闇宵紫昏 一章 四季の華 4
四聖も娑婆と変わらず春はやってくる。
今年は冬が少し長かった事もあり、桜もなかなか開花しなかったが漸く薄紅が大通りの並木を彩り始めた。
四季は変わりなく繁盛していて毎日が目の回るような忙しさだった。
だがそのお陰か赤也も随分と見世の仕事にも慣れてきていた。
もう仁王の手ほどきなど必要ないのだが、相変わらず見世にやってきてはぐうたらと過ごし、
幸村に小言を聞かされたり柳生に大目玉を食らったりと、今年の年度始めはいつも以上に賑やかだ。
そんなある日、見世に柳の最上客がやってくる事となり、十日も前より見世は一騒動となっていた。
「この見世の最高位の華の、最上客…って事は…すんげぇエライ人…って事っスよ…ね?」
柳が幸村と共に出かけていて珍しく一人見世に残された赤也は暇ならば手伝えと言われて厨で柳生と共に夕食の準備を手伝っていた。
大量に盛られた三度豆の筋を取りながら柳生に恐る恐る尋ねると、苦笑いを返される。
「そうですね…この街の影の覇王が幸村君であるなら、柳君の上客は皆表立った重鎮と言えるでしょう。
四聖には市政とは違う独自の統治組織がありますが、それらを仕切っている長老衆の最高位である四聖総取締役が柳君の最上客ですよ」
「つまりは…」
「この街の実質の最高権力者である人が、柳君の後ろ盾だ、という事です」
独自文化の根付くこの四聖・鹿鳴では公に最も権威を誇るのは司法機関だ。その中でも街の治安を守る同心を取りまとめている御仁が現在この街を治めている。
家柄は古くより続く老舗の大店だが、そこは息子に譲り隠居生活を謳歌していて四季にも時折遊びに来ては盛大に宴を催す粋な老翁なのだと柳生は語った。
「こう言ってはなんですが、とても気難しい方なのです。でも柳君はそんな御仁もとても上手くいなして…手練手管とはまさにといった感じです」
そんな面倒な爺さんの相手をしている柳の世話をしなければならないのか、と赤也は自然と溜息を漏らしてしまった。
さて、そのような話を聞かされては黙って手をこまねいている訳にもいかない。
赤也はせめて柳に恥をかかせないようにと観月や亮に頼み、覚えられるだけの作法を教えてもらう事にした。
見世が開くまでの間、空き部屋で四苦八苦しつつも失礼のないだけの所作を一通り教わった後、
三人で茶を飲んで一服している時、赤也はそれとなく話題に出し、探りを入れる。
「柳君の最上客…ですか。真田のご隠居ですね」
向かいに座る観月は天井を仰ぎながら暫し間を置き、にっこりと花のある表情を浮かべ赤也に向き直る。
「真田って……もしかして鳳凰通りにある眞屋【まことや】ですか?」
「ええ、江戸越後屋にも引けを取らない大変大きな呉服商で…ここ四聖のお女郎方が皆贔屓している大店です。
斯く言う僕も、あのお店にはいつもお世話になっていますが」
そこには赤也も何度か柳の遣いで行った事があった。
以前自分のいた店など比ではない程の大店だ。
店の広さも然る事ながら、飾られる絢爛な着物の数々に目を奪われたものだ。
各地の腕利きの匠により作り出された反物は、他の店にはない美しい意匠の物が多く、娑婆の花街の芸妓がわざわざ仕入れにやってくる程だ。
「長男坊が若旦那として店引っ張り出してからまた客足伸びてるよな、あそこ」
「ええ、本当に。かなりやり手のようですね」
「次男坊はただの堅物だったけどね。美意識も長男坊に比べてかなり低いし」
「…亮君…失礼ですよ」
口ではそうたしなめているものの、観月自身それを否定する事はなかった。
「次男坊は父親と一緒に長く江戸勤めだって言ってたよな?」
「そのようですね。江戸にあるもう一つのお店を任されていたそうですが、そちらは分家に譲り四聖へとやって来たんです。
まあ彼は町方同心にいたようで御店にはいなかったようですが」
情報通の観月は様々な事をよく知っている。
赤也は興味津々という顔で二人の話を聞き入っていた。
だが観月は口をつぐみ、それ以上何も話さなくなってしまった。
「あの…」
「これ以上の話は…ここでは禁忌なのです。ごめんなさい、赤也君。僕から聞かせられるのはこれまでです」
突然の事に呆然としていると、観月は部屋を出て行ってしまった。
残された赤也はどうしてよいか解らず、のんびりと茶をすすっている斜め前の亮に視線で助けを求めた。
「観月は柳とも付き合いが古いからねー色々見てきた分辛いのかもな」
「もしかして…柳さんが見世を辞めるって言ってたのと……何か関係あるんっスか?」
「さぁ、俺の口からは言えないよ。俺だって亭主に殺されたくないしね」
亮の口ぶりからして幸村が絡んでいる事だけは解ったが、結局それ以上の事は何も解らなかった。
何やら腹にもやもやとしたものが残ったまま、開店準備に忙しい花蕾や萌芽の手伝いをしていると、大荷物を抱えた幸村と柳が帰還した。
「おかえりなさい」
丁度玄関先をほうきで掃いていた赤也は二人を迎え入れる為に玄関の戸を大きく開けた。
「ただいま。あー重かったぁー…こんな事なら誰か連れてけばよかったよ」
誰か、と言いながらも視線はしっかりと赤也を捉えている。
だがそもそも幸村が言い出した事なのだ。
最近蓮二が赤也にばかり構うからつまらない、だから二人で出かけたいのだと。
そんな勝手な様子に何と言葉を返せばよいものか解らず黙っていると、柳が助け舟を出した。
「そう言うな、精市。皆見世を開ける支度で忙しいのだから無理強いはいけない。自分で出来る事は自分でするんだ」
「はいはい、解ってますよ。あ、赤也。手が空いたらこれ、蓮二の部屋に運んでおいてね」
「わっ、わかりました」
どさっと大きな音を立てて下される大きな風呂敷包みからは畳紙が覗いている。
恐らくは柳の新しい着物だろう。
赤也は側にいた萌芽に掃除の続きを任せ、その荷物を抱え上げた。
「あと半刻で見世開けるからねー皆支度急いでー」
幸村の声に見世のそこらかしこから大きな返事が上がり、士気が高まるのを感じる。
それを背に赤也は急いで部屋に戻った。
そして風呂敷を畳に広げ、畳紙を開いた。
「すっ……げぇ…」
絢爛な着物を数多く所有していた柳であったが、とりわけ美しい染め上がりの振袖が中から出てくる。
細かい意匠は全て熟練した職人により施されたものだろう。
長く呉服商家にいた赤也であったが、これほどまでに美しいものは見た事がなかった。
それも一つや二つではない。
先刻幸村が重いと文句を言っていたように、それなりの数がある。
それらに見とれていると暫しの間を置き、柳が部屋に戻ってきた。
「ああ、その振袖は南天の間、こちらのは福寿草の間にある衣桁に掛けておいてくれ」
「わかりました。……けど、これ…凄いっス…価値の解んねぇ俺が見ても凄いって思うんだから…アンタらが見たらもっとなんでしょうね」
「そうだな。市井でそれらを売れば、十年は軽く豪遊して暮らせるだろう」
「いっっっ…?!」
想像もつかない値段を暗喩され、赤也は慌てて着物から手を離す。
その様子を見た柳はおかしそうに冗談だ、と言った。
だがその言葉が嘘である事を本能で悟った赤也は、先刻よりも丁寧な扱いで畳紙へとしまった。
「それは眞屋からの祝儀だからな、袖を通す事はない。愛でて楽しむ…まあ書画の掛軸などと同じようなものだ」
なるほど、それで衣桁に掛けておけと言ったのかと納得がいく。
赤也は言われた通りにしようと再び母屋へと戻ると、南天、福寿草とそれぞれに指定されたように衣桁に飾り、畳紙を控えの間に置くと廊下に出た。
すると丁度目の前の部屋を持っている凛と観月に出くわした。
「おや、支度ですか?」
「はい。眞屋さんからお祝儀があったとかで…」
赤也は口で言うより見せた方が早かろうと、閉めかけていた襖を再び全開にした。
それを見るや否や、二人は同時に溜息を漏らす。
「いつもながらに素晴らしい意匠ですね。本当に美しい」
「だな。真田の大旦那も、隠居したとはいえ相変わらず見る目はしっかりしてるぜ。あれでもーちょい頭柔らかかったらなぁー…」
「それは……あのお大尽には言っても無駄な事でしょう」
二人も夕刻の開店に向けて支度があるからと言い、部屋へと戻る為に廊下を行ってしまった。
慌ただしい見世の中でも、一人呑気に回廊で寝転んでいる仁王を見つけ、赤也はそれに近付く。
仁王はすっかり見世に慣れた赤也を見てお役御免だと最近は専ら青也の世話ばかりをしている。
今も青也を懐に抱きこみ、喉や背中を撫でているだけだ。
「ちょっと仁王さん!もう見世開く時間っスよ!!起きて手伝って下さい!今日は柳生さんが勘定方の寄り合いあるからって見世にいないんですから!」
「おー?ああ、何じゃ、赤也か。張り切っとるのー真田の大旦那が来るのは明後日ぜよ」
「今日は今日のお客がいるんっスよ!」
まだゴロゴロとしていて起きようとしない仁王の肩を揺さぶり、無理矢理起こそうと腕を掴むが起きる気配はない。
この人には何を言っても無駄か、と諦めてその場を立ち去ろうとすると、何かに気付いた仁王が自ら起き上がった。
「へぇ、珍しい奴が来よったぜ」
「え?」
仁王が向ける庭先への視線を辿れば、そこには夕日に透ける綺麗な金糸の髪をした男がやってきていた。
庭の北隅にある勝手口から入ったのであろう事から推測して、ここの関係者である事は間違いない。
「久しぶりじゃのぅ」
「何や仁王。自分ここ辞めたんちゃうんけ?」
京に位置しながらも、街そのものが外界から遮断されている為に今までこの見世では聞く事のなかった上方訛りで流暢に喋る男を赤也はぽかんと見上げる。
するとそんな視線に気付いた男が目を合わせ、軽やかな人好きする笑みを見せた。
「あれ?こっちは初めて見る顔やな。新しい子か?」
「あー違う違う。こいつが柳の新しい手のモンじゃ」
仁王に肩を叩かれ、赤也は頭を下げ名乗った。
だが男はそれよりも気になる事があるのだと驚いた様子を見せる。
「へぇ…ほなやっぱアニさん残らはんのか?」
「ああ、そのつもりみたいじゃよ」
「そら光も喜びよるわ!うわー良かったぁー!噂には聞いとったけどほんまかいな思とってん」
派手に喜ぶ様子からして、その光という人も観月と同じように柳が見世を辞めてしまう事を嫌がっていたのだろうかと推測する。
「で、その光はどうしたんじゃ。一緒じゃないんか?」
「あーあいつ今新町行っとんや。朝霧太夫に呼ばれてな、しばらく向こうにおるらしいわ。その間にこっち置いてある着物洗いに出せ言われてな、取りに来たんや」
ほなまたな、と慌ただしく庭を行く姿を見送り、仁王はようやく立ち上がり青也を連れて見世の中へと入った。
だが赤也の顔に多くの疑問が浮かんでいる事に気付き足を止める。
「今のはな、お前さんと同じでこの見世の華持ちの唖手の謙也じゃよ」
「えっ……けど、他の…皆唖手っていますよね?」
「ここにはな、春夏秋冬の華だけでなく…上方生まれのもんだけに与えられる特別な称号があるんじゃよ。天生っちゅーての。
そいつがさっき謙也が言うとった光じゃ」
天生は京という地の利を生かした宴席を設ける為に四色の華に空きがなくとも部屋を持てるように用意されたお職で、位に差はなく、
現在四季には二人の天生が名を連ねていた。
「へぇ…どんな人なんですか?会ってみたいっス」
「あー止めとき止めとき。俺でも手ぇ焼くじゃじゃ馬じゃき」
「えっ…」
人を騙し、揶揄する時の表情でなく、心底言っているのだと仁王は珍しい表情で赤也に向けて否定に手を振る。
その様子に思わず後ずさった。
まだ少しの付き合いではあるが、仁王がこのような表情をする時は大抵ろくな事がないのだ。
「部屋持ち四季色、家持ち天生言うての、ここには住んどらんで別宅構えちょるんじゃが…
時々ここに顔出すからそのうち顔見る事もあるじゃろうが…覚悟しといた方がええぜ」
「なっ…なん…」
「あいつを上手く操れるんはここじゃ柳と幸村ぐらいなもんじゃからの。唖手やいうても謙也もいつも振り回されて…あの通りじゃ。
とにかく我侭で勝気で口の立つ奴やから端っから勝とうとは思わん事じゃな」
そこまで言われれば逆に興味が湧いて出る。
一体どんな人物であるのか、この見世にはまだまだ自分の知らない事が多いようだと赤也は久々に高揚した。
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そして件のお大尽が見世にやってくる日を迎え、朝からあちらこちらで大騒ぎとなっている。
そんな中で唯一静かな柳の私室で赤也は柳の着替えを手伝っていた。
これまでで最も華やかな意匠の打掛に、中は真っ黒な中振袖を纏い、いつもとまた違った様子だ。
一番違っていたのは化粧を施し、髢を付けている事だろう。
背中に長く流れる艶のある黒い髪と、目元を彩る紅の鮮やかさが鮮烈だ。
赤也は今までとはまた違う迫力の柳に圧倒され、言葉を失った。
「…どうした?呆けた顔をして。緊張しているのか?」
「まあ…ちょっと…」
本当はいつもと様子の違う柳を前にして妙な緊張感に包まれていたのだが、それは出さずに初めての大尽相手の宴席に緊張しているのだと誤魔化す。
「そう堅くなるな。客に上も下もない。お前はいつも通りでいいんだ」
「はぁ…」
「それに、お前がいてくれて本当によかったと感謝している」
「えっ…え?」
にこりと静かな笑みを向けられ、その艶やかさたるや赤也より言葉を奪うにふさわしい。
何も言えなくなってしまった赤也を置いて柳は部屋を出ていってしまった。
慌ててその後を追い、玄関まで行くと待ちかまえていた幸村に大荷物を押しつけられる。
「な、何っスかこれっ」
「何だ、蓮二に聞いてないのか?」
質問に質問で返され、赤也は言葉を詰まらせる。
手の中にある大きな反物だと思っていたのは眞屋の文字と家紋の入った着物だ。
これを一体どうするのだろうと考えていると、幸村が説明を始めた。
「華影道里って言ってね、最上客のお席の前に半刻程かけて鳳凰通りを練り歩くんだよ。
この街で華はね、最高の広告塔でもあるから、商家のお席ではこうやって御店の名前をどーんと出してあげて宣伝するんだ」
「なるほど…」
この街における華の知名度や位を思えば、花代を差し引いても十分に宣伝効果があるのだろうと赤也はもう一度着物に目を落とす。
寸法は様々で畳紙には花蕾や萌芽の名が書かれていた。
「これ…皆に着てもらうんっスか?」
「そうだよ。早く配って皆に着てもらって。彼らにとっても顔を売るいい機会になるんだから」
「え、そうなんですか?」
「今街で一番名のある華についての華影道里なんて、花蕾にとって客を取る好機に決まってるじゃないか。
華の職務は宴席だけじゃない、自分の跡目を育てるのも立派な仕事だからね」
「はあ……なるほど」
お前はこっち、と先刻の着物より更に派手な打掛渡され面食らう。
幸村はこれを腕に掛けて華の手を引くのが唖手の役目だと言う。
そして早く着替えるように言い残し、準備の続きに戻った。
唖手は常に華の影であり続けなければならない為、赤也に与えられたのは鮮やかな色のない薄ねず色の長着だった。
しかし打掛は対照的に華やかで、他の花蕾との差は歴然だ。
影の存在とは名ばかりで唖手が華にとって特別な存在であるのは揺るぎない。
奉公の決心はしたものの、時折心を掠める、本当にここにいていいのだろうかという思いを赤也は拭いきれないでいた。
そして支度を整え、街へ繰り出せば大通りは人の群となっていた。
柳の白い手を引き、一歩一歩と足を進める度に大きな歓声が上がる。
祭りのような雑踏に少し面食らうものの、それを見る事は叶わない。
大きな紗を被った状態で顔を隠している為だ。
これでは脇に群がる者達の中に以前いた店の者がいたとしても判らないだろう。
それに少し安堵としながらゆっくりと歩を進めていく。
ふと視線を上げれば、それまで凛と背を伸ばし前を向いていた柳と目があった。
慌てて目を逸らせば、歓声に紛れた小さな含み笑いが聞こえた。
「…少し疲れたな」
続けて聞こえる言葉に、目の前の華美な者が良く知る柳なのだと少し安心する。
あと少しです、と口の動きだけで伝えれば笑みが返された。
半刻ほど大通りを練り歩き、見世に戻るとすぐに足を洗い、砂埃に汚れた打掛や長着を着替える。
そして柳の部屋で上位にある牡丹の間へと向かった。
襖を前に左胸に手を当て、何度も肩で呼吸する赤也を見て柳が笑いを漏らす。
「…緊張するか?」
「……そうっスね…何か…ハイ…」
「そうか。この奥にいるのは鬼だ。覚悟しておけ」
「へ?」
そう言って柳は襖の前に控えている、いつもより少し良い着物を着た萌芽に目で合図すると大きな声を張り上げた。
「冬色様ーお着きーでーあらしゃいますーるー」
心の準備などする間もなく、襖は大きく開かれてしまった。
本来ならば唖手は控えの間で待機するのだが、客に新顔である赤也の紹介をするからと例外ではあるが宴席に上がる事となったのだ。
緊張して体を硬くさせながら額を廊下に擦りつけ、挨拶する。
そして顔を上げれば大きな牡丹の描かれた壁の前、上座に腰を据える老翁と目が合った。
なるほど柳の言った通りだ。
噂違わずの鬼瓦のような顔に赤也は一瞬身を引きそうになる。
だが堂々としなければ柳に迷惑がかかってしまうかもしれないと背筋を伸ばし、真っ直ぐと相手の目を見据えた。
鋭く睨みつけられ、再び萎縮しそうになるが己を叱咤し、睨み返す。
それはほんの少しの間ではあったが随分長く感じられた。
その拮抗を破ったのは、老翁が手元の杯を赤也に投げつけた事だった。
「な…何しやがんだこのじじい!」
突然の暴挙に赤也はつい被った猫を逃がしてしまい、掴みかからんばかりの勢いで怒鳴ってしまった。
側にいた萌芽達は止めようと青い顔で赤也の腕や肩を掴むがそれを振り払う。
「赤也殿!お大尽の御前です!お控え下さい!」
「うるせぇ!!大尽だろうが何だろうが、いきなりこんな事されて黙ってられっか!」
自分に非があるのならば伏して謝らなければならないだろう。
だがここまでに失礼などなかったはずだと客相手に睨みつけた事など棚に上げ、赤也は息巻いた。
一方青くなる周囲を余所に、柳は何事もなかったかのように部屋に入り、上座に腰を据えた客の前に出ると涼しい顔で頭を下げた。
「久方振りにございます、御仁」
「次の手は随分とやかましい奴じゃのう」
「狂犬のようでございましょう」
「ああ、勇ましゅうて結構。ただ少々躾がなっておらんようじゃな」
「飼い始めて間もないもので…これからしっかりと調教いたしましょう」
「ちょっ…そこ!俺を犬扱いしてんじゃねえ!」
和やかに話を始める二人に呆気にとられる萌芽や花蕾らを押し退け、赤也はずかずかと部屋の中に入り柳の斜め後ろに座った。
「冬色様持ち、赤也にございます!お見知り置きいただけますよう、よろしく存じ奉りまする」
腹立たしい気持ちを抑え、赤也は観月に指南された通りに正座し、手をつき深々と頭を下げる。
「狂犬ではあるが挨拶は出来るようだな、劉恋」
劉恋―――りゅうれん。
耳慣れないその名を初めて耳にした事に、今日がただの宴席でない事を改めて感じる。
普段は四季の名に色を付けた職名で呼ばれている柳であったが、たった一人、華の最上客にのみ呼ぶ事の許された艶名と呼ばれる源氏名がお職の華達には付けられていた。
劉恋は柳の艶名であり、現在この老翁にのみ呼ぶ事が許されている。
少し冷静になり、先刻は勢いに任せとんでもない事を言ってしまったかもしれないと今更ながらに赤也は背中に冷や汗が伝うのを感じた。
しかし老翁はその厳しい表情を崩し柳と談笑している。
部屋の隅で居心地悪く思いながら座っていると、不意に老翁と目が合った。
今度は睨まないように気をつけねばと思い、必死に笑みを浮かべようと顔が引きつるのを堪えながら表情を作る。
だが何が気に食わなかったのか、急に老翁は不機嫌な顔をする。
「貴様!相手の出方を伺い薄笑みなど浮かべるな、気色悪い!」
「は?」
唐突に怒鳴られ、訳が解らないと目を白黒させる赤也に柳は優しく声を掛けた。
「御仁はそのままでいいと仰ってるんだ」
「はい?」
「無理に行儀よくしようとするな。赤也はありのままでいればいい。お前の粗相ぐらいでは御仁は怒ったりなどしないから」
「は…はぁ…」
いつものとは違う姿ではあるが、いつもと変わらない柔らかい笑みを柳に向けられ、漸く少し心が落ち着いた。
柳の言葉通り、それからも慣れない席に何度か失敗はあったが老翁は決してそれに機嫌を悪くしたりなどはしなかった。
それがどこか子供扱いされ、馬鹿にされているように感じ、次までには絶対に完璧にしてやると心に誓った。
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長い宴席を終え、見世の片付けをする騒がしい母屋から離れてゆっくりと茶を啜る柳の隣で赤也も後片付けを進める。
柳が羽織っていた打掛を衣桁に掛け、漸く一段落だとホッと息を吐くと、柳に湯飲みを差し出された。
「お疲れ。大仕事で疲れただろう?」
「あ、ありがとうございます」
柳の寄りかかる角火鉢の足元には青也も寄りかかり、暖を取っている。
それまで目を閉じていたくせに赤也が近付こうとすると威嚇するように泣き声を上げる。
「相変わらず仲が悪いな、お前達は」
「こいつが一方的に怒ってるだけっスよ。俺は仲良くしようと思ってんのに」
ぶつぶつと文句を言いながら茶を啜る赤也に、柳は徐に袂から懐紙に包まれた何かを渡す。
不思議に思いながらも受け取り、それを開けると中からは決して少ない金額ではない金子が出てきた。
「な、何っスかこれっ」
「眞屋さんからお前への祝儀だ。貰っておくといい」
「こっ、こ、こっこんなに?!」
今まで手にした事のない黄金色の重みに赤也の手は若干震えまでが湧いてくる。
「大旦那はお前を気に入ったようだな。普通は唖手に対してこれほどの祝儀は出ないんだぞ」
「で、でしょうね……」
「お前は権力者に好かれる何かがあるのだろうな…大旦那といい精市といい、皆お前を可愛がっている」
可愛がっているだと、と甚だ疑問ではあったが嬉しそうに柳が言うので何も言葉を挟めない。
曖昧な返事だけをして湯飲みの中身を飲み干した。
暫くは遠くに聞こえる母屋の音だけがしていたが、廊下に足音がする。
華の誰かが帰ったのだろうかと思ったが、次第に近付いてきた。
そして足音が襖の前で止まり、蓮二、と幸村の声がした。
「精市?どうした」
「ちょっといいか?眞屋からのお祝儀分けるの手伝って欲しいんだけど」
「ああ、すぐに行く」
「赤也も」
「はっ、はいっ!」
手にしていた金子をどうしようかと慌てふためいていると、柳はそれを床の間の下にある隠し金庫に預かってくれた。
そして二人について母屋に戻る。
途端に目に入ったのは玄関先に積み上がった葛籠だった。
それを柳自ら片っ端から中を改めていき、一通り見終えると溜息を吐いた。
「相変わらずの羽振りの良さだな」
「だな。どうする?これ」
「いつも通りで構わん。皆に分けてやってくれ」
「了解。じゃ、後は任せたから。取り合って喧嘩しないようにね」
幸村はその内の一つ、劉恋と書かれた半紙の貼られた物を持ち上げるとそれを赤也に預け、側にいた花蕾にその場を任せた。
二階や空き部屋から俄かに集まり始めた花蕾達を背に、幸村は柳を連れ立ち見世の奥へと進んでいくので赤也も慌ててそれを追った。
普段はあまり使わない福寿草の間に入ると幸村は赤也に目で荷物を開けるように言う。
言われるままに赤也は葛籠を畳の上に下ろし、蓋を開けた。
中からは繊細な細工の施された煙管や煙草入れ、鼈甲の簪、瑪瑙の文鎮、色とりどりの反物などが次々と出てくる。
「う…わぁー…すっげぇ……え、他の籠にもこんなの入ってんっスか?」
「いや、ほとんどが反物だ。着る物はいくらあっても困らないからな…特に花蕾や萌芽の頃は着物を買う金も十分とは言えん。
弐助や部屋遇いに出るようになればほとんどの者が毎日着替えが必要だから、こうして華の上客が俺達を介して花蕾達を援助してくれているんだ。
俺個人への贈物はこれ一つだけだ」
「へぇー」
「宴席に使う物もあるから控えの間に置いておいてくれ」
「解りました」
蓋の上に手早く分けられた贈物の数々を持って控えの間に入り、置いてある長持ちや箪笥に中身を分けて片付けていっていると、
隣の部屋から潜められた幸村の声が届いてきた。
「…来なかったな、あいつ。大旦那にくっついて絶対ついてくると思ったんだけど」
誰の話だろう、あの老翁の縁の者だろうかと聞くとも無しにしていると、柳の落胆した声が続いた。
「……俺の顔など、もう見たくないのだろう」
いつもと変わらない口調ではあるが、それも意識しているからだろう。
顔を見ていないから余計にそう感じられるのかもしれない、明らかに様子が違っている。
少し心配になったがここで出て行けば二人は会話を止めてしまうかもしれないと、赤也は聞いていない振りをしてなるべく音を立てて作業を続けた。
「あいつ馬鹿正直だから、今はちょっと気まずいって思ってるだけだろ。そのうちひょっこりやってくるかもしれない。蓮二が気に病む必要はないよ」
「そうか…そうだな。お前がそう言うのなら、そうかもしれん」
「それに今日大旦那から赤也の話聞いたらこの目で見てやるって飛んでくるかもしれないし」
唐突に名前を挙げられ、心臓が飛び出そうに驚かされる。
何か目を付けられるような相手なのか、それならば出来れば来て欲しくないが柳は会いたがっているのだろう。
幸村の言葉に少し淋しそうに笑っている。
それに先刻の柳の言葉から察するに、もしかするとここを辞めると言っていた事と何か関係があるかもしれない。
それならば、彼が自ら話せるまでは聞かなかった事にしなければならない。
観月や亮の態度から考えてもそれは絶対に守らなければならないだろう。
そんな余所事を考えながら片付けていると、小物を入れている引き出しをうっかりと畳の上に落とし、中身をひっくり返してしまった。
中身はそれ程多く入っていなかったが、かなり大きな音を立ててしまい隣の部屋から幸村と柳が顔を覗かせた。
「何一人暴れてるんだ?ねずみでも出たのか?」
「いや、すんません…うっかり手ぇ滑らせちまって」
「気を付けなよ。ここに入ってるのは貴重なものだってあるんだから」
「重いものも入っているからな…怪我はなかったか?」
「は、はい!大丈夫っス!すぐ片付けますんで!」
咎める幸村と対照的に心配そうにする柳に大丈夫だと笑顔を向ける。
そして畳に散らばってしまった小物類をかき集める。
その中に美しい錦に包まれた懐刀がある事に気付いた。
それを拾い上げようと手を伸ばすが、一瞬先に幸村が拾ってしまった。
「何だ、これ…まだ渡してなかったのか?」
赤也と懐刀、そして柳の間に視線を移ろわせる幸村に柳は苦笑いを返すだけだ。
その様子にそれが本来自分に渡されるものなのだと気付く。
柄には美しい装飾が施されていてそれが実用的なものではなく、竹光だろうと察した。
だが鞘からそれを引き抜くと、幸村はそれを迷う事なく赤也の喉元に突き出した。
突然の事に驚き、赤也は目を見開いたまま固まる。
刃先は思っていた以上に鋭く美しい。
一寸でも動けば喉笛を掻き切られていただろう。
「なっな、なっっん……!!」
老翁に杯を投げつけられた時と比べ物にならない命の危機を感じ、怒鳴りつける事も出来ずその場に力なく腰を抜かした。
「精市!」
流石の柳もその行動は解せぬと、珍しく怒気を前にして赤也を庇うように立ちはだかった。
「大丈夫か?」
「は、はぁ…」
「どういうつもりだ?」
「何でもないよ。ちょっとふざけただけだ」
幸村はそれまでの恐ろしい程の無表情からいつもの裏を見せない笑みを浮かべ、懐刀を鞘に納め柳に渡した。
そして何も言わず部屋を出ていってしまった。
柳は一体何だったのだとまだ呆然とする赤也の顔を覗き込む。
「赤也?どこか怪我は?」
「全然……いや、大丈夫っス。一応手加減はしてくれたみたいなんで」
「そうか、よかった…全く、精市の奴何だというのだ一体…」
「あの、それ…」
これが原因なのではと赤也は恐る恐る柳の手の中にある懐刀を指さす。
だが刹那、柳の表情が暗くなる事に聞いてはならなかったかと後悔した。
しかしすぐに柳はいつもの薄い笑みを浮かべる。
その表情がそれ以上何も聞かないでくれと語っているようで、赤也は何も言えなくなってしまった。