水面に泳ぐ月。硝月4

それから抜け殻のような生活を送っていた。
悟られるような無様な真似はしない。
誰にも文句を言わせない、仕事も滞り無くこなしていた。
だから表面上は誰も気付いてはいなかった。
だが心の奥底では欠けてしまったその穴が深く根付いている。
そんな俺の変化に気付いたのは意外な人物だった。
抜け殻生活も十日ほど過ごしたある日、忍足のいた店からお呼びがかかったのだ。
微かな期待と心の均整が崩れる不安。
二つの気持ちに挟まれたまま店に向かった。
少しの間離れただけだがまるで別の場所に来たような気分に陥る。
開店までは暫く間がある為、まだ準備時間にも入っていない。
暇をしていた下女の一人が迎えてくれた。
そして指示された部屋に向かうと、そこに居たのは。
微かな期待は裏切られてしまった。
もしかしたらあいつが帰ってきたのではという期待。
しかしそれ以上の驚きが俺を支配する。
俺を待っていたのは、先日父親に身請けされたばかりの鷹尾だった。
その部屋は最後に忍足がいた場所。俺の家が見渡せる川に面した部屋だった。
あの日忍足がしていたように、鷹尾は窓枠に座っている。
花街を離れたからとはいえ、まだまだ艶のある表情でくすりと笑う。
「何だい情けない顔をして。まるで捨てられた子犬じゃないか…まったく、色男が台無しだよ」
「余計なお世話です」
「恰好つけても無駄だよ。私はこの街で何百何千って男を見てきたんだ。
お前さんみたいな青二才が粋がったって丸裸、考えてる事もみんなお見通しさ」
店を介して客と傾城として会うわけではなかったので、お互い遠慮の無い言い方になってしまう。
「それよりすまないね、呼び立てして。妾の私が本宅に押しかけるわけにもいかなかったから」
この部屋に入ったのは初めてだ。
忍足が個人的に使っていた部屋なのだろう。
家財道具など一切がなくなり、だが確かにそこにはあったであろう畳の焼けた跡がある。
物がなく、がらんとした部屋に足を踏み入れ鷹尾に近付く。
「何の御用ですか、鷹尾太夫」
「よしとくれよ。私はもう鷹尾でも太夫でもないんだから」
確かに鷹尾は店に代々継承されている高級遊女の源氏名だ。
しかし俺はこの人の名をそれ以外に知らない。
「名は身請けされてあんたのお父上に貰ったさ。これから私の事は冥彌と呼んでおくれ」
「みょうび…?」
「ああ。この街に生まれてこの街で育った私が初めて貰った私だけの名だ」
そう言って嬉しそうに笑った。
大勢いる妾の一人になったというのにこの人は幸せなのだ。
「ま、人様に言わせりゃ馬鹿の様に思えるかもしれないけどね…私たち遊女がこうして貰ってもらえる事は最高の幸せなんだよ。
それも御代は千二百両。末の世までの自慢になるってもんだ。あんたの父上には感謝してるさ」
金で自由を奪われ物のように買われていったというのに。
押し黙った俺に勘違いをしたのか、神妙な顔で尋ねられる。
「私を恨んでるかい?」
相手は言わば実母の敵。
とはいえ父親はすでに何人もの妾を抱えている。今更一人増えようが二人増えようが構わない。
俺が彼女を嫌う理由もなかった。
それよりも何の用で俺をここに呼んだのか、それの方が気になる。
その旨を伝えれば、そうかい、と笑って話し始めてくれた。
「お父上にあんたが随分元気無くしてるって聞いてね、それで呼んだんだよ」
上手く隠していたつもりでも親には見抜かれていた。
そしてその理由が忍足がこの街を出た事だと察知した冥彌は俺を呼んだのだ。
詳しい経緯を聞かせる為に。
「あの子はね、この店から落籍する為にずっと頑張ってたんだよ」
「金ですか?」
「それもあるけど…まあ追って話すさ。この店…いや、店主は温顔だけど裏じゃとんでもない狸だ」
いつも人の良い笑顔で迎えてくれていた店主。
確かに少し小心者だと思っていたが、裏を知る者だけが知りえる事なのだろう。
「あの子たちがいた茶屋も表向きは食事処だけど裏じゃ好色家の偉いさん方に春を売らせてたんだよ」
岳人や宍戸らは嫌がり普通に働いていたようだが、金になるならと忍足は客を取っていた。
だがそれもある時を境にぱったりと辞めてしまった。
理由はありがちなもの。忍足を好いた相手が辞めさせたのだ。
「ただそれが店主の倅だったから問題なんだよ」
相手がどこかの金持ちなら大金を支払わせて落籍させた。
しかし店主の息子は忍足と同い年。
「最初は侑士もその気はなくて断り続けてたんだけどね…」
相手の真摯な態度に絆され徐々に心を開いていったという。
客を取る回数が徐々に減り、ついに店を出ると言い始めた。
怒った店主は無理に二人を引き離す強行に出た。
桁外れな身請け代を要求し、それ以上忍足に手を出すなと脅嚇を始めたのだ。
「普通ならそれで諦めるんだろうけど…その子は違った。二つ返事で受け入れたんだ」
「一体いくらで?」
「七百両さ」
「なっ…正気の沙汰じゃねえ!!」
目の前にいる稀代の太夫であっても千二百両。
名も無い少年一人に誰がその金を払うと言うのか。
出来ない事だと解り言い出したのなら、ここの店主はとんでもない人物だ。
「そうだよ。でもだからこそ本気だと思ったんだ、侑士は。値段じゃない。不可能を受け入れたあの子の態度を見てね」
だからと言ってそんな大金がすぐに払えるわけが無い。
二人は別れる道を選んだ。
しかしそれは真の意味での別れではない。
二人で自由を手に入れるため。
忍足は考えた。どうすれば身体を売らずに金を稼げるか。
そこで思いついたのは、それまでの仕事で得た人脈を利用する事だった。
馴染みの客が自分に会いに来たがっている。
皆それなりに社会的地位もあり金もある。
互いに競わせて花代を吊り上げていき、自分もそれに見合うだけの知識と話術を身につける努力をした。
時には重鎮らの会合の場を設け、様々な世界の闇の引合人となり莫大な収入を得る事に成功した。
相手は忍足の生れた京都に上った。
この家の縁者がやっている傾きかけた損料屋を立て直し、忍足が帰る場所を用意して待つと約束して。
その時に交わした約束。それがあの願掛けだった。
想う相手と再び会える日が来るまで、この店からは出ない。
それは忍足の身を守る事にも繋がった。
裏の世界でそれなりに名の通った奴がこの街を徘徊するには危険すぎる。
そしてもう一つ、毎月朔日を目安に必ず手紙を書くという約束。
それが二人を繋げる唯一の手段だった。
引き離してもなお、二人の気持ちは変わらない。
「ここは元々その倅が使ってた部屋なんだよ。いつの頃からか侑士も入り浸ってたようだけど…
二人で過ごした場所だからか、離れて暮らし始めてからはこの部屋に居たがらなくなってね。
私が馴染みの旦那にもらったあの数奇屋を明け渡したのさ」
元は茶室として使っていた場所だが太夫を専有しようとしたどこかの大店の旦那が改装したらしい。
しかしそれ以上の値で俺の父親が買うようになり、以後は使われずに放置されていた。
そこに忍足は隠れるように暮らし始めた。
外に出る事もなく、ただ一日一日過ぎる日を数えて。
だが店主は忍足を信用せず、仲の良い岳人に監視の役目を言い渡しこの店に置いた。
忍足が逃げ出すような奴ではないと解っていた。
だが岳人はどこか危うい雰囲気の忍足を心配して、監視ではなく保護者として側にいる事を承諾した。
だからいつもこの店で暇そうに遊んでいたのかと合点がいく。
元より働く気の薄い岳人を店に置くより、忍足が逃げ出さない為の警備にする方が役に立つという訳だ。
この前来た時いなかったのは、朔日だったからだ。
便りの来る日前後は絶対にこの店を離れる事はないだろうという事。
どこまでも狡猾な男だと思わず舌打ちが漏れる。
「待てよ…ならどうしてあいつらも居なくなった?」
もしもあの条件を完遂したのなら、忍足がこの店から去ったのは理解できる。
だが他の三人も同時に居なくなるとはどういう事なのかが解らない。
「落籍する日、他の子たちも一緒に店を出る。そう約束させたんだよ侑士は。その分御代は高くついたけどね」
人付き合いに希薄で他人に関心がない忍足は、その分少数の友を大切に思っていた。
こんな店に友を置いて一人で出て行くなんてできない。
そう店主に交渉したのだ。
「亮と萩はね、よかったんだよ。ここを出た後それぞれ貰ってくれる相手が。一つ下の…ほら、鳳来堂の倅と呉服商の日吉の若」
「ああ…知ってるよ」
「鳳の倅は亮を、若は萩をそれぞれ兄事してて。その話を聞いてすぐに名乗り出たんだ。是非うちの店に来てくれってね」
あの日を思い出した。俺が日吉を連れてこの店に来た日だ。
仲良く話し込んでいたのはそういう事だったのだ。
そして鳳来堂の門外不出饅頭は忍足に贈られたものではなく宍戸に贈られたもの。
「岳人は?」
「相手が悪かった。お前さんなら知ってるだろう」
そういって出た名は異常性愛者のものだった。
世間では名士だが、その裏ではとんでもない人物。
俺も噂では聞いている。
確か小柄で生意気な少年嗜好。なるほどな選択だ。
そういう相手を屈させて悦んでいるのだ。全くいい趣味をしていやがる。
「…それで?」
「当然侑士はそれを許さなかった。一緒に京都へ連れて行くと言い張ったんだよ」
そんな諍いがあり、代金は結局一千両近くにまで跳ね上がってしまった。
岳人は忍足一人に負担をかけられないと他にも色々仕事をやったようだが、どれも報酬は微々たるもの。
一千両なんて大金には程遠い。
そこで忍足の収入は全て身請け代にあて、二人分の生活費を岳人が賄う事にした。
だから忍足はいつも慎ましく生活していたのだ。
貰ったものは全て売りに出し、自分にかかる金銭はなるべく少なく済む様に身につける物も新しく買う事をしなかった。
薄汚れた着物を思い出し胸の奥が痛む。そして同時に思い出された忍足の言葉。
お前からだけは貰えない。
「…何であいつ……」
岳人は言っていた。
これを全部貰ったら、その後に続いたであろう言葉は容易に想像がつく。
「京都に行けるのに…か……」
あと少しだったのだろう。
恐らくあの場にあった着物全て売れば目標の金に届いたのだ。
それを断ってきた。何故。
俺にできる事があれば。俺で力になれる事があるなら言えと言った。
あの時見せた淋しげな表情は何だったのか。
「―――くそっ………!!!」
冥彌は黙って俺を見つめていた。
言って何かを吐き出すような相手ではないと考えたのなら賢明だ。
流石と言ってもいい。
こうして気持ちが丸裸にされたのは二度目だ。
一度目はもちろん忍足。
同じ空気を纏う人を前に、俺はいつもなら絶対に音にしない心の声を絞り出した。
「……それなら俺からいくらでも金を絞り取ればよかったんだ!!!何故しなかった!!こんな気持ちだけ残されるのなら……」
深く入れ込む前に消えて欲しかった。
最後まで声に出す事ができない。
悔しすぎて涙も出ない。
結局俺はあいつに何もしてやれなかった。
花代は一度も取られなかった。
着物も他の物も、全部受け取って売り飛ばせばよかったのに。
俺を思って嬉しいと言った言葉が胸に生れた傷を更にえぐってゆく。
相手の男に操を立てて店を辞めたというのに、何故俺に抱かれた。
金が目的ではないのなら何故。
一気に溢れ出る疑問が渦巻き頭を抱える俺に、冥彌が静かに口を開いた。
「最初はね…お前さんが初めてこの店を訪れた時は……あの子も金欲しさに数奇屋に招いたんだよ」
あと少し、あと少しで京都に行けるのに。
焦っていた忍足は丁度頃合を見計らったように現れた俺から稼ごうと、普段なら警戒して絶対にしない事をした。
一見の客を奥座敷に入れる。
危険を顧ず俺を招いた。だから岳人や宍戸はあんなに驚いたのだ。
「ならどうして一度も金を取らなかった。俺は何度も…」
「取れなかったのさ」
「……あぁ?」
「ここを出る少し前にね、あの子と話をしたんだ。お前さんの事も言ってたよ」
あの日着物を用意してもらった事も、芝居を観に行こうと誘われた事も、お前の為に何でもしてやると言われた事も。
どれだけ嬉しかったか、忍足は冥彌にしきりに話していたらしい。
それまで忍足に会いに来た御仁は皆、忍足以上にその後ろにある影を求めてやってきている節もあった。
だからどんなに高価な貢物も遠慮なく売りに出す事が出来た。
もちろん忍足自身を求めてやってくる輩もいたが、そういう奴は大抵身体が目的なので出来れば会いたくない。
あいつはずっと俺の弱い部分を見ていた、この窓辺から。
そんな中で現れた俺は、ただ忍足に会いたいだけの為にやって来ていた。
そこに付け入り金を取るつもりだったのだ。
だがそれが出来なかった。
「あの子はお前さんの弱味に付け込むつもりが…逆に引き寄せられてしまったんだよ……」
生れも育ちも容姿も性格も全く正反対。なのにどこか似ている。
心に抱えた闇。同じ場所に開いてしまった穴。
それに気付いた忍足は引きずり込まれてしまった。
「はっ……同情されたってか…」
俺の弱い部分を知り、拒めなくなったという訳か。
眉間に皺を寄せしかめた顔に冥彌が苦笑いを噛み殺している。
「いや、同情じゃない。同調さ。萩が言ってたんだけど上手く喩えたもんだね」
「同調?」
「似ているからこそ惹かれた。同じ痛みの解る人間として……
男女の間にある様な好きだ嫌いだって甘い想いじゃない、もっと深い部分でね…お前さんを見てしまってたのさ」
だがそれは同時に自分自身を弱くしていった。
上手く隠してはいたがどこか先回りされている気持ちになっていた忍足は、
気持ちが楽になる心地良さと心を読み透かされている心地悪さを同時に感じていた。
「これ以上一緒にいてもお互い傷を舐め合っていても破滅への道を辿るに過ぎない。
それを感じたあの子は……何も言わずここから出る事にしたんだよ」
俺に止められては、揺ぎ無い思いのまま京都に行けないと思ったから。
人は楽な方へ流されるようにできている。
お互い弱い部分を曝け出し解り合えたとしても心の闇が、いずれ互いを傷つける。
「だからって……こんな想いを抱えたまま一人残される身にもなってみやがれ…」
頭を抱え再び黙り込む俺の肩にそっと置かれる手。
「あの子の事…本当に想っててくれたんだね……」
温かくて心に染入る優しさを感じる。
忍足の心も求めていたのだろう、こんな優しさを。
さじ加減を知らない俺の与え続けたものは、忍足が望んでいたものではなかった。
ただそれだけの事だったのだ。

それでも今は思えなかった。
あいつが幸せであればいいと、そんな風には。


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