水面に泳ぐ月。硝月5
この街にまた春がやってきた。
川沿いに植えられた桜の樹が暖かい光を浴び、桃色の帯を成している。
廓には提灯が飾られ厳しい冬を越えた喜びに満ち溢れていた。
そんな浮かれた空気は川を越えて俺の住む町にも届いていて辺り一帯が華やかな雰囲気になっていた。
突然目の前に現れ、そして物言わぬままの別れを迎えてから三度目の春。
再会したのもまた、突然だった。
仕事でしばらく家を空け、戻って一番の出会い。
浮き足立った町の連中を忌々しい思いで掻い潜り、通りを歩いていると後ろから肩を叩かれた。
「―――宍戸…!!」
「よお!久し振りだな」
同じ町に住んではいてもお互い仕事に忙しく、あれ以来会っていない。
あの頃長かった髪はすっかり短く刈られてはいたが、変わらない表情がそこにあった。
「ははっお前全然変わってねぇな」
「てめえもな」
笑いながら肩を叩かれ、押し込めてきた思い出がいくつか蘇る。
あれから変わった事と言えば、歳が三つ重なり、背と髪が少し伸び、そして。
取り巻く環境がまるで変わった事。ただそれだけだ。
砂を含んだ春風が通りを舞い、道行く人は足早に通り過ぎる。
俺たちもそれを避ける様に目の前にある茶店に入った。
顔見知りの主人は気を利かせて人の出入りがない奥の席に通してくれた。
「あ、そうだお前結婚するんだってな」
注文も終わり一息ついたところで突然思い出したように宍戸が口を開く。
「相手は徳川分家の姫君だろ?お前どこまで登りつめる気だよ全く…」
「自分じゃ選べねえなら、親が選んだ中でより条件の良い相手を嫁にするのは当然の事だろ?」
ふん、と鼻を鳴らし言い放つと宍戸は嫌悪の表情を浮かべた。畳みかけるように続ける。
「別に、想った相手が伴侶じゃなかったってだけじゃねえか。相手もそれを承知してんだから構わねえだろ」
「お前にとっちゃ結婚相手も商売道具ってわけか…通り行き交うお前妄信してる女共に聞かせてやりてぇぜ今の言葉」
「こんな事ぐらいじゃ俺様信者は減らねえ。むしろ出会える機会が増えたって喜ぶんじゃねぇの?」
相変わらず嫌味な奴だな、と今度は笑い始める。
宍戸は幸せなようだ。時々噂には聞いていた。
鳳来堂は由緒正しい店で最初はどうなる事かと周りも心配していた。
宍戸自身努力を怠らなかった事ももちろんある。
しかしそれ以上に鳳来堂の子倅が随分入れ込んでいるらしい。
周囲の中傷的な言葉も吹き飛ばす程に想い大切に扱っている。
今ではそれがごく当たり前の風景として受け入れられているようだ。
これから先どうなるかは解らないが、それでも幸せなのだ。
「滝には時々会うけどよ、お前仕事で家空ける事多いから全然会わなかったな」
宍戸は運ばれてきた団子を頬張りながらそんな事を言う。
機会を設ければ別段無理ではなかったがそれはしなかった。
薄れる事を知らない想いを心の奥底に押し込める事で精一杯になっていたからだ。
俺は変わらず忍足を想い続けていた。
喩えようのない俺の孤独を受け入れてくれた唯一だったからだ。
時間が経つにつれ、俺と忍足が似ていたというあの言葉を理解できるようになってきた。
置かれる立場が違うだけで、俺も忍足も同じ孤独を感じていた。
誰も俺自身を見ようとしなかった。
器や頭の良し悪し、家柄、金。群がる人間の求めるものに馬鹿さ加減にうんざりしていた。
気付けば俺はいつも独りだった。
忍足には岳人たちがいたようだが心の底にある闇は独り抱えるもの。
奴は常に沢山の欲望にまみれて暮らしていた。
今なら俺は忍足を理解してやれる。恐らく奴も俺を誰より理解してくれる。
でもそれだけだ。
同じ痛みを分け合う事は出来てもそれ以上のものを望む事は出来ない。
それが奴の負担になる事は目に見えている。
気を遣わせまいと振舞う姿に俺が耐えられなくなる事も。
あの頃は俺がこの手で、などと躍起になっていた。
だが俺では忍足の抱える傷を癒してやる事はできない。
溜息一つを吐き出し、俺は懐からいつかの小汚い袋を取り出した。
「それ忍足の…」
宍戸の記憶にもあるもののようだ。
これはあいつが唯一の持ち物だと言っていた煙管。
あの日、俺が冥彌に呼び出された日の事。
蛻の殻となった数奇屋で見つけた。
部屋の片付けをしていて呼べないと言っていたが、売りに出す家財道具を用意していたのだ。
あと少しの身請け代を都合する最後の手段として、数奇屋にあった何もかもを売ってしまった。
たった一つ残された煙管は袋に入ったまま御座の上に置かれていた。
それが誰に宛てた物なのか、忍足は何も残してはいなかった。
だから俺が引き取った。
俺が残しておきたかったから。
あいつの唯一が他の誰かの手に渡るなんて許せない。
ただそれだけの理由だ。
「まさか本当にお前の手に渡ってるとはな」
「ああ?」
「それ、置いてきたけど無事お前の手に渡ったか心配だって。手紙に書いてあったぜ」
忍足が京都に行ってから、宍戸と滝の元に何度か手紙が送られてきたらしい。
それによれば俺の事も書いてあったとのこと。
突然の離別から三年。
俺の事などとうに忘れているのだと思っていた。
「フン…俺の事なんて忘れて向こうでよろしくやってんのかと思ってたぜ」
「まっさか。…お前なあ……あいつがお前の事でどんだけ悩んでたか解ってねえだろ」
「解らねえな。一人抱え込んで思いつめて何になる……」
「あいつはお前みたいに何でもかんでも口に出せる奴じゃねえ」
それは充分に解っている。
見抜いてやる事もできるが、俺はそれを声に出して欲しかった。
あいつの心の声を。
「今でもあいつはお前の事をちゃんと覚えてる。こっちであった事も全部相手に話したってよ」
他の何を忘れても、俺との事は心の奥底から離れなかった。
どんなに振り払おうと努力しても傷が深く根を張る様に。
相手もそれを許そうとはせず、そして無理に忘れさせようともせず犯した罪諸共受け入れた。
許してしまえばそれが余計に負担になると解っているのだ。
甘えを嫌う忍足は何もなく許される事を受け入れられないだろう。
許されざる行為をしてしまった罪を償わせる余地を残し、側に置いてやる。
一生側にいて、その姿を見守る事が忍足にとって一番必要なのだ。
それが解ってやれる相手なら、あいつも幸せなのかもしれない。
「…どんな奴なんだ?そいつは」
それまで全く興味を持てなかった相手の事が少し気になった。
あいつが選んだ男、あいつが望んだ相手の事が。
「あー…そうだな…何か春の縁側みたいな奴…かな」
「は?」
「上手く言えねえけどよ……それに寄っていく猫みたいだったぜ。忍足は」
あいつが求めていたのは全てを焼き尽くす灼熱のような夏の陽射しではなかった。
吹き抜ける風はまだまだ冷たいが、降り注ぐ光はどこまでも優しく暖かい。
そんな春の陽だまりを望んでいた。
そして温かい日々の中で少しずつ傷を癒していけばいい。
俺はあいつの消せない罪として心に残ればそれで構わない。
出会ってからはたった数ヶ月。
けれど思った以上に深く根を張った思いは未だ心からは消えない。
だが今なら心から言える。
「俺はあいつが幸せならそれでいい」
純粋に相手を思うが故に身を引く事の大切さを覚えた。
あいつが幸せなら俺も幸せなどという、俗的で胡散臭いおめでた思考にはなれない。
だが、それでも構わないと思えるようにはなれた。
忍足の幸せが直接俺の幸せに繋がらないとしても、どこかであいつが幸せでいればと。
それだけで、三年前傷ついた餓鬼の俺も少しは癒える事だろう。
茶店を出て宍戸と別れ、自宅に向かう途中にかかる橋を渡る。
ふと眼下の川に目を向けると青紫色の空に出た月が映り込んでいた。
昼の月は太陽の影に隠れて目立たない。
だが一たび日が暮れれば夜道を淡く照らす優しい存在となる。
緩やかに流れる川面に泳ぐ月を眺め、月下に浮かぶあいつを思い出す。
もしもなんて仮想話には興味がない。
俺もあいつも、闇夜に覆われた心だったからこそ出会えた。
そしてほんの少しの間、夜道を照らし、俺を導いてくれた。
その道が俺の未来へと続いている。
いつの日か、また出会えた時。
俺がその道の果てで幸せになれていたのなら、あいつは喜んでくれるだろうか。
今はそれだけが知りたい。
【終】