水面に泳ぐ月。硝月2
忍足は特に自分の事を話そうとはしなかった。
だが通ううちにあの日店にいた他の男ともよく話すようになり、徐々に色々な事を話してくれるようになった。
「おい禿」
「禿って呼ぶんじゃねぇ!!」
「そんな髪型してるからだろうが」
「だったらあいつのがそれっぽいだろうが!!」
のんびり茶の用意をしている男を指差し俺に噛み付いてくるのは、向日岳人という男だった。
茶の用意をしていたのは滝萩之介。初めて来た日、俺を子供扱いした男だ。
もう一人は宍戸亮という四方髪の男。
俺とこの三人、そして忍足も含め皆同い年だと解り、互いに遠慮はなくなった。
三人は別の茶屋で働いているから直接はこの店に関係はない。
客ではない俺に対して諂う必要も無いのだ。
遊里遊びは普段のそんな息苦しさから解放されたいが為。
俺もこんなところにまで来て気を使われたくないので特に何も言わなかった。
すると際限なく調子に乗った奴らは馴れ馴れしい態度を見せ始め、今では口いっぱいに言い合う様だ。
今日も忍足に会いに来たのだが、何故か店に居たこの三人と玄関脇にある茶の間と客間の通し間で喋っていた。
「僕は禿じゃないよ。それに茶屋って言っても春を売ってる訳じゃないし、色子でもないよ」
「そんな冷静に返すなよ……」
俺に出されたはずの茶を勝手に啜っている宍戸が呆れた声で応戦した。
「てめぇ…茶だけならまだしも俺に出された菓子まで食ってんじゃねぇ!!」
「ケチケチすんなよ!家じゃもっといいもん食ってんだろ」
高つきに山盛り盛られた饅頭を頬張る岳人に文句をつけるが、そんなものは右から左に抜け出ていく。
これは鳳来堂の饅頭。店に出さない門外不出の贈答用の一品のはず。
店の主人が気を利かせて持ってきてくれた品のはずが、その大半が岳人と宍戸の腹に収まっている。
「まぁ…俺も饅頭を食いに来た訳じゃねぇ……忍足はどうした?」
「忍足ならまだ寝てるぜ。あいつは日が昇りきっても起きてこねぇよ」
「呼んで来いよ」
漸く一つ目の饅頭に口をつけ、当然呼んでくるだろうという確信をもってそう言った。
だが宍戸は顔をしかめる。
それ以上何も言わなくなった宍戸の代わりに呑気に饅頭を口に含んだまま岳人が言葉を続けた。
「そりゃ無理だ」
「あぁ?」
「あいつの部屋には呼ばれるまで行けねーんだよ。それがこの店の決まりだ」
呼ばれるまで行けない。
こちらから訪れる事は許されないという意味か。
「だいたい店の方まで来る事も珍しいしな。俺でも三日ぐらい顔見ない日あるぜ」
「僕らは僕らで仕事あるし。茶屋の方に出る日は朝早いからなかなか会えないよね」
そう言って滝まで饅頭を頬張り始めた。
すでに俺の分は今食べたもので終わりだ。
忍足にも会えないなら、ますます何をしに来たか解らなくなってきた。
「あれ?お客さんかな…」
襖の外が騒がしい事に気付いた滝がおもむろに立ち上がる。
それを出歯亀しようと岳人が立ち上がり、宍戸もそれに続く。
二人は襖の陰に隠れ、客を出迎えている滝の動向を眺めている。
普段はそんな下品な真似はしない俺だが、つい気になって宍戸の後ろについた。
胡散臭い滝の笑みに迎えられた人物にはどこか見覚えがある。
「すまぬが奥殿にお目通り願いたい」
奥殿。それの示す者が忍足だという事にはすぐに気付いた。
店に娼妓のいないここで奥を示す人物がいるのならあいつしかいない。
「申し訳ございません。生憎ですが留守にしておりまして…」
「ならば書簡だけでもお渡し願いたい」
滝がご丁寧に包まれた書簡を受取っている。
何やら言葉を交わしている二人を見て、岳人が顔をしかめた。
「おいあれ鷺沼の使いだぜ」
「鷺沼って…家老のか?」
幕府でもかなりの高職に就く士の名前の登場に驚いた。
俺も仕事関係で何度か会った事はある。
だがそんな人物が忍足に何の用があるというのか。
ここにはもう何度も通っているが、ここまで高位な人物まで来ているとは知らなかった。
どこかの店の主人だ、大名だ、という名は何度か聞いた。
この店の敷居が高いのだから当然だ。
「また来たのかよ…今月もう六度目だぜ…いい加減諦めろよな」
「またって……そんな何度も来てんのかよ」
宍戸の言葉に更に驚かされる。
何度もやってきて、という事はそれだけ断られているという事。
「だいたいお前のがおかしいんだぜ」
「あぁ?!」
俺のどこがおかしいというのか。
聞き捨てならない岳人の言葉に思わず声を荒げてしまった。
慌てて口を塞いだが滝には気付かれ、無言で睨まれた。
険のあるあいつの視線は俺をも黙らせる威力がある。
覗いていた二人の首根っこを掴み部屋に引っ込んだ。
「おかしいってどういう意味だ」
猫のように扱われ些か機嫌の悪くなった宍戸が襟を整えながら、説明を始めた。
「一見じゃまず会わない…っていうか会えないだな。相当運が良くないと」
「そうそう。それがいきなりふらっと来て奥座敷であいつの酌受けたって…他の奴らが聞いたら刺されんぜ、お前」
馬鹿にしたように笑いながら胸元を指で突き刺す真似をする岳人の手を払いのける。
「まったく…何しに来るんだよあいつら」
「君とは違うんじゃないかな?」
また胡散臭い笑みを振り撒きながら滝が戻ってきた。
訳のわからない一言と共に。
「政や商売の話をしに来るんだよ」
「だから何でそれがあいつなんだよ」
「あんなにぼけーっとした顔してるのにね、結構鋭いんだ、彼」
確かにあいつは見かけによらずなかなか鋭い意見をぶつけてくる。
ただ遊ぶだけなら他の遊女でいいが、同時に仕事の話も出来る忍足は他にない人物という訳か。
ならばどうして断るのだ。
よっぽど気に入らない相手という事なのだろうか。
その旨を聞けば岳人に盛大に笑われた。
「あー違う違う。大方花代吊り上げるのが目的だろうよ」
「どうしても会わせてくれって、その分相手も見境無くお金出してくるしね。ほら」
個が個に当てた文を他の人間が読むのはどうなのか。
滝は何の躊躇いもなく先刻受け取ったばかりの書簡を開いて見せてくれた。
「あぁん?!これ桁間違ってねぇか?!」
決して安くない提示額に思わず慄いた。
娼妓でもない人間がこんなにも金を取っていいものなのかと思わされる。
「間違ってねぇよ」
横から覗き込む宍戸は、こんなの序の口だと言わんばかりの様子で鼻で笑っている。
「春も売らずにこの花代。他の姐さん方が聞いたらどう思うだろうね」
何気なく出た滝の言葉に俺は驚かされた。
春も売らずに。
そんな筈は無い。
何故なら俺は、二度目にしてあの御簾の向こう側を見たのだから。
二度目は名前を聞きに来るつもりだった。
だが初めて来た日の帰り際、思わぬ形で忍足の名を知る破目となった。
飯を食い終わり、帰ると言う俺を玄関まで見送りに来てくれた忍足を見て岳人が「侑士」と声をかけたのだ。
僅かに動いた忍足の表情を見逃さなかった岳人は物凄い勢いで勝手へと消えていった。
これから緩やかに落ちるであろう忍足の雷を懸念して。
再び二人きりになった玄関先で、
「折角次に来て貰う言訳にしよ思たのに」
そう言って苦笑いを洩らした。
「なら理由なんざいらねぇ。また来る」
「え?」
「お前に会いに」
「嬉しい事言うてくれるやん。ほなまた席用意して待ってるわ」
そう言って見送られてから、暫く仕事で家を空けていた事もあり、次に店に訪れたのは翌月の十日も過ぎた頃だった。
ただの通りすがりの馬鹿坊の戯言だと諦めていたのだろう。
俺が再び訪れた時、忍足は本当に驚いた顔をした。
「何て顔してやがる」
顔を歪めてやったが、本当は嬉しかった。
貼り付けた笑顔ではなく心を映し出した顔を見せてくれたからだ。
「いや…ほんまに来てくれたんやと思て」
「あ?俺様が約束を反故にすると思ってやがったのか。失礼な奴だな」
「いや…よかったわ。ええ酒貰てん。一緒に呑もうや」
そう言ってまたあの数奇屋に招いてくれた。
そして出てきた酒にも驚かされた。
「おま…っ!!これ将軍家に献上する呉華じゃねぇか!!」
毎年幕府に献上する分だけを生産していると噂の、幻の銘酒が目の前にある。
いくら花街とはいえ、庶民の家にあるような品ではない。
確かこいつは先刻貰ったと言っていた。
「何や、そんなええもんなん?」
呑気にそんな事を抜かし、瓶に貼られた紙を眺めている頭を思わず張り倒しそうになってしまった。
「もう封開けてしもたがな…売ったったらよかった」
いや、恐らくその辺の酒屋が出せるようなはした金では買えまい。
物の価値が解る者が呑んでこそこの酒の真価が問えるというもの。
俺が有難く飲ませてもらう事にした。
「せやけどほんま…また来てくれるとは思わんかってん」
「まぁ…大分時間経っちまったしな」
「それはええねん。朔の日前後は折角来てもろても相手できんやろし」
俺に背を向けたまま、酒の用意をしている忍足がそんな事を言う。
顔は見えないが声が僅かに嬉しそうに感じた。
「…何かあるのか?」
「大事な用や。誰にも会えへん」
言い切った忍足がそれ以上聞いて欲しくないという空気を出している。
「ま、いいけどよ」
本当はその用とやらが気になって仕方なかったが、気にしない振りをした。
誰もが一夜の夢を買いに来る場所。ここで余計な詮索は禁物だ。
「ほら、ご一献」
話を替える様に差し出される酌を受け、幻と謳われる酒をしっかり味わう。
「うわっ…何だこの味…っ」
「あぁ、お前辛口のが好きやったなぁ…お上品なこの酒やったら物足りんか」
そう言って忍足が笑った。
芳醇な味わいが口いっぱいに広がる酒は確かに美味い。
だが甘さの際立つこの味はどうしても好きになれそうにない。
幻だからと言って、それが本当にいい物かどうかなんてこの目でこの舌で確かめなければ意味が無い。
それはこいつにも繋がる事だ。
ふとそんな事を思った。
「お前…この辺じゃ結構有名だったんだな」
「俺?お前ほどやない思うけど」
折角の酒だが俺の口に合わないと解った忍足は、前に出したものと同じ酒を替わりに用意を始めた。
「旦那衆がこぞってお前に会いに来るって聞いたぜ。けどなかなか会って貰えないってな」
今まで興味がなかったから話を聞き過ごしていた。
だがこいつは俺が仕事で会う人間の間でかなりの有名人だったのだ。
以前はこの揚屋の主人が営んでいる茶屋で働いていたらしいのだが、ある日を境に突然この店の奥に引っ込んでしまった。
それまで忍足目当てに茶屋に足繁く通っていた御仁はどうにかして会いたいと手を替え品を替え、この店にやって来るという。
合点がいった。そういった奴らからの貢物なのだ、先刻の酒も。
「ほんま…皆物好きやんなぁ……何が良ぉて高い金払てむさ苦しい男に会いに来るんやろ」
「おい、それは俺に対する嫌味か?」
並の奴らなら、ここで絶対に謝ってくる。
商談でも色事でも、言葉で人に言い負かされるなんて経験のない俺は忍足との会話を楽しんでいた。
こいつは必ず俺が予想している以上の言葉を返してくるのだ。
「そう聞こえたか?」
俺が怒っていないと解ってか、笑いながらこう返してきた。
忍足は物事の表面にあるどうでもいい装飾に興味はなく、本質だけを見抜いて話をする。
諂う事はないし、金目当てに媚びる事もしない。
恐らくはそんな相手だからこそ皆挙って会いにくるのだろう。
斯く言う俺もその一人だが。
「面白ぇ奴」
「それは俺に対する嫌味か?」
思わず出てしまった言葉に今度は忍足の方がそんな事を言う。
同じ言葉だが、語感の違いで随分印象が変わるものだ。
「褒めてやってんだよ」
「そんな褒められ方嬉しないっちゅーねん…」
「ならどう褒めてほしい?」
「物の喩えや」
掛け合う言葉が心地よい。
お互い同じ事を思っていたのか、顔を見合わせて笑った。
「…なぁ、お前は何でまた俺に会いに来てくれたんや?」
ひとしきり笑いあい、一息ついて思いついたようにそんな事を聞かれた。
「理由がいるのか?」
「いるっちゅーか…気になった、が正解かな。客の事とかあんまり気にせんねやけどお前の事は気になった」
「同じだ、俺も」
出掛かっていた酒を勧める手が止まった。
想像していた答えと違っていたのだろうか。酷く驚いた顔をしている。
だがそれも一瞬の事。
「へぇ………」
すぐににやりと口元を歪めた。
「なら俺からも質問だ」
「何や?」
「お前は床の相手もしてくれんのか?」
「何や、お前男もいけるんか?」
意を決して聞いたというのに、鳥肌の立つような事を言ってくれる。
「他の男に興味なんざねぇよ」
無論男になど興味はない。
あるとすれば目の前にいる男一人だ。
「で、どうなんだ?」
「気分次第やな」
「面白ぇ。今はどうだ?」
「……上々や…」
薄く笑いを含んだ唇が蠱惑に歪む。
少し伸びた髪を結っていた組緒を解く仕草が誘惑の合図なのか。
俺はそのまま罠にかかるが如く、淡い行灯の光に浮かぶ体を掻き抱いた。
「―――べ!跡部!!」
「あ?」
「人の話聞いてる?」
他所事を考えていたらうわの空になってしまっていた。
何か滝が喋っていたようだが全く聞いていなかった。
唐突に顔を覗き込まれ、思わず仰け反ってしまった。
そんな俺の様子に岳人が馬鹿にしたように笑う。
「目ぇ開けて寝てんじゃねぇの?金魚かお前」
「……っせぇ」
いつの間にか新しく淹れられていた茶を飲み動揺を隠す。
「おーい引き板鳴ってんぞ!!」
通し間から見える庭の奥を眺めていた宍戸が突然大声で叫ぶ。
その声の大きさに、ようやく治まりそうだった心の揺れがぶり返した。
「目の前でいきなり大声出すんじゃねぇ」
「お…悪ぃ悪ぃ。忍足が呼んでたからよ」
この通し間からは主庭しか見えない。
忍足のいる坪庭からは少し離れているから何かあったとしてもここからは臨む事はできない。
その為に数奇屋の軒下に鳴子を吊るしてあるらしい。
何か用があればそれを使って呼ぶのだ。
俺の耳には届かなかったが、敏いのだろう。宍戸の耳には届いたらしい。
「…いつもあぁやって呼んでんのか?」
「半々だな。奥から出るのが面倒な時はこうやって呼ぶし、直接来る時もあるし」
「残念だったね。来てくれなくて」
「てめぇ…」
どうにも滝の、この人を食ったような胡散臭い笑顔には慣れる事ができない。
不機嫌な顔を晒す事も奴の思う壺だろう。
だが癪に思えど、つい正直に表情に出てしまう。
「あ、そうだ」
滝は何を思ったか宍戸の大声を聞いてやってきた下男が、只今参りますと奥へ消えようとするのを止めた。
そして先刻鷺沼の使者が持ってきた書簡を俺に突き出してきた。
「はい」
「何だよこれ…」
「手紙」
何だもう忘れたの?と言いたげな表情が俺の機嫌をそぎ落としていく。
「見りゃ解る。どういう事だって聞いてんだよ」
「忍足に渡してきてよ」
「はぁ?!」
突然に何を言い出すのか。
返事をする間も与えず、滝は俺の手に書簡を握らせてきた。
「……いい度胸じゃねぇの…この俺様を足に使おうってか」
「今はお客じゃないだろ?それに呼ばれたんだから行っていいんだよ」
本当は行きたいくせに、と顔に書いてある。
差し向けたのがこいつでなければもっと上機嫌に数奇屋に向かえただろう。
何故か釈然としない思いが心を渦巻くまま、俺は忍足の元へ向かった。
彩り鮮やかな季節の花が咲く坪庭を横切り、数奇屋の前に立つ。
中ではごそごそと物音がしているから忍足が何かしているのだろう。
数奇屋の戸を二度叩き、中から承諾の声があったのを確認してから戸を引いた。
「おい、入るぜ」
「へ?」
だれか下働きの人間が来るものだとばかり思っていたらしい忍足は、目を丸くして迎えてくれた。
事の経緯を話すと、そら災難やったなと軽く笑われてしまった。
「それより何か用があったんじゃねぇのか?」
「あぁ、ええねんええねん。大した用ちゃうから」
そう言って忍足はどうでもよさげに書簡の中身を読み流している。
「またこのオッサンかいな……」
国を動かせる立場にある人間をオッサン呼ばわりとは、この俺をもって傲慢だとも我侭だとも思わせてくれる。
どうやら忍足は相当の人脈を持っているようだ。
恐らくはその辺も目的なのだろう。ここに来る連中は。
それが証拠に、以前遊びに来た時の会話を思い出す。
この廓の話になった時の事だ。
「お前はここの店の他にどっか遊びに行った事あるんか?」
と尋ねられ、ここでは最も位が高い、鷹尾の名を挙げてやった。
多少の見栄もあった。
ここに来てから何故か己の置かれている立場というものの不安定要素に少なからず自尊心が傷付けられていたからだ。
するとどうだ。
「あぁ、その姐さんやったら良ぉ知っとるで」
と、のうのうの言ってのけやがった。
相手は五位の位を持つ最高級の傾城。俺も一度会うのでやっとだというのに。
最近は父親が馴染みとなり、よく会いに来ているようだが俺にはあまり関係のない話だ。
「……何でてめぇがそんな親しいんだ?」
「俺だけちゃうで?岳人とかもな、昔からよぉ可愛がってもろててん」
この場合の可愛がられたは、弄ばれたではなく本当に幼子を加護する意味だろう。
岳人も、と言うからには宍戸や滝もだろう。
「鷹尾姐さんあんなに偉なったのに俺らにも優ししてくれるんや。ほんまええ人やで」
この店、というより忍足たちが何故俺を前に他の奴らのように萎縮しないのか、なんとなく解った気がした。
あっさりと崩れ去った己の心の中にある柱。
俺の自尊心なんてその程度のものだったのか。
以来、俺もまだまだだと感じる事が多くなった。
そして今日もまた知りえなかった忍足の一面を覗いてしまった。
一体この人物の心を揺らす存在とは何なのか。
金、人脈、物。望めば何でも手に入る位置にある忍足が求める、何か。
それに興味が湧いた俺は一つの提案を持ちかけた。
「なあ。隣町に新しく芝居小屋が出来て随分面白いらしいぜ。今度観に行ってみねぇか?」
「すまんなぁ…俺芝居には興味ないんや」
「あぁ?!…チッ…なら呉服屋にでも行くか。お前、随分薄汚ぇ着物じゃねぇかよ。俺が見立ててやる」
「ええてええて、そんな気ぃ使わんで……俺はこれが楽でええから着てんやし」
以後何を言っても上手くかわされてしまった。
物を欲しがらない。もちろん金も。
唯一床の誘いだけは断らなかった。
その場合も、あの書簡の士のように度外れな金を取られるわけではない。
食事にかかる金だけを取るのだ。
他の奴らにも同じようにしているのか。それとも俺が特別なのか。
俺には忍足の考えている事が全く解らない。
ただ髪を解く仕草に逆らえず、欲のままあいつを抱くだけだった。