百夏・繚乱

そして時は流れ、あれから百の季節を越えた。
あの日見た貴方がまるで、桜が見せた幻影なのかと思わずにはいられない。

今が過ぎれば辛い事も哀しい事も全部過去だと笑い飛ばせるものだと思っていた。
そんな馬鹿げた思いも全部全部消えてなくなりはせず、ただ隣には貴方がいない。



夏。
盛夏。

蝉が短い命を燃やし巡り来る出逢いを待っている、ただ声の限り叫びながら。
真っ青な空に映える向日葵の花が陽炎に揺れている、風のそよぐままに。

夏。
高く高く舞い上がる積乱雲。

今日は夕立がくるかもしれない。
まだ残る青空からは無遠慮な太陽が燦々と光を降り注いでいる。
夕立。
そういえば河原で毎年やっている花火大会、確か今日のはずだ。
壁で乱反射する暦に目をやると赤く大きな丸が描かれている。
隣りには丸い字で花火大会、と。

貴方が目の前から姿を消して、百の季節。
四半世紀が過ぎた。
まだまだ子供だったがいつの間にか周囲からは大人だと言われるようになっていた。
百の季節、貴方とは一度も会っていない。
あの春日の中、再会して以来。


「深司。ただいま帰りました」
そう言って敬礼する貴方はあまりに眩しすぎた。
本当はたくさん話したい事があったのに。
口を割って出てきたのは本当に約束の言葉だけ。
「おかえりなさい」
その一言が精一杯だった。

情熱の一夜。
どうすれば長く離れた時間を取り戻せるかなんて、方法はただ一つ。
貴方に抱かれる事、ただそれだけ。
別れの秋の夜と同じ、体中で貴方の愛を受け止めて、再会を心から喜んだ。
でもそれもまた、別れの序章だったなんて。

貴方の口を割って出る信じられない言葉。

「今回の仕事が認められて一気に大尉に昇進したんだ」
「本当ですか?おめでとうございます!」
本当に名誉な事なのに浮かない表情の貴方に不安が過る。
そして静かに語られる、現実。
「それで…大陸駐在になったんだ。もう…ここへは………帰れない」
そう言って、今までのように俺を抱きしめるのではない。
貧相な俺の胸に顔を埋め、きつく抱きついてきた。

ここ、には帰れないと。
涙を流すことなく心の中で泣いていた。
俺には感じられた。
声にも涙にも出なかった、貴方の気持ちは俺の中に流れ込んできていたから。

そしてその言葉の通り、貴方は二度と日本の土を踏む事はなかった。

本当は日本に戻るつもりもなかったのだ。
でもあの約束の為に、俺の為に戻ってきたのだ。

それならば、戦死したと聞きたかったなんて言えない。
無理を承知で遙か大陸から戻ってくれたのだ。
でも情熱の一夜はまだこの心に燻ったまま。

どうして貴方を引き止められようか。
全部捨てて、日本に戻ってきてと。
言えばきっと貴方も思い直してくれたかもしれない。
でも、どうしても言えなかった。
言えるはずがなかった。

翌朝、貴方はあの日と同じ様に光に消えた。
ただ、違っていたのが別れの言葉。


「いってきます」
ではなく、
「さよなら」
でもなくて、
「どうか、お幸せに」
という一言だった。
それは別れの言葉よりも辛い言葉。
貴方がこの手で幸せに出来ないと、遠まわしに言っているのだから。

死よりも辛い別れが、この世にあっただなんて。

いっそ死んでしまえば今までの事も、全部美化してしまえばいい。
見えなくても、いつも側にいてくれるのだと思って強く生きていけばいい。
だけど魂は永遠だとか、離れていても変わらない思いだとか全部幻想にすぎないのだと痛感した。
きっと貴方には貴方の生活が待っている。
向こうできっと人並みの幸せを掴めるだろう。
それを束縛する事なんて俺には出来なかった。

そして貴方のいない淋しさを、一人で受け止める事も出来なかった。

気持ちの整理がつかないままアキラの紹介で見合いをして、そして結婚した。
投げやりな気持ちで一緒になったわけじゃない。
子供も出来て人並みの幸せというものも手に入れた。

でも、忘れる事が出来なかった。
幼い記憶の中で生きる、貴方を。
出征前過ごした一夜を。
そして再び大陸に帰ってしまう日を。

遠くで花火の打ち上がる音が聞こえる。

隣りの部屋では俺に良く似た幼い娘が母親に浴衣を着せてもらってはしゃいでいる。
暦の字は、彼女が書いたものだろう。

百の季節。
四半世紀という刻の流れ。
貴方という人を想わない日は一度もなかった。
忘れられない想いは、春になればまた一層に強くなる。
桜が、思いを強くさせる。
何を言っても、もう決して届かない。
貴方には触れられない。

手に余る幸せ。
人並みの幸せ。
愛する家族。
だけど、貴方への想いを凌駕する気持ちはもう――――…


《終焉》


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