と喧嘩なされたとか。大事ござらぬか?」
「蜻蛉切殿……」
部屋に入り太郎太刀のいる部屋の隅へと進むと、壁に向いて背を向ける太郎太刀の隣に座った。
太郎太刀はちらりと視線を寄越すが、やはり口を割らない。
だが何かを言いたがっているようには見受けられる。
蜻蛉切は心につかえるその何かを取り払えればと辛抱強く言葉を待った。
だが部屋に籠ったままでいるより、広い空の下での方が心安らぐかもしれない。
そう考えた蜻蛉切は太郎太刀の手を取りおもむろに立ち上がった。
「外へ参りましょう。その方が気が晴れるやもしれぬ」
「え、いや、しかし……」
いい加減部屋の重苦しい空気に耐え切れなくなっていた蛍丸に背中を押され、太郎太刀と蜻蛉切は庭へ出た。
長かった冬を終え、本丸にも新緑が萌え始めている。
目に鮮やかな青と心地良い風が太郎太刀の長い髪を揺らす。
「まだ少し風が冷たいようですな……戻りましょうか」
「いえ、このまま。少し歩きたいので」
何か目的があるわけでもなく、二人並んで庭を歩き始める。
本丸には沢山の桜が植えられていて、その花明かりは見事なものだった。
少し盛りは過ぎているが、落ちる花弁もまた美しいと空を見上げる。
そういえば明日は本丸全員休みを取り、花見をしようと言っていたなと思い出す。
「花の盛りですな。今がまさに花御殿の名に相応しい」
「本当に。枯れ草一色であった芝も鮮やかに芽吹いています」
時折目にとまる草木を愛で、また少し歩く。そんな何もない時が頑なだった太郎太刀の気持ちを解したようで、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……私が悪いのです」
「喧嘩の事ですな?」
「ええ。私が狭量なばかりに次郎太刀を怒らせてしまった」
折角話し始めてくれたというのに、口を挟んではまた貝の口となるやもしれない。
しかしどうにも言い辛そうにしているので先を促すと、恥ずかしそうに呟いた。
「う、薄縁を……」
「薄縁?ああ、太郎太刀殿の所望された公給品ですな」
「明日の花見に……その、次郎太刀が……薄縁を貸せと申した故、つい口論となってしまい」
話が上手く頭の中で繋がらない。
何故そこまで頑なに太郎太刀が貸したがらないのか、蜻蛉切には理解し難かった。
だが仲良き弟と喧嘩をしてしまうほど思い詰めた事情が彼にはあるのだ。
迂闊に貸せば良かろう、とは言えなかった。
「愚かだとお思いでしょう。その程度の事で弟に辛く当たるなど」
「いえ、太郎太刀殿が何の考えもなくそのような事は仰るまい。愚かだとは思いませぬ。それに兎角兄弟とは、色々と複雑なものですからな」
蜻蛉切の言葉に驚いた表情を見せる。
何か変な事でも言ってしまったのだろうかと焦るがそうではなかった。
「蜻蛉切殿にも、ご兄弟があられるのですか?」
「ええ。特に自分など双生で名も同じ……似てはいても姿は少し違うせいか側に居れば張り合う気なども起きてしまい……昔は色々とありましたな」
全く異なる姿であれば、全く同じ姿であればあのように複雑な思いを抱く事はなかっただろうと蜻蛉切は思っていた。
少しの歪みというものは案外と心に引っかかるものなのだ。
だがもう会う事も叶わなくなった今は、兄弟への複雑な思いなどは消え、ただ懐かしい思いだけが募る。
離れてみて初めて分かる思いなど、太郎太刀には知ってほしくはない。
これは会えなくなる寂しさと引き換えの思いなのだ。
「如何様な事情があれ、仲の良いお二人が些少ながらも道を違えるなどあってはならぬ事。今少し歩み寄る事は出来ませぬか?」
「……ええ、そうですね。次郎太刀に謝りましょう」
太郎太刀の表情が晴れ渡り、辛そうな色が消え蜻蛉切はホッと息を吐いた。
では母屋に戻り、次郎太刀を探しましょうと太郎太刀が身を翻した瞬間、物陰から大きな影が物凄い勢いで飛び出してきた。
一瞬曲者か、はたまた猪でも紛れ込んだのだろうかと思ったが、煌びやかな様相にそれが猪ではなく次郎太刀であると気付く。
彼は太郎太刀に抱きつくと勢いよく懺悔を始めた。
「ごめんよ兄貴ー!!アタシ何も知らなくてさ!」
「じ、次郎太刀?何があったのです」
「石切丸に聞いたんだよ!あの薄縁、蜻蛉切と花見する為に用意したんだろ?あー!あたしもとんだ野暮天だねえほんと!」
太郎太刀の肩に顔を埋める次郎太刀は、まだ隣に蜻蛉切がいる事に気付いていないようだ。
太郎太刀の口からは聞けなかった言葉が次々に出てくる。
話をまとめると、二人であの藤棚の下で花見をする為に用意した薄縁は手付かずのまま綺麗に置いておきたくて頑なに次郎太刀の提案を拒絶したとの事だった。
思わぬ形で事の真相を知ってしまい、蜻蛉切の顔容がみるみる赤く染まる。
それほどまでにあの約束を楽しみにしてくれていたとは、と。
それに気付いた太郎太刀も薄っすらと頬を染め恥じ入るよう視線を逸らし、次郎太刀へと向き直る。
「いえ、私の方こそ童の如き意固地を言ってしまい申し訳ない事をしました」
「いいんだよ、何も知らないでけちだの何だのって言っちまったあたしも悪いんだから。それに主がね、ちゃーんと皆で座れるぐらい広い薄縁用意してくれてんだよ。だから兄貴は藤が咲くまで大事に取っときな」
そこまで言って顔を上げ、ようやく視界に入った蜻蛉切の存在に気付いた次郎太刀は威勢良く蜻蛉切の肩を叩いた。
「そういうわけだからさ、兄貴のこと宜しく頼んだよ」
「は、はあ……承知仕った」
一体何を頼まれているのかよく分からないが、すでに次郎太刀は太郎太刀の腕に腕を絡ませ母屋に向け歩き始めてしまっている。
蜻蛉切もその後を慌ててついていく。
何にせよ、元通り仲睦まじい二人に戻って良かったとその背中を微笑ましく眺めた。
「思う仲の小諍いですな」
「ん?何か言ったかい?」
思うだけに留めていたつもりが、口に出てしまっていたようで次郎太刀が何事かと振り向く。
「いえ、お二人が仲直りされてまことに良かったと思いましてな」
「あんたにも世話かけちまったね。お詫びに明日はとっておきの酒を用意するから楽しみにしておくれ!」
詫びも何も、事情はどうであれこうして一足先んじて太郎太刀と二人ゆっくりと桜を賞でる事が出来たのは素直に嬉しく、謝られる事など何もない。
さっぱりとした気性の次郎太刀はすぐに気持ちを切り替えるだろうが、太郎太刀はまた迷惑を掛けてしまったと気に病むかもしれない。
その時はそう言って安心するよう努めなければと心に置いた。
「それにしても綺麗だねえ。兄貴の黒髪によく映えるよ、この薄紅が」
「黒髪ならあなたも同じでしょう」
「ああん分かってないねえ!兄貴だからいいんじゃないかい!ねえ、蜻蛉切?」
「え?ええ、そうですな……ああいや、次郎太刀殿の黒髪も実に見事ですぞ」
不用意な一言でまた仲違いしてはならないと気を配ったつもりだったが、何が気に食わなかったのか次郎太刀に鈍いねえ、と溜息を吐かれてしまった。
何か間違えてしまったのだろうかと狼狽えていたが、次郎太刀はすぐに機嫌を直し空を見上げた。
「明日の花見、晴れるといいねえ」
「ええ」
「そうですな」
頃合い過ぎて少し葉の付いた桜が無数の花弁を散らす様と、仲睦まじく歩く二人の背中が重なり美しい光景として蜻蛉切の目にしっかりと焼きついた。