水面に泳ぐ月。硝月1
月の裏側。
それは決して姿を見せないもの。
だが本当は見てはいけないものだと目を逸らし続けているだけなのかもしれない。
突然目の前に現れ、そして消えた君は、月の裏側だったのだ。
手を伸ばしても届かない、追いかける事も許されない。
そんな月夜の物語――――
店に立ち寄ったのは、ほんの気まぐれだった。
昔父親に連れられて来た覚えのある揚屋を目の前に、ふと懐かしい思いに駆られ門をくぐった。
特に女を目的に店に入ったわけではなかった。
だからお相手出来る傾城がおりませんで、と恐縮する主人をけん怒するつもりもない。
腹が減ったから何か食わせてくれとだけ伝え、俺は店に上がりこんだ。
とりあえずお座敷の用意が出来るまでこちらへと通された小さな間で、出された茶を啜り大人しく待つことにする。
窓の外は廓特有の華やかな灯と音が通りを彩り、格子の隙から部屋の中に洩れ込む。
他の部屋は皆遊女を呼び宴を楽しんでいるのか時折大きな笑い声と上品な囃子が聞こえてくる。
俺の住む家の川を挟んで真裏にあるこの廓は何度か通いなれた場所だった。
幕府からの信頼も厚い親の七光りをかざし様々な店で遊んだが、何度来ても浮世離れした空気に慣れる事は出来ないでいる。
そんな喧騒に混じり先刻から時々聞こえてくる。
数人の男の声。歳は俺と変わらない位だろう若い男の声が。
前の廊下からだ。
何をこそこそとしているのだろう。
気になった俺は思い切って廊下に続く襖を開け放った。
「うわぁああああ!!!」
その声に驚かされたのはむしろこちらだった。
突然の事に非常に驚いたと目を見開いた男らを見下ろし、呑気にそんな事を考えた。
「何してやがる」
怒っていた訳ではない。ただ純粋に何をしていたのかが気になっての言葉だったが思いの外相手を攻撃してしまったらしい。
その場にいた奴らは皆一斉に頭を下げた。
ただ一人を除いて。
「あぁ…すまんなぁ……旦那に見合う子がおらんからどないしょうかて相談しててん」
その一人にふわりと笑われ呆気に取られる。
誰もが思うまま喋る事のない俺に対して、物怖じする事なく話し掛け、笑いかけている。
何者なんだこいつは、と。
興味の湧いた俺はその男を指名した。
「いねぇんならお前でいい」
「は?俺?」
俺を目の前には微塵も動揺しなかった男が一瞬驚いた。
「しかし御座様は………」
何か言いたそうな下男を手で制しにっこりと微笑んだ。
この店では相当な権力者なのだろうか。
笑み一つで俄かにざわめいた下男らを黙らせてしまった。
しかしそれにしては薄汚れた綿の着物を身に着けていてそういった印象には程遠い。
「おいお前はいいのかよ…」
この店に居るのだから座敷に上がるような人物ではないのだろう。
髪の長い男がその男に小さな声でそう囁いたのが耳に入ってきた。
「それは俺が決める事ちゃうやろ…お客さんに聞かな」
「いやそうじゃなくて…」
「な、旦那は俺でええんか?」
振り向き様にそう訊ねられ、迷わず答えた。
「あぁ。構わねぇぜ」
「ほな奥座敷用意してくるわ。準備できたら俺の部屋に料理運んでな」
「…はっはい!!」
その場にいた下男や下女らが散り散りに持ち場へと帰っていく。
「やれやれ。どんな気紛れなんだか…」
「まぁな。いくら若君のお願いとはいえ一見の客を奥座敷に入れるなんてよ」
ぼりぼりと頭を掻きながらそうぼやいているのは、下男ではないだろう。
綺麗に切り揃えられた前下がりの不思議な髪型をした男の襟首を掴まえた。
「おい禿」
「禿じゃねぇ!!失礼な奴だな!」
「失礼はてめぇだ!!誰に向かって口をきいてやがる!」
こんな下賤を相手に本気で言い合ったのは久しぶり、というより初めてだろう。
先刻までの萎縮が嘘の様に偉そうな態度に、怒りよりも笑いがこみ上げる。
堪えきれず吹き出すと、訝しがり変な顔を見せた。
「なっ…んだよ」
「いや…」
「若君、お座敷のご用意が出来ましたよ」
笑いが止まらないまま腹を抱えていると食えない笑みを見せていた、色の抜けた髪も美しい男が呼びにやってきた。
まるで幼子に言い聞かせる母親の様な軽い言い方に、最早この場に俺の身分など関係ないようだと感じ始めていた。
面白い。
廓では随一と言われている揚屋に、まさかこんな奴らがいたとは。
「…お前らみたいな奴ばっかかよ、この店は」
そんな中で最も興味を引かれた男の待つ部屋に向かいながら、そんな言葉が思わず口をついて出てきた。
通された部屋は二階建ての店の更に奥、離れと言ってもいい。
坪庭のにある小さな数奇屋だった。
にじり口はなく、人の背の高さに合わせて作られた木の引き戸を開けると畳の青い香りが鼻をつく。
中は一間だけだが四畳半よりもはるかに広い。
数奇屋に見せた人の住む場所なのだろう。
奥には床の間の代わりに一段高く据えられた床と、それを遮る様に御簾が張られている。
あの男の寝所だろうかと、つい余計な詮索をしてしまった。
「いらっしゃい」
柔らかく流れる声にはっと我に返る。
「狭い所やけどどうぞ」
酒の用意を手に背後から現れた男に促され、中に入った。
出された座布団に腰を下ろすと慣れた様子で酌をされ、柄にもなく動揺してしまう。
「お前…この店の人間か?」
「まぁ…そういう事になるんかなぁ……」
「何だよその煮え切らない答えは」
「いや、お座敷に出てる訳やないし。まぁここ間借りして生活しとるだけや」
その割に下働きをしている奴らの扱いが半端ではない。
やはり何かしらの身分の人間なのか。
それに不躾な俺の視線も気にする風もない。
俺はますます好奇心を掻き立てられた。
「御座様、失礼いたします」
「あぁご苦労さん。間口に置いといてんか。取りに行くよって」
給仕していた銚子を一旦置くと、男は下女の一人が持ってきた料理を乗せた膳を取りに立ち上がる。
恭しく一礼して出て行く下女にもう一度礼を言うと、上がり口に置かれた膳を持って戻ってくる。
「御座様…って、随分仰々しい呼ばれ方してんだな」
御座は身分の高い人の住む場の事だ。
半ば揶揄とも取れる俺の言葉にようやく困ったように眉を顰めた。
「別に俺がお偉いからそう呼ばれてるんちゃうで。あれの事や」
そう言って指差したのは、この部屋に入ってすぐ目に付いた御簾の向こう側だった。
そういえば上げ畳を示す言葉も御座だ。
「…源氏名みたいなもんか」
「そんなもんや。ちゃんと名前もあるし…」
「教えろよ。俺は跡部景吾だ」
名前を聞くなら先に名乗るのが礼儀だろうと思って言ってやったというのに、あろう事かこいつは笑いやがった。
「いや…川向の坊の名前、この辺で知らん奴おらんやろ…」
「そうか?ならお前も他の奴らみたいに恭謙して坊やら若やら呼ぶんじゃねぇぞ」
「跡部様?」
「様はいらねぇ。呼び捨てでいい」
貼り付いたような笑顔を崩し、また驚いた顔を見せる。
あまり思った事を顔に出さないのだろう。
たまに見せる心を映し出した表情を見せると何故か嬉しいような気がする。
「それはあかんやろ…旦那はお客さんなんやし」
「跡部」
遮るように断定すると、先刻までの貼り付けた笑みではなく、ふっと表情を和らげた。
そして自分の感じた思いに確信を持てた。
俺はやはりこの仮面の下にある本当の顔を見たいのだ。
「ほな…遠慮のぉ呼ばせてもらうわ跡部。俺は忍足や」
「忍足…ね。下は?」
「内緒や」
「あぁ?」
隠す必要のない場面での拒否に思わず不機嫌な声を上げてしまった。
「一見の客には教えん」
「お前はどこの気位の高い傾城だ」
ならばまた遊びに来れば教えてくれるという事だろう。
媚びる事なく、遠慮ない態度。
この廓では珍しい上方訛りの低い声も心地よいし、何より飯も美味い。
また来ない訳にはいかないようだ。
それから俺は暇を見つけては通い詰めた。
他の傾城を買う為ではなく忍足に会う為だ。
最初から理由をつけてまた来るつもりだった。
二度目は名を聞く為に、三度目はあいつを抱く為に。