水面に泳ぐ月。硝月3

もし忍足が何かを心に秘め、俺に抱かれているのなら。
それでも構わないと思えるようになったのは、突然の別れを迎えてから数えて四度の春を越えてからだった。
あの時はただ目の前に突きつけられた現実を受け止めるには若すぎた。
あいつを想い過ぎていた。

数日後、俺は呉服屋を引き連れて店を訪れた。
気を使うなと言われたが、気を使っているわけではないので勝手にする事にしたのだ。
通し間いっぱいに広げられた反物や着物の数々に、滝は無表情で見下ろしている。
「どういうつもり?」
「あいつに持ってきたに決まってんだろ」
「ふーん……まぁいいけどね」
何か言いたそうにしていたが、俺の横をすり抜け連れて来た呉服屋と話している。
そういえばこの日吉という呉服屋は店に出入りしていると言っていた。
忙しいという主人の代わりに連れて来た二代目とも顔見知りなのだろう。
「うわっ!!何の祭だよ!これ!」
「何だ何だぁ?!」
岳人と宍戸もやってきて、呆れた声を上げている。
「忍足は物喜びする奴じゃないから…君も苦労してるみたいだね」
いつの間にか隣にやってきていた滝にそう呟かれる。
「俺がやりたいようにやってるだけだ…おい!汚すんじゃねぇぞ!!」
広げられた着物を順番に手に取り騒ぐ岳人を咎める。
俺もこれ全てをやろうなんて思ってはいない。
この中から一つでも忍足の気に入るものがあれば、それでいいと考えていた。
だからまだ売り物のこれらを汚すわけにはいかない。
見れば日吉も顔を顰めている。
あいつが欲しがれば全て買うつもりだったが、恐らくは断るだろう。
「あいつが好きそうなやつを俺が先に選んでやってんだよ」
そう言っているわりには己の趣味に走った派手な柄のものばかりを選んでいる。
どう考えてもあの華やかさに欠ける男には似合わない。
「わあ…何これ京友禅?凄く綺麗だけど女物じゃないか……」
衣桁に掛けられたこの中で一番の品を目に止まらせた滝は流石の目敏さだ。
花街に住むだけあって、いい物を見る目は確かだということか。
「店にあるだけ持ってきたからな…忍足はどうした?」
今日会えないのならこの中で良さそうなのだけ選んで置いて帰るつもりだった。
しかし滝は予想外の反応を示した。
「……呼んでくる」
「おい呼ばれるまで行けないんじゃねぇのか?」
「いいんだよ今日は…数奇屋に居ないから。ただ会えるかどうかは解らないよ?」
何を言いたいのか的を得ない滝の言葉に首を傾げる。
宍戸に視線を向けて問うが、逸らされてしまった。
これも何かの秘密という事なのだろうか。
暫くすると、滝は一人戻ってきた。
「もう少ししたら来るって」
今日はもう会えないのかと半分諦めていた。
しかし滝はそんな俺の少し浮上した気分を叩き落す一言を吐いた。
「ただ…これは受け取れないから持って帰って欲しいってさ」
「はぁ?!」
驚きで声の出ない俺の代わりに盛大にそう言ったのは岳人と宍戸だった。
二人同時に、大層意外だと言わんばかりの反応だ。
「何でだよ!!!だってこれ全部貰ったら…」
「岳人!!」
「あ…悪ぃ……」
珍しく声を荒げる滝と素直に言う事を聞く岳人。
無い事が二つ重なり、俺はますます混乱していく。
「……受け取れないってのはどういう意味だ?」
「そのままや。これは受け取られへん」
突然背後から降る声に驚き振り返ると、忍足が立っていた。
俺に向けて困ったように笑いを漏らし、岳人の散らかした着物を畳んでいた日吉に近付く。
「すまんな日吉。わざわざ持ってきてもろたのに。これは全部引き取ってんか」
「え…?あ…はぁ…本当にいいんですか?」
「ああ。足労やったな」
俺の顔を見て一瞬躊躇ったが、日吉は大人しく忍足の言う事に従った。
畳紙に着物を仕舞う音が、客間に響く。
「跡部……そんな気ぃ使わんといてくれ」
「気なんて使っちゃいねぇ。俺がやりたい様にやってるだけだ」
「それでもや。俺はお前にこんだけの事してもらうだけの理由なんてない」
「理由は俺がそうしたいから。それじゃ駄目だってのか?」
誰も何も言えない雰囲気だった。
滝も日吉を手伝いながら黙って忍足の動向を見ている。
「すまん跡部…お前からだけは貰うわけにはいかんのや」
それはどういう意味なのか。
他の奴らからは受け取るというのに俺だけ、俺からだけは受け取れない。
そう言いたいのだろうか。
瞬間的に頭に血の上った俺は自分を抑え切れなかった。
「興を殺がれた。帰る」
そう言い残し、店を去った。
俺は忍足の望む何もかもを与えたかった。
見返りなどいらない。
ただ、どこか翳りのある表情を見ていて居た堪れなかった。
どうにかしてやりたい。何かあるのなら、力になれるのなら。
何だってしてやる、そう思っていた。
それが独り善がりな想いだとは気付かずに。

それから数日は仕事も手につかなかった。
何故あんなに苛立ったのか。
拒まれた事がそんなに嫌だったのだろうか。
自分で自分の気持ちが整理がつかず、家の周りにある塀に上り、ぼんやりと川の流れを眺めていた。
「何だ…ここからも店が見えるのか………」
今まで気付かなかったが、広い川を挟み、家と店は背中合わせに建っていたのだ。
同じ様な建物ばかりが並んでいるが、特徴ある建ち方にすぐにそれが忍足の居る場所だと解った。
ここからはもちろん数奇屋は見えない。
どこかの一部屋が大きく窓を開け放っているのが見えるだけ。
昼日中ではあるが、誰かが傾城を呼んだのか、真っ赤な打ち掛けがひらりと舞うのが見えた。
すぐに消えるかと思ったが、その人物は窓枠に腰掛けた。
低く取り付けられた柵にもたれ掛かり、同じ様に川を見下ろしている。
「あれは……」
忍足だった。ここからでは表情などは見えないが間違いない。
いつもの小汚い格好ではない。遠目に見ても華やかな小袖を羽織っている。
「何やってやがる……?」
俺の知ってる限り、数奇屋以外で客を取ってはいない。
誰か特別な客を待っているのだろうか。
しばらくぼんやりと眺めていると、向こうも俺の存在に気付いたのか手を振った。
表情を歪め、舌打ちが洩れる。
見えるはずもない、聞こえるはずもないがどこか後ろめたい気分になってしまった。
苦い表情のまま見つめていると、横に振られていた手が縦に揺れる。
来いと手招きしているのだろう。
いつもの俺ならばてめえが来いと一蹴する場面だが、足は自然に店へと向けられていた。
川を挟んで直線距離にすれば三十間ほどだが、歩いて行くにはそこそこの距離がある。
だが先日の事をどう話そうか考えながら歩いていて、気付けば店は目の前になっていた。
まだ店は準備時間。
夕刻に向けて慌しく下人らが走り回る廊下の端、玄関先に忍足は腰を下ろしていた。
先刻まで羽織っていた小袖はもう仕舞ってしまったのか、いつもの綿の着物を着ている。
「いらっしゃい」
先日の事などまるで気にしていないとばかりに笑いかけられる。
否、違う。何度も通ったがこんな風に出迎えられた事はない。
こいつなりに気を使っているという事か。
「…少し歩かねぇか?」
俺は玄関を開け放ち、暖簾を上げて忍足が草履を履くのを待った。
だが言葉を聞くよりも、一瞬見せた困ったような顔で何を言いたいか解ってしまった。
「何やお前の誘い断ってばっかりで悪いんやけど……」
「嫌ならいい」
「すまんな…俺はまだその敷居を跨ぐわけにはいかんのや」
つい口をついた不機嫌な声に返されたのは、思いの外沈んだ声だった。
今の言い方では、忍足は店から出たくないのではなく出られないという事になる。
「ちょっと話そうや。上がり」
有無を言わせぬ言様に、促されるまま三和土に踏み入れ玄関を上がった。
忍足はそこを通りかかった下男に声をかけている。
「すまんけど松の間借りるで」
「わかりました」
下男は俺に頭を下げ、また慌しく勝手へと消えた。
今日は忍足の部屋には入れてもらえないという事か。
松の間は主庭のすぐ脇にあるこの店で一番の部屋だ。
忍足の後をついて中に入ると、庭に続く障子が開けられ部屋は光に溢れていた。
薄暗い数奇屋とは対照的だ。
「今なぁ部屋の掃除してて中ひっくり返ってんねん。人に見せれる状態ちゃうからここで堪忍な」
そう言われてほっとしている自分自身に舌打ちが漏れる。
こんな風に他人に調子を狂わされるとは、らしくない。
どんな相手も力で、言葉でねじ伏せてきた。
こんな風に相手のご機嫌を伺うような真似は初めてだ。
「お前、何や考え事しとったやろ」
「何?」
「せやから、さっき塀のとこでや」
忍足は部屋を通り抜け、そのまま主庭に出た。
広くとられた砂利敷きの空間を横切り、お茶席のある屋根の下まで歩いていく。
俺もその後をついていった。
「お前何か悩んでる時やら考え事する時、いっつもあっこ上って川ぼーっと眺めてるやろ」
「何故それを…」
確かに俺は仕事でも他の事でも、一人になって考えたい時はあそこで川を眺めている。
今日の様に。それを何故こいつが知っているのか不思議に思う。
「さっきの部屋から見えるんや」
「盗み見てんじゃねぇよ」
つまりは俺がこの店に来る前から忍足は俺を見ていたという事。
悪態を吐いて隠したが、敏いこいつの事だ。
俺の含羞を見抜いているに違いない。
「こないだは悪かった。ほんまに堪忍やで」
「別に構わねぇさ。俺が勝手にした事だしな」
何事においても正直者の俺はつい責める様な言い方になってしまう。
どうして忍足のように上手く立ち回れないのかと己を呪った。
「お前の気持ちはほんまに嬉しかったんや。それは解ってくれ」
「ならどうして断った?」
「貰たとしてもお前の気持ち踏みにじる事になるから……せやから受け取れんかった。嬉しかったから受け取れんかったんや」
異国人と喋っている気分だった。
全くの矛盾を口にする忍足に眉をひそめ睨みをきかせる。
だがそれはいつものように不敵な笑みでかわされてしまった。
「俺はお前に…俺の事知られたなかった……ずるい言い方かもしれんけどな、お前に知られて嫌われるんが怖いんや」
「嫌わないと言ったら?」
「…………それが解ってるから怖いんや」
溜息と共に吐き出された思わぬ肯定を意味する言葉に驚いた。
言葉の真意を探ろうと口を開きかけたが、先に話題転換をされてしまう。
「あ、なぁ聞いたか?」
「何をだ」
「鷹尾姐さんお身請けやて。相手誰や思う?俺も聞いて吃驚したわ」
「……うちの親父だろ」
やっぱり知ってたんか、と笑い声をあげる。
一族の反対などまるで聞かずに妾宅を与えて目玉の飛び出るような値で鷹尾太夫を請け出すと言う。
我が親ながら、何を考えているのかと思ったが、親子揃ってやっている事は同じなのだと思い知らされる。
俺も同じ様に金や物で忍足を繋ぎ止める事しか考えられなかった。
と、いうより俺はそれ以外のやり方を知らない事に気付いた。
それを見抜かれていたから、先日の様な態度にでたのだろうか。
相変わらず忍足の考えている事は解らないでいる。
しかし解らないからといって思いあぐねる様な性格ではない事は自身よく解っている。
「お前は……どうすれば喜んでくれるんだ?」
「は?俺?」
「ああ。何が欲しい?何がしたい?お前の望みが知りたい」
「何もいらん。何もしたない。それが俺の望みや」
いくらこちらが率直に聞いたとしても、答えがこれでは話にならない。
その言葉を理解できずに顔をしかめると、忍足はふっと笑いを漏らした。
「これ」
突然懐から何かを取り出し、目の前に突き出してきた。
忍足の着物同様薄汚れた細長い袋に入れられた何かだ。
「…何だよ」
「銀の煙管。家紋入りや」
薄汚れてはいるが、細かい細工の施されたいい品だ。
だがいきなり持ち物自慢をされて訳が解らない。
「それがどうかしたのかよ」
「俺の持ってるもんってこれだけやねん」
「は?」
「着てるもん、持ってるもん…全部貰いもんばっかりでな、俺自身の持ってるもんゆうたらこれだけなんや」
「それで?」
「…無欲に慣れてしもた」
こんなところに居て、様々なものを与えられ続け、飽和状態になり心が何も欲しなくなってしまった。
忍足はそう言って淋しげに小さく笑った。
「あ、さっきのちょっと訂正。いっこだけやりたい事あるわ」
「何だ?」
「早よこの店の外に出たい」
「出りゃいいじゃねぇの」
言ってから先刻の忍足の言葉を思い出す。
出たくても出られないと言っていた事を。
「あかんあかん。願掛けてんねん」
「願掛けかよ…俺はてっきりここに牢籠されてんのかと思ったぜ」
「俺の力で出な意味無い事やから…頑張れるんや」
子供だましな事だと思う。それでも忍足の表情は真剣だった。
「俺で力になれる事があるなら言えよ」
だからその言葉は自然に出てきた。
だが忍足はまた淋しげに笑うだけで、今度は何も答えなかった。
暫くは二人の間を支配するのは植えられた木々を掠める風の音だけ。
忍足も茶席に腰掛けぼんやりと池の鯉を眺めている。
俺はそんな忍足の横顔を眺めていた。
「…そんな見つめられると照れるんやけど」
「減るもんじゃねえんだからいいだろ」
「阿呆…お前の視線怖いねん」
「怖い?」
「ああ……思いっきりな」
そんなに険しい顔をしていたとは気付かなかった。
揺れる池の水面に己の顔を映し、じっと眺める。
見る者の反応が二分する面の様な顔がゆらゆらと揺れている。
好意的な者は整った顔だと褒め、そうではない者は異人の様なこの顔を気持ち悪いと言う。
そういえば忍足はどちらでもなかった。
俺の顔をじっと見ていた下女の一人が見惚れていましたと言うのを聞いて、そういや綺麗な顔してるなお前、と。
その時初めて気付いたと言わんばかりのその言葉に思わず吹き出した。
決して悪い気はしないが所詮表面的な事なので容姿で褒められても、はっきり言ってそんな事はどうでも良かった。
忍足は俺の何を見ているのだろう。
顔でもなく、金でもない。
何故こいつは俺を受け入れてくれたのだろうか。
ひと際強い風が庭を吹き抜け、水面が波立ち映っていた顔が消える。
視線を外し顔を上げると、意外な事に忍足は俺の顔を見ていた。
「何だ?」
「いや…自分に見惚れてんか思て。邪魔したらあかんなぁと……」
「てめえ…」
俺はそんな自己陶酔的な人間じゃないと反論しかけた時、足下の砂利が音を立てて近付いてきた。
誰かが来たのだ。
振り返れば下男の一人が何かを持ってくるところだった。
「御座様。届きましたよ」
差し出されたのは以前と同じ様な書簡。
ただ違っていたのは忍足の反応だった。
ガタリと音を立てて立ち上がり、下男に近付き書簡を受け取った。
普段は必要以上に落ち着き払っているというのに、明らかにいつもの奴の様子とは違う。
下男は俺に失礼いたしましたと頭を下げ店に帰っていった。
恐らくは届いてすぐに持ってきたという事だろう。
でなければ客人が来ている時に持ってくるはずもない。
心待ちにしていた便りなのか、忍足の顔はいつになく嬉しそうに見えた。
差出人が誰なのか、尋ねることも憚られる程に。
中身を見ようともせずただ包まれた紙をじっと眺めている。
「…読まねえのか?」
「あ?え?あ…ああ、そやな。部屋帰ってゆっくり読むわ」
忍足はそう言って袂に仕舞った。
再び静寂が訪れた。
風は止み、木の葉の揺れる音も無い。
相変わらず忍足は明後日の方向を向いていて何を考えているか解らない。
と、突然笑い始めた。
「何だいきなり…気持ち悪ぃ」
「いや…岳人らおらんかったら静かやなぁ思て」
「そういや今日は見てねぇな」
「今日はお茶屋に出る日やから朝からそっち行っとるわ」
いつもこの店で暇そうにしているからつい忘れそうになるが、あいつ達も働いているのだ。
滝はともかく、万事において等閑な宍戸や岳人がちゃんと働いているのかと思ってしまう。
心配などしないが、真面目に働いていないのであれば店主に同情する。
「あ、お前も何か飲むか?頼んだら何か持ってきてもらえる思うけど」
今更何も出していないと慌て始める忍足を制する。
もうすぐ暮六つ。店の始まる時間だ。
店の外で華やかな囃子が始ったのを聞き、俺は帰ると告げ席を立つ。
「すまんな…呼んどいて何も構えんで」
「いや構わねえ。話せてよかった」
「そうか…ちょっとでも気ぃ楽なったらそれでええわ」
やはりこの間の事を気にしてくれていたようだ。
素直に言えない礼の代わりに軽く唇に口づける。
そして不意をつかれた忍足の驚いた顔に満足した。
「じゃあな。また来る」
「跡部」
踵を返した背中にかけられた声はどこか硬いものだった。
体ごと振り返り見つめるが、風に揺れる髪で表情は見えない。
「何だ」
「お前は自分で思てる程強い人間ちゃうから、たまにはちゃんと息抜きしぃや」
「…解ってる」
誰もが俺を万事に秀でた人間だと評価する。
間違ってはいない。自身それを誇りに生きている。
それを嫌だ、逃げたいなどと思った事は一度も無い。
ただ時々、今日の様にふと気持ちが途切れる瞬間があるのだ。
些細な気持ちの変化だったりする事が多いのだが、忍足はその瞬間をいつもあの窓から見ていたのだろう。
俺は否定せず頷いた。
「それから――……」
忍足は一瞬言いよどみ、言葉を飲み込む。
急かす事をせず次の動向を待っていると、奴は思いもよらない行動に出た。
悪戯な風に髪を結っていた組緒が取れ、それを合図とばかりに俺は抱き締められたのだ。
悔しい事に上背は忍足の方が僅かに高い。
だが日頃の不摂生の所為か腕に込められたのはあまりに弱い力だった。
体型はそれでも何か確固たる思いを感じた俺はされるがままにする。
いつもとは逆転の立場になり、それでも忍足を抱き締めている様な気分になっていた。
「………どうした?」
肩口に顔を伏せたまま何も言わない忍足に問う。
拘束され動けない両腕の代わりに包み込めればと、精一杯の優しさを込めて。
「……大事にせぇよ…自分の事」
肩に押し付けられた声は篭っていたが、泣いているようにも聞こえた。
一つ溜息を吐き、耳元に口を寄せる。
「それ、そっくりそのままてめぇに返すぜ」
抱き締められていた腕が緩み、ようやく忍足が小さく笑った。

何故突然そんな行動に出たのか。
何が忍足をそんな行動をとらせたのか。
家に帰ってから気付いた事が一つ。
今日が、忍足の言う朔日だったという事。
大切な用とはあの便りだったのだ。
それに気付いた俺は漠然とした不安に駆られた。
根拠の無いものだったが、どこか核心のようなもの。
嫌な予感がした。そしてそれは最悪な事に的中してしまった。
次に行った時、奴はもう店にはいなかった。
予感はしていたが最後までそれを信じられなかった。
納得がいかなかった俺は店に赴き店主を捉まえ話を聞きだした。
店主は納得いかないのはこちらだ、まあ約束だったから仕方なかったが、と渋々話し始めた。
もともと茶屋で働いていた頃からの約束だったらしい。忍足がこの店を出る事は。
ただその条件というのが厳しいものでなかなか出る事が出来なかったと言う。
誰もが不可能かと思っていた。
しかし忍足は実現した。そしてこの店を出て行った。
それ以上詳しい事は教えてもらえず、俺は中途半端に置いてけぼりを食らった気分だった。
目の前に突きつけられた現実は思いの外、心に突き刺さってくる。

この街で一番の太夫が身請けされた頃。
その華やかな門出に隠れてひっそりと、四人の少年達が廓から姿を消した。


go page top