紅華・繚乱
刻は大切な人を作りました。
刻は大切な想いを教えてくれました。
刻はいつだって俺たちを優しく包み込んでくれました。
そしてその刻は今、無情にもあなたを連れ去ろうとしています。
その時はすでに目の前まで来ていた。
帝國軍は敗戦の予兆を臭わせ、同胞たちは絶望だけを胸に戦地へと向かっていった。
彼らより少し位が高かった橘は前線に送り込まれる事はないものの、明日は我が身と静かにその時を待っていた。
そしてその時はやってきた。
安政の時はもうそこまできているというのに。
上層部の命令で戦地での指揮を任せられることとなったのだ。
男として、これはこの上ない名誉。
だが今ここで命を落とすわけにはいかない。
大切な、人の為に。
「―――――出…征………?」
「ああ…」
「そ…そう…… ……そう…ですか…」
君の大きな瞳が揺れ動く。
そこに映り込む俺が涙色に染まり、歪んでいくのがわかる。
普段ほとんど表情の変わらない君の顔が。
「…………おめでとうございます…」
「ありがとうございます」
お互い貼り付けたような言葉しか出てくることはない。
「どうか……お元気で」
微かに掠れてしまった声が喉を震わせる。
本当に伝えたい想いが胸を焦がす。
「………少尉も」
俯いたまま、もうその笑顔を見せてくれない君に胸が痛む。
違う。
違う。
こんなことを言いたいわけではない。
こんな言葉をかけたいわけではない。
だけど、それ以上何も言えない。
何も出来ない。
俺は君を残してここからいなくなるのだから。
踵を返し歩き始めても、君の哀しい視線がいつまでも背中に突き刺さったままだった。
君と初めて出逢ったのは桜の季節でした。
あれは三つになる年の春。
界隈では一番の地主だった父が雇用した女中が連れてきた子供。
それが君、伊武深司でした。
まだ足下おぼつかない頼りげ無い君を見て、幼心にも守ってやりたいなんて生意気なことを密かに思っていました。
何故幼い俺がそんな想いを抱いたのかは解りませんが、それがきっと俺たちの運命だったのでしょう。
それからというもの、俺たちはずっと同じ季節を同じ歩幅で歩んできましたね。
これからも、ずっとずっと続くはずの道は呆気なく途切れてしまった。
橘は軍部に入隊してから家を空けることがほとんどだったが、深司はずっと橘家で小間使いとして働いていた。
出征に先立ち、久々に休暇の取れた橘は深司の住んでいる実家へと帰っていた。
お互い意識して顔を合わせないようにしていた為か、あの日以来会う事もなく、とうとう明日は出征の日となっていた。
これが最後だ、と橘は深司が仕事を終える頃合を見計らい、深司住む離れの前で待っていた。
「深司」
「少尉…どうかしたんですか?」
突然の訪問に深司は驚いた顔を隠さない。
言葉を交わすのは、あの日以来で妙な緊張感が二人の間を流れている。
「これから時間あるか?ちょっと散歩でもしないか?」
「は…はいっ!!」
突然のことに些か驚いた様子の深司だったが、すぐに昔と寸分変わらない笑顔を橘に向けた。
年を重ねる毎に少なくなっていた笑顔を。
橘はそれに優しく微笑み返すと、幼い頃そうした様に深司の手を取り歩き始めた。
最後に手を繋いだのはいつだっただろう。
もう思い出せないほど昔のことなのだろうか。
でも、君の手はあの頃と変わらず温かいんだね。
話をするきっかけをつかめずに、二人は無言のまま幼い頃遊んだ河原を歩いていた。
ふと視線を下げると、河原の土手には真っ赤な曼珠沙華が咲き乱れている。
「綺麗だな」
「え?」
急に声をかけられ、深司は何の事だかわからず不思議そうに顔を上げた。
「彼岸花…曼珠沙華だよ」
「あ…はい……そうですね…」
妙に余所余所しい態度。
何時からか、そう、こうして手を繋いで歩かなくなった頃からだ。
深司は橘に対して敬語を使い始めた。
歴然とした身分の差を感じ始めたからだろう。
幼い頃は、『あに様、兄様』と媚も欲も計算もなく、ただ側にいたというのに。
そしてそれが、孤独だった橘をどれだけ救っていたか、深司は知らないでいた。
ただ女中連中や母親が橘と親密になることをよく思っていなかったが為に、
今のような一線を引いた状態となってしまったのだった。
それでも、深司は橘を愛していた。
密かに想い続けていた。
叶うはずのない想いだとわかっていながら、いつか訪れるであろう精神的離別、
橘が生涯の伴侶を娶った時も変わらずこの気持ちは持ち続けたまま、墓の下まで行くのだと決めていた。
それは途方も無い歳月だが、苦ではなかった。
むしろ、深司にとっては想い続けることができるだけで幸せだった。
「あの…明日…ですよね…?」
「………あぁ…」
「どうか…どうかご無事で…」
深司は橘に手を強く握られ弾かれた様に顔を上げた。
背の高い橘の顔を見上げると、優しい笑顔とぶつかる。
柔らかい、春の日差しを思い出すような、優しい優しい笑顔。
深司は思わず抱きついて大声で泣いてしまいそうになってしまう。
泣いて縋って、行かないで、一人にしないで、と言ってしまいそうになる。
この人は 俺のものではないのに。
しかしつい、欲が出てしまいそうになる。
この人を 自分だけのものにしたいと。
「深司、昔みたいに呼んでくれないか?」
「え?けど…」
「いいから」
「…えっと………兄様?」
言葉の真意が解らず、深司は遠慮がちにそう呼び不思議そうに見上げた。
「昔はそう呼んでくれてたのに…いつからか呼んでくれなくなったな」
「それは…」
「お前にだけは俺を家や肩書きじゃなく、俺を俺として見て欲しかった」
最後なのだ。
これが最後なのだ。
それならば、彼の望む自分でいようと深司はいつからか忘れてしまっていた無邪気な笑顔を向けた。
「兄様!あの橋まで競走しましょう」
「え…?」
「お先です!!」
「あっ…ずるいぞ深司っ!待て!」
河原に二人の笑い声が響き渡った。
時間が遡り、幼い頃の自分たちが走る二人を追い越していく錯覚に陥る。
橋に着く頃にはすっかり息が上がり、転がるように土手へと寝転んだ。
「こんなに走ったの……久しぶりです…」
「昔はよく母君や女中頭に追い掛け回されて逃げ回ってたのにな」
「何ですかそれ…やな事覚えてますね……」
「覚えてるよ。ずっと見てたから」
その言葉に、驚いたのは深司だけではない。
橘も然りだった。
その想いは胸に秘めたまま行くつもりだった。
しかし一度口を割って出てしまった言葉を止める事は出来なかった。
壊れてしまった心の堰から流れ始めた気持ちは言葉にすり替わる。
「ずっとお前だけを見ていた」
「……あの…」
「好きだ」
怖いぐらいに真剣な表情で見つめられ、深司は目を逸らす事も許されない。
言葉が返せず、ただ呆然と橘の顔を見た。
そんな様子に焦れた橘は気が付けば、その柔らかい唇を奪っていた。
深司は酷く驚いた様子だったが拒むことなくそれを受け入れた。
それを肯定と捉えた橘は細い体を抱き寄せ腕の中に収める。
「………最後なのに…俺なんかと一緒にいてていいんですか?」
「最後なんて言うな…俺は捨て駒になんかならない。必ず…必ずお前の元に戻るから」
それは叶うかもわからない願い。
こんな言葉で縛り付けたくはなかった。
だが無事帰還した時、諸手を広げ"おかえりなさい"と迎えてくれる笑顔が欲しかった。
それをほかでもない深司に。
モノクロの景色に真っ赤な花を咲かせようか
優しい吐息が部屋を舞う。
これが最初で最後だと、何か言葉を交わす事はなく、ただ抱き合った。
優しい指先が肌を伝う度、深司の体は熱を上げる。
真っ暗な部屋の中、真っ黒なこの世の中。
互いだけが真っ赤な花。
翌朝。
先に目を覚ましたのは橘の方だった。
激情のような夜に飲み込まれた深司は、橘が起きた事にも気付かない。
ただ音もなくそこに横たわっている。
疲れ果てた青白い顔に、生きているのか、と心配にさせられるほどだ。
橘は思わず口元に耳を寄せて呼吸を確かめた。
繰り返される規則正しい小さな寝息にほっと笑みを向けた。
そして布団から出ると起さないように深司の体に毛布をかけてやり、身支度を始める。
顔を洗い部屋に戻っても、まだ深司は眠ったままだった。
橘は壁にかけられた軍服を着込んだ。
情事に汚れた体を見ないように、深司に背を向けたまま。
そして一瞬苦しそうな表情を見せ、その寝顔に再び近付いた。
「さようなら深司…」
微かに開かれた唇に吸い寄せられるかのように口付け、そう呟くと玄関へと向かった。
軍靴を履き、帯刀するともう一度、深司の眠る部屋に向き直り敬礼した。
「いってきます」
扉が開き、目が潰れそうな程の朝の光に部屋が浸食される。
その光に目を細めた橘は、振り返ることなく部屋を出た。
扉が閉められ、再び部屋に薄暗い闇と静寂が訪れた。
しかしそれはすすり泣く声にかき消される。
「橘さん……っ」
小さく呟いた後、深司は弾かれた様に窓際に這い寄り、雨戸を開け放った。
薄暗い部屋に再び朝の光が差し込む。
一瞬目の前が真っ白になったが、その白い闇の向こうにあの大きな背中を見つけた。
「…ちばな…さ……橘さんっっっ」
何度も何度も呟いた。
ただ、狂った様に、同じ言葉だけを繰り返し繰り返し。
やがてその姿が見えなくなる頃には、それは泣き声に変わった。
「ずっと…ずっと待ってますから……」
だからさよならなんて言わないで。
ずっと想うから。
ずっと愛してるから。
貴方を『おかえりなさい』と迎える日まで。
真っ白な肌に咲いた真っ赤な花が、朝の光に溶け込んだ。
これが証だから。
貴方の想いの証だから。
俺が貴方だけのものだという証だから。
このモノクロの世界。
せめて貴方だけは色鮮やかに咲き誇って。
この肌に咲く、華の様に。