紺瑠璃時雨

青々と葉の生い茂る蔓や梢を見上げ、太郎太刀は溜息を吐いた。
やはり今日も駄目だった、と。
もう何日も同じ行動を繰り返しては深く落ち込んでいた。
そんな様子を不思議に思った内番中の石切丸が尋ねる。
「まだ咲かないのかい?」
「……ええ、蕾も付いていないようです」
本丸の庭にある大きな藤棚は蜻蛉切と太郎太刀の仕事のおかげで立派なものに修繕され、木々が四方八方に梢を伸ばして見事なものになっていた。
だが肝心の花が付かず、太郎太刀は毎日溜息と共にそれを眺めていたのだ。
あまりの覇気のなさを可哀想に思った石切丸は何とかしてやりたいとは思ったのだがその術を知らない。
「私もこういうことには疎くてね……誰か詳しい者はいたかな」
「草木の事はやはり主に聞くのが一番かと」
しかし戦以外の事で主の手を煩わせるのは気が引けるのだろう。
太郎太刀の言葉は消極的だった。
さて、本丸所蔵の書物にそのような記載のあるものはあったかなと空を見上げて考えていると、通り掛かりの薬研が声を掛けてきた。
「早速怠けてんのか?畑仕事、さっき始めたばかりじゃねえか」
「太郎太刀の悩み相談を受けてたんだよ」
随分な言われように苦笑いを返すと、薬研は心配そうに太郎太刀の顔を覗き込んだ。
「悩み?どうした?尻に出来モンでも出来たのか?」
まるでそれ以外に取り柄がないような言い方に、今一度苦笑いが深まる。
とはいえ、今のところ太郎太刀の悩みを解決に導けそうな妙案があるわけではなく、逼迫した事情を説明する太郎太刀を黙って見守った。
言葉少なく要領を得ない太郎太刀の説明でも真剣に聞き入る薬研はだいたいの事情は理解したようで、ちょっと待ってなと言い残して母屋の奥へと消えていった。
畑仕事をしつつしばらく待っていると、板のようなものを手にした薬研が戻ってきた。
「ほら、これがあると世の中の色んな事が調べられるんだぜ」
「この板で……ですか?」
「ああ、そうだ。で、使い方はー……」
薬研が板に付いた突起に触れるとその板は煌々と光を放ち、太郎太刀と石切丸は思わず感嘆の声を上げる。
小さなその板には色とりどりの絵が映し出されていて、目まぐるしく移ろいで行く。
「……っと、すまねぇなお二人さん。出陣の刻限だ」
戻ったら続きをと言い残し、出撃を知らせる笛の音に急かされて薬研は足早にその場を離れてしまった。
使い方の分からない光る板を残されてしまい、二人は途方に暮れた。
どうやらこれを使えば太郎太刀の疑問は解消されるようだが、どこをどう触ればよいのか、そもそもこれが何であるかすら理解出来ていない。
石切丸は手に取って裏返したり、横に倒してみたりとぐるぐると回しつつ眺める。
その様子を眺めていた太郎太刀がぽつりと漏らす。
「現世はまだまだ知らない事だらけのようですね」
「それは私も同じだ。神鏡の類だろうか?」
物の映し出される不思議な板は、薬研がやっていたのと同じように突起を押せば再び光りを放った。
だがそこから動かす事が叶わないのだ。
下手に触って壊してはならないし、これは薬研が戻るのを大人しく待つしかないだろう。
しばらくは二人で頭を突き合わせて思案してみたが、結論は一つだった。
「いつまで怠けてる気だ」
溢れ返る程の殺気を背に感じて振り向くと、大きな鍬を持った大倶利伽羅が逆光を背負い仁王立ちしている。
すっかりと忘れていたが石切丸は内番中だった。
短刀達の鍛錬の兼ねた遠征に護衛として帯同していた太郎太刀は戻り端の今は休憩中で暇を持て余していたが、石切丸は大倶利伽羅と内番で畑仕事の真っ最中だったのだ。
太郎太刀は己の所為で石切丸に咎が及ばないようにと必死に弁明した。
やはり口下手で要領を得ない太郎太刀の説明に火に油を注ぐ結果になったのではとビクビクしていた石切丸だったが、大倶利伽羅は溜息を吐くと鍬を手離し、軍手を外した。
「な、何でしょう」
殴られるのではと同じように怯える太郎太刀に付いてくるように言うと、石切丸から光る板を取り上げ母屋へと歩いて行った。
藤棚すぐ近くの回り廊下に腰を下ろすと、大倶利伽羅は器用な手付きで薬研と同じように操作を始める。
「ほう、君もこれを扱えるのかい?」
板に映し出される絵が目まぐるしく変わる様を覗き込み、感心したように言うと照れたように顔を逸らせてしまった。
解決しなければいつまで経っても仕事が終わらないだろうという恨言を聞かせてはいるが、何とも優しい事だと石切丸は微笑ましく見守った。
心配そうに怯えていた太郎太刀もその動向が気になるようで、大倶利伽羅のすぐ隣を陣取り、しげしげとその手元を眺めている。
「……近い」
「ああ、申し訳ない」
太郎太刀は大きな図体で近付いては邪魔なだけですねと反省の意を示している。
だが大倶利伽羅が厭うたのはそこではないだろうと、石切丸は流れ来る剣呑な空気に視線を移した。
案の定というべきか、主に付き従って離れからの渡り廊下を通り掛かった蜻蛉切が遠くより大倶利伽羅に視線を寄越している。
その鋭さはまさに槍というべきか、近くにいるだけでも鋭敏に突き刺さる感覚を肌で感じる。
あれほどまでに分かりやすく悋気を発するくせに己の気持ちには気付いていないのだからおかしな話だと石切丸は殺気を纏った視線を受け流す。
大倶利伽羅もその視線には気付かない振りをして黙々と板を弄り続け、ようやく結論が導き出せたようで手を止めた。
「あった。これだな……花が咲かないのは去年のうちに剪定を怠って花芽が出なかったからだと書いてある」
「我々が来るより以前はこの本丸も無人だったのだから、手入れもされてなかっただろうね」
大倶利伽羅のおかげで原因は判ったが、それは今からでは手の施しようのないものだった。
今年はもう花を咲かせないと知った太郎太刀はみるみる生彩を失い、白い顔で肩を落とす。
あれほど楽しみにしていた花が咲かないのだ、無理もない。
だが方法がない以上は萎れた肩を撫で、慰めてやる事しか出来ない。
「大丈夫かい?悲しいだろうが病などではなかったんだ。きちんと手入れをすればまた花を咲かせるさ」
「ええ……そうですね。お二人ともありがとうございました。それに内番の邪魔をしてしまい申し訳ない……これは私から薬研殿に返しておきますので」
大倶利伽羅から調べ物の出来る板を受け取ると、太郎太刀は肩を落としたまま母屋の奥へと消えていってしまった。
あの様子を次郎太刀や蛍丸が見ればまた大騒ぎをするだろう。
彼らより先に蜻蛉切に会い、慰められれば良いがと思いつつ石切丸はその背を見送った。
「おい、いい加減終わらせるぞ」
大倶利伽羅の声にやるべき事を思い出し、畑に戻る道すがら手間を掛けさせた事を謝罪する。
「君にも手間を掛けさせてしまったね。でも助かったよ」
「……けど、あいつは落ち込んでいた」
「え?ああ、でも先のない不安に駆られたままよりずっといい」
自分のせいではないというのに、余計な事を言ってしまったのではと気に病んでいる様子が見て取れる大倶利伽羅の肩を叩く。
現実を知る事は時に残酷なものだが、すっきりと晴れない気持ちをいつまでも燻らせる事の方が心の負担となる。
大倶利伽羅のおかげで太郎太刀の心は救われたのだと伝えると、やはり素直ではない態度で顔を背けられてしまった。
他人に興味はないと刺々しい態度は取っているが、時折垣間見える人となりが皆が彼を一人にしない要因かと心の温まる思いがした。
だが再び流れ来る剣呑な空気に一瞬で大倶利伽羅の表情が険しくなる。
敵襲ではと身構えるが大倶利伽羅の手には鍬しかなく、何とも格好がつかない。
それに原因は知れた事と落ち着いた様子で石切丸は毛を逆立て警戒する大倶利伽羅を宥め、振り返った。
「何用かな、蜻蛉切殿?」
邪気を振り払う余裕の薄笑みで対応すると、それまで纏っていた蜻蛉切の殺気が霧散する。
本人も無意識に発した殺気であったのか、そこにいるのはすでにいつもの蜻蛉切だった。
「いえ、その……太郎太刀殿とご一緒だったのでは?」
「太郎太刀?ああ、彼ならもう部屋に戻ったんじゃないかな?さっきまで落ち込んでたけど……今はどうかな」
「落ち込んでいた?何かあったのですか?!」
「さあ、どうだろう?太郎太刀は肝心な事は私達にもなかなか言ってくれないからね」
その言葉に居てもたってもいられなくなったのか、挨拶もそこそこに蜻蛉切は踵を返し母屋へ向け駆け出した。
上手く焚き付けられただろうかと石切丸が満足気にその背中を見送っていると、隣から大倶利伽羅の胡乱気な視線が痛いほどに突き刺さった。

* * *

太郎太刀は庭から去ったその足で大広座敷へ向かった。
道道、光る板に指を滑らせてみる。
大倶利伽羅や薬研は上手く弄っていたが、はやり己では使いこなせないようだと光る板を見下ろし溜息を吐く。
一人部屋に篭り、鬱々と過ごすよりも誰かがいた方が気が紛れるだろうと考えたからだ。
常であれば誰かしらがいるその場所は、今日も賑わっていた。
「太郎太刀!あ、それ薬研のでしょ?」
「ええ。先程お借りしたのを返しに」
薬研の弟達が遊んでいる輪に入ると、乱が懐っこく近寄ってくる。
彼は短刀達の中でも比較的心安く接してくれるが、まだ慣れない者達は太郎太刀を前に少し萎縮しているように感じられる。
ここへ来たのは失敗であったかと座を辞そうと腰を上げようとしたが、それより先に正座する太郎太刀の膝の上に乱が座ってしまった。
仕方なく腰を据え、手にしていた板を乱に見せるよう胸の前へ掲げた。
「凄い道具ですね。世の全てを見通す神鏡のようだと石切丸と言っていたのです」
「iPadっていうんだよ。神鏡じゃなくて機械!こんな風に自分で動く便利な道具を現世では機械っていうんだって」
何とも面妖なものだと瞠目するばかりだった己達とは違い、乱は慣れた手つきで触り始める。
「ボクが貸してって頼んでも絶対貸してくれないんだよ?」
「そ、そうでしたか……大切なものなのですね」
「んーん。子供が使うものじゃないんだって。自分だって子供のくせにね!」
酒でも酌み交わしながら人生相談をしそうな程の言動の達観性からうっかりと誤解しそうになるが、彼もこの幼い弟達とそう変わらない年の頃だった。
ならば乱がこうしてむくれるのも無理はない。
「あ、でもこの前少し使い方教えてもらったんだよ。こうやってね……」
器用に指先を滑らせ、乱が画面を顔の前に翳した。
その中には粟田口の兄弟達が沢山映し出されている。
「これは……すごいですね」
「ね、いいでしょ?写真っていうんだよ。あ、そうだ!太郎太刀も撮ってあげるね」
「え?え?」
「はーい笑ってー?」
膝の上に座った乱に言われるまま画面を見ていると、何やら音がする。
乱の指先を見ていると、驚いた硬い表情の太郎太刀と笑顔の乱が光の中に映り込んでいた。
「貴重な太郎太刀のびっくり顔もーらいっ」
乱との砕けたやり取りを見た他の短刀達も、徐々に警戒心を解き、会話の中へと入ってくる。
皆で写真を撮り合い、賑やかに過ごしているとそこに大きな影が駆け込んできた。
「太郎太刀殿!ここにおられましたか!」
「蜻蛉切殿」
只ならぬ様子に何かあったのかと心配になったが、太郎太刀を一目見て拍子抜けといった様子を見せた。
「何か……?」
「いや、あの……い、石切丸殿から……その、太郎太刀殿が落ち込んでいると聞き……何かあったのではと思い参じたのですが……」
また余計な事をしてしまいましたかな、と苦笑いを見せる蜻蛉切の手に手を重ねる。
その手を軽く引くと、蜻蛉切は抗する事なく太郎太刀の前に腰を落とした。
「今元気を頂きました」
「おお、皆が慰め草となったのですな」
太郎太刀の周りに集く短刀達に目を細め表情を和らげる蜻蛉切に、緩く頭を振り否を示す。
「貴方もです、蜻蛉切殿。あの日の言の葉通り、貴方はいつも私を気遣って下さる」
何か辛い事があったとしても、蜻蛉切のその思いが心を支えてくれる。
いつも貴方の良きようにと言った蜻蛉切を思い出し、ほんのりと心が温もるのを感じていると、目の前でカシャという小気味よい音がした。
「えへへー太郎太刀の珍しい表情またもーらい!」
膝に乗った乱が不意打ちのように写真を撮ったのだ。
「私はどのような顔をしていたのでしょう?」
蜻蛉切を前にした己が一体どのような表情をしているのか気になった太郎太刀は乱の手にある画面を覗き込もうとしたが、彼はすぐに胸元に抱え込んでしまった。
「ナイショだよ。何だかボク二人のお邪魔虫みたいだからもう行こうかなー」
「え?」
「み、乱殿?!」
邪魔にしたつもりなどなかったが、何か不興を買ってしまったのだろうかと不安に思う太郎太刀とは対照的に、蜻蛉切は頬を赤らめ抗議している。
一体どうしたのかと乱と蜻蛉切を交互に見ていると、大広座敷が更に賑々しくなった。
「賑やかだな、乱」
「あ、薬研!おかえりー早かったね」
「蛍丸がいたからな。敵さんあっという間に散ってったぜ」
蛍丸率いる隊が帰還したようで、部隊に組み込まれていた薬研始め他の刀剣達も次々と部屋に入ってくる。
今日も皆無事だったとホッと胸を撫で下ろしていると、薬研が近付いてきた。
「話は大倶利伽羅に聞いたぜ。残念だったな」
「ええ……」
「そう気を落とすなって。原因が分かったなら次は大丈夫だ」
石切丸と同じように慰めてくれる薬研の気遣いに感謝し、これ以上は気に病むまいとするが、やはり楽しみにしていただけにその反動は大きかった。
「太郎太刀、大丈夫?何か悲しい事があったの?」
太郎太刀の膝から立ち上がり、顔より少し高い位置から心配そうに見下ろす乱を安心させるよう努めて笑みを湛え、大丈夫だと告げる。
まだ眉を下げ何か言いたそうにしているが、手にした薬研所有のiPadを取り上げられ、抗議の声を上げ始める。
くるくると変わるその素直な稚さが愛らしいと一笑した。
「太郎太刀殿……やはり何かあったのですな?」
「……藤が」
事情を話そうと口を開きかけたが、唐突に始まった短刀達の小競り合いに俄かに室内が騒がしくなる。
頼みの打刀や太刀達は、疲労した体に喧嘩の巻き添えはごめんだとそそくさと部屋を出て行ってしまった。
残された薬研が大変だろうと太郎太刀は仲裁に入ろうと腰を上げたが、足の感覚が変わっている事に気付かずそのまま立ち上がろうとしたせいで前のめりに体が振れた。
「危ないっ!」
手が畳に付くより先に、ほぼ同時に立ち上がろうとしていた蜻蛉切の腕で体を抱き止められた。
「大事ございませぬか?太郎太刀殿」
「え、ええ……申し訳ない。足が痺れてしまっていたようで」
「無理もない。乱殿を膝に乗せておられたのだ」
「あっ!ひっどーい!!ボクそんなに重くないんだから!」
喧嘩の中心にいたはずの乱だったが、耳聡く二人の会話を聞きつけ飛んでくる。
早く蜻蛉切から離れなければ、この大きな体躯では彼の負担になってしまう。
だが不満顔の乱に背中からぐいぐいと迫られ体を離す事が出来ない。
「太郎太刀ー!ドーン!」
「ひっ?!」
更に何を思ったのか唐突に飛びかかってくる蛍丸の全力を背中に受け、完全に体が蜻蛉切の腕の中に収まった。
「なっ!ほ、蛍丸?!何をするのです!」
「乱ばっかりズルーイ!俺もー」
「何をらしくない事を……!」
普段子供扱いをすると嫌がるというのに、短刀に張り合う意味が分からない。
三人分の重みを体で受け、相当に重いのだろう。
顔すぐ近くまで迫る蜻蛉切の顔が真っ赤に染まっていた。
「申し訳ない蜻蛉切殿!重いでしょう、すぐに離れますっ」
「い、いえ、あうっ、あの……っ」
倒れてくる体を支える為、蜻蛉切の左手はしっかりと太郎太刀の右手を掴み、右手は背中に回っている。
そのおかげで体が倒れる事はないが、完全に体を預けきった状態で動く事はままならない。
眼前迫る蜻蛉切の顔を見ていると、つられるように顔が熱くなるのを感じた。
「へえ、そんな顔も出来んだな、旦那も」
「え?!」
「太郎太刀の珍しい顔、いただき」
乱と同じように写真に収め、薬研がふっと得意げな表情を見せる。
こんな情けない姿を残さないでほしいと抗言するが聞き入れてもらえず、未だ蛍丸と張り合い太郎太刀にへばり付いたままの弟の頭を小突いた。
「ほら、いつまでやってんだ。行くぜ兄弟」
「あー!待って待って!」
八つ時だという声に、皆一斉に甘味を強請りに水屋へと駆け出した。
嵐の去った大広座敷で呆然としていたが、はっと我に返り太郎太刀は慌てて体を離す。
汗顔の至りと繰り返し詫びるが、蜻蛉切はそれを笑って許してくれた。
「太郎太刀殿は大柄な事を気になさっているが、見目よりずっと軽うございますな」
「そんなことは……そんなことを言うのは貴方ぐらいなものですよ」
恨めしげに顔を見上げるが笑みで煙に巻かれてしまった。
「それより話の続きを。藤がどうかされましたか?」
賑々しい騒ぎですっかりと抜け落ちていた悲しみが再び湧き上がる。
先刻大倶利伽羅から聞いた話を伝えると、蜻蛉切の表情からも悲しみが見て取れた。
人の心とは現金なもので、蜻蛉切も己と同じように楽しみにしていてくれたと分かった途端、ふっと心が軽くなった。
何と浅ましい事かと自分自身に呆れたが、今はただ蜻蛉切の心が嬉しい。
誰かと同じ思いを共有する事はこのように面映く、心を温めるものなのかと、しっかりとその思いを噛み締めた。

* * *

翌日は朝から雨模様だった。
梅雨にはまだ早い頃ではあるが、近頃雨の日が多い。
菜種梅雨の名残か、それともこれが筍梅雨というものであろうかと太郎太刀は窓辺に立ち空を見上げる。
隣室の次郎太刀はすでに支度を整え母屋へ行ってしまった後なのか、物音一つしない。
今日もまた己はこの本丸で留守居役なのだろうかと鬱々とした思いが心を渦巻く。
好き好み戦さ場へ向かいたい訳ではない。
だが刀は戦いが本分であるし、その為に現世に呼ばれたのだ。
それに今はまた違った思いも芽生えていた。
あの武を、真っ直ぐに相手を突き刺すあの蜻蛉切の戦う様を目の当たりにしたいと心が願っている。
願わくば、その武をこの身で受けたいとさえも。
「太郎太刀殿、起きておいでか?」
「は、はい。今開けます」
今し方思っていた人が唐突に現れ、心が騒めく。
気を落ち着ける為一つ呼気を抜き、襖を開け放った。
朝の挨拶を交わし、何の用であるか尋ねる。
「少しお付き合い願えますか?」
「どこにでしょう?私でお役に立てますでしょうか?」
「ああ、いえ。何かを頼みたいのではなく……貴方にお見せしたきものが」
以前そう言って彼が見せてくれたのは、主から賜ったという世にも珍しい椿だった。
そのせいか、心が自然と期待に彩られる。
だがまだ何かを聞いた訳ではないというのに、勝手に期待するなど本当に卑しくなったものだと自省する。
「これを」
「え?ええ……」
本丸離れの裏戸口へと連れてこられ、蛇の目と雨下駄を渡される。
表に出るのだろうかと不思議に思いつつ、言われるまま蜻蛉切の後について行く。
この本丸は古の山城跡に敵襲を見越して山を背に建てられていて、刀剣達の要とも言える審神者は山肌にある社で普段は過ごしている。
その社を左手に臨み、しばらく歩くと大きな池に出た。
二の廓にある池よりも遥かに大きく形も歪で、人工的に作られた庭園の池ではなく自然のものと思われる。
その池のほとりには紺瑠璃の花が無数に咲いていた。
「これは……?」
「杜若にございます。以前近侍のお役目を頂いた際、主にこの場所を教えて頂いたのです」
近侍の役目で主の社へ行く以外は本丸の裏手には殆ど来ることはなく、このように池がある事すら知らなかった。
雨で泥色に濁ってしまった池に不釣り合いな美しい花の群生に見惚れ、暫く言葉を失った。
誰も立ち入らない静謐な空気に澱んだ心が洗われていく感覚がする。
「太郎太刀殿。春はまた来ますぞ」
言葉もなくその美しい光景を眺めていると、隣に立つ蜻蛉切が小さく呟く。
傘を持つ手をずらし、少し上にある顔を見上げれば柔らかく緩んだ瞳の蜻蛉切と視線が交わった。
「今年は残念であったが、楽しみが少し先延ばしになったと思えば良い。間も無く夏が来て秋が来て、冬を迎えれば、春はまたすぐ目の前ですぞ」
「ええ……その通りですね。楽しみにしていましょう」
「自分も楽しみです。来年、太郎太刀殿の用意した薄縁を敷いて花見をするのが」
過日と同じだ。
蜻蛉切と同じ思いである僥倖が太郎太刀の胸を熱くする。
花が咲かないと分かった時の悲しみは消え去り、また来る季節が楽しみに思えるようになった。


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