闇宵紫昏 一章 四季の華 5

その不思議に思っていた相手の正体を知ったのは、宴席ではなく昼日中の往来であった。
柳に連れられ、京の町へ茶の出稽古へ行ったその帰り道であった。
目の前にある鬼瓦のような顔は先日やってきた柳の最上客である老翁と瓜二つで、
おそらくこのまま四十余年ほど年を重ねればあのようになるだろうと赤也は萎縮しつつも笑いを堪えるので必死だった。
どこかよそよそしい二人の間に何かがあったのは確かだ。
そんな二人の後ろで一人蚊帳の外だった赤也はそんな余所事ばかり考えていた。
しかし唐突に柳に前に出され、一瞬体と表情が固まった。
「な、何っスか…」
「弦一郎、これが今俺の手として働いてくれている赤也だ」
元よりの厳しい表情に加え、更に睨まれたように思い、赤也は負けじと睨み返す。
だがそれも柳は気付いていないようで、今度は赤也に向け紹介した。
「赤也、こいつは俺の友人で真田弦一郎。この間の…眞屋のご隠居の孫だ」
「……やっぱり」
「何がだ?」
「いえっ!何でも!」
注意深く聞かなければ聞こえないであろう程の小声でいったつもりだったが柳の耳には届いていたようだ。
赤也は慌てて手を振りそれを流し、改めて真田に向き直ると深々と頭を下げた。
そして遠慮するように柳の後ろに下がる。
だが真田の視線は赤也を刺したままで居心地が酷く悪い。
早くどこかへ行ってしまいたいとそわそわするのを止められないでいると、柳は察しよくその場を離れてくれた。
悪いなと思ったものの、柳自身もどこか居心地悪そうで早くその場を離れたがっていたように思ったのだ。
彼が、真田が柳にとってどのような相手なのか、それを教えてくれたのは意外な者だった。
往来での邂逅から数日、幸村に用があると言い、真田が見世へとやってきた。
夕刻見世が開く前であった為に忙しくしていた柳とは少し顔を合わせただけであった。
その時もいつもの柳とは少し様子が違っていた。
いつもは相容れぬ笑みで線を引き、人から距離をおいている柳であったが真田の前では感情の揺れが見えるのだ。
それはほんの僅かなもので、柳の全てを見透かしたような様子の幸村以外では気付いているのは恐らく赤也だけだろう。
何より、と赤也は足下にすり寄る猫に目をやった。
柳の愛猫である青也はまさに天敵という言葉にふさわしい程に赤也を敵対視していた。
赤也が近付けば不機嫌な声を上げ、手を近付けようものならもれなく引っかかれてしまう。
その原因には一つ思い当たる節があった。
青也は蓮二の心を奪う者が嫌いなんだよ、と言って幸村が悔しそうに言っていたのだ。
仁王と赤也が柳と共にいれば仁王に寄りつく、幸村と赤也が共にいれば赤也に寄りつく。
そして今は、と苦い思いが湧いて出るのを抑えながら青也を抱き上げ餌をやる為に奥へと下がった。
青也がこうして触らせてくれるという事、即ち柳にとって真田はそれだけ大きな存在だという事だ。
いつも空気のように添う幸村と同じ程に。
厨で残飯を分けてもらい、その皿を持って回廊へ向かうとそこには先客がいた。
「お、珍しいのぅ。青也がお前さんに大人しぃに抱かれちょる」
「……まぁ…」
いつの間にやってきたのか仁王が板の上に寝転び煙管を噴かせている。
赤也はそのすぐ横に行くと皿を床に置き、青也をその前に下ろした。
途端に餌に食らいつく青也を見届け、赤也もその隣に座る。
「幸村に柳取られでもしたか?」
「いや…何か……真田って人が来てて、それで代わりに餌やっとけって言われて」
その名前に反応するように仁王は体を起こした。
「へえ…あいつ来てんか」
「あの人、何なんっスか?あの真田って人の前だと、何か柳さんいつもと違う感じがしました」
「お前さん、まだ何も聞かされとらんのか?」
黙ったまま頷く赤也にしばらく何かを思案した後、仁王はいつになく真面目な顔を向けた。
「事の核のとこは本人が口開くまでは待っとくんじゃな。ま、当たり障りない事だけなら教えてやるぜよ」
何でもいい、少しでもこの喉に何か詰まったような気持ちの悪い状態から抜け出れるのならば教えてほしいと赤也は静かに頷いた。
「あいつは幸村と同じで柳とは幼馴染みじゃ。十になるかならんかって頃からの付き合いらしいぜよ」
「……そんだけ?」
「もっとえげつない関係かと思ったか?」
拍子抜けするほどに単純な関係だと赤也は息を詰め肩に込めていた力を抜いた。
「けどな、そういう単純な関係ほど、案外奥が深かったりするもんじゃよ」
「え…」
仁王の言葉は道理だ。
そんな簡単な言葉で片づけられるような関係ではなさそうだという事は柳の様子や見世の他の華達の様子で解っていた。
解ってはいたが、もう少し何か核心に迫る何かが欲しいと赤也の喉にはまだ小骨が刺さったままのような気持ち悪さが残ってしまう。
納得いかないと表情に出てしまっている赤也に、仁王はやれやれと溜息をわざとらしく聞かせてから口を開いた。
「んじゃもうちょっとな。どちらかの思いが傾くと、関係性の均衡も傾くってもんじゃろ」
「え…それって…」
「あー深くは聞かんでくれ。幸村に殺される」
仁王の言葉と青也の態度、それによって一つの可能性にたどり着いた。
「あいつらは俺らなんかには解らん絆があるからな…色んなもん抱えた柳の支えになっとるんじゃ」
皿の中身を全て平らげた青也が赤い舌で口の周りを拭い、仁王にすり寄っていった。
いつもの定位置はやはり落ち着くのか、仁王の膝の上に乗り大きなあくびを漏らしている。
それを少し沈んだ様子で眺める赤也に、それまで青也を撫でていた手を寄越し仁王は赤也の頭をかき混ぜるように撫でた。
「うわっっ何するんっスか!」
「今はお前さんもあいつの支えになっとんじゃ。そんな顔しなさんな」
「え…?お、俺?」
「ああ。いつも柳が言っちょるやろ。お前がいてくれてよかったって。柳はほんまの事もなかなか口にせんが嘘だけは絶対に言わん。
風向きが悪くなったら口八丁にまいて逃げるからな。やっけ、その言葉信じてやり。嘘やないんじゃしのう」
その思わぬ優しい言葉に赤也は裏を疑う間もなく反射的に頷いた。
「幸村にも相当目ぇつけられとるしな。俺や俺の前に柳の手やっとったもんには見向きもせんかったから、それだけ見込みがあるって事じゃよ」
「全っ然嬉しくないっスよ!!…こないだも殺されかけたし」
「何悪さしたんじゃ」
それまでの良い人の皮をかぶった仁王は何処かへ行ってしまい、いつもの悪い顔で赤也をにやにやと笑う。
それも誤解だと必死に否定し、赤也はこの機会にとあの刀の正体を尋ねた。
仁王は少し意外そうな表情して、それをどこで見たのかと質問を返した。
そこで幸村とのやり取りを説明すると、仁王は再び思案する素振りを見せる。
やはり何かあるのだと縋るように視線を送れば、ふっと空を見上げてぽつりと呟いた。
「…やっぱお前さんはあいつの気まぐれだけで連れてこられたわけやなさそやの」
「どういう事っスか?」
訝る赤也に仁王は懐に手を入れると、何やら棒状の物を差し出してくる。
「…懐刀?」
それは幸村に喉元に突き立てられた柳所有のものより質素な、だが金の紋が重厚な懐刀だった。
「"彼の為には命ぞ惜しむなく"」
仁王は持っていた懐刀の峰を自らの首筋に宛がい重々しい様子で言葉を紡ぐ。
「な、何っスかそれ…」
「こうやってな、手のもんは自分の仕える華に誓うんじゃよ。命をかけて貴方を守りますって」
「えっ、じゃあそれ…もらったんっスか?柳さんに」
「違う違う。これはブン太に渡されたんじゃ。邪魔んなったら腹切れ、俺が食ってやるからってな」
物の喩えもあの男が言うと洒落にならない。
本当に食してしまいそうな印象があるものの、それも不器用な思い故の事だろうと推測できる。
普段は口汚く互いを罵り合っているようでいて、お互い思い合っている事は赤也もよく知っている事だった。
「ま、あいつは花蕾で見世離れたからのう…ただの真似事やけど、これの意味はそういうもんじゃよ。
華と手のもんの間を繋ぐもんやけど、この見世でも持っとるもんは限られとるしな」
「そうなんですか?」
「ああ。寛なんかは持っとるんやないかの。逆に観月が金で雇ってるだけの赤澤は持っとらんし」
暗にそれは恋仲であるような、華と唖手が親密な場合に渡すものだと示している。
赤也は柳の側にいるものの、凛にとっての寛や仁王とブン太のような間柄ではない。
ならばそれを持たされず、存在を知らされていなかった事も理解できる。
しかし幸村は何故渡さないのかと驚いている様子だった。
柳はこれを渡すつもりでいたのだろうか、そして過去にいたという唖手にも、と思いつめた様子の赤也を見て仁王が笑う。
「柳が懐刀を用意したんはこれが初めてじゃ。俺より前ん時はそんな素振りも見せてなかったぜよ」
仁王の言葉が本当ならば、あの喉に突き立てられた刀は己の忠誠を誓わせるものだ。
そして、それならば幸村の行動も理解出来る。
幸村は柳のあの苦笑を見て赤也を責めたのだ。何故受け取らなかったのだ、と。
だが当の赤也はそんな刀の存在すら知らされていなかった為にあのような態度となった。
「ま、幸村も誤解やって解ったからその場で殺されんかったんやろ。安心しんしゃい」
「あんな思いもう勘弁っスよ…マジで殺されるかと思ったんっスから」
「そんだけあいつに…柳にとっちゃ一大事だってことじゃよ」
仁王はそう言い残し、青也を連れ部屋の中に入っていった。
後に残された赤也はしばらくぼんやりとその場に佇んだままだった。
広大な庭を眺め、あの刀の意味を改めて考え直す。
この見世で最も位が高く、後ろに控える客の錚々たる顔ぶれは萎縮するに十分値する。
それでも柳が必要としてくれている事が赤也の支えとなっているのだ。
つまらない、人として扱われていなかった過去を思えばここでの生活は厳しいながらに充実していて、何より楽しいと感じられる。
日々生きていく事だけで精一杯であった頃が嘘のようだ。
それは全て柳の存在があっての事で、だがその全てを依存してしまうのは多少の恐怖を覚える。
もしも柳がいなくなれば、もしも柳に必要とされなくなれば。
あの刀を受け取ってしまえば、彼に全てを委ねる事となりそうで、それは避けたいと本能が察した。
何より柳には感謝をしているが、そのような特別な感情がどうしても持てなかった。
柳に限った事ではない。
誰か一人を、たった一人を思うという事がどのような感情であるか、理解できないのだ。
恋仲に限らず、誰かを好きになるという事が解らない。
人との付き合いなど煩わしさでしかなかったのだ。
この見世にやってきて、漸く誰かと共にいるという事の楽しさなどは覚えた。
それでも自分が誰か一人を慈しみ愛する事とは縁遠いように思える。
柳がどのような思いであの刀を用意したかは解らないが、それがどのような思いであれ今の赤也にはそれを受け取る事は出来いだろう事は確かだった。


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四季は広い見世であるが故に赤也にもまだ行ったことのない場所がいくつかあった。
一つは見世の二階。
ここは住み込みの萌芽や花蕾の部屋となっているので赤也が行く必要がない場所だ。
もう一つは見世の北東に位置している池の上に建てられた離れ。
見世に来て程ない頃その存在には気付いていたのだが、立ち入り禁止になっている場所だと皆が口を揃える。
入れない場所ならば行く必要もないだろうと思い遠くから眺めるのみだった。
そしてもう一つ。
広大な庭にぽつりと佇む茶室にも入った事がなかった。
壁は最低限に取り払われ御簾に囲まれる場所である為中を見る事はあったが中に入った事はなかった。
そこに入る機会がついにやってきた。
とはいえ、いつも通り席亭である柳の斜め後ろに控えるだけであったが、静謐なその空間は賑やかな見世の中でも異彩を放っている。
静かすぎて居心地が悪いといつも以上に落ち着きのない赤也に、柳が振り返り菓子を差し出した。
「美味いぞ」
「え?あ、ありがとうございます…」
唐突に目の前に置かれた菓子は季節を映す練りきりで、熟練した職人の手によって作られたものだと解る。
恐らくは贔屓の鳳来堂で買ったものなのだろう。
ならば間違いなく美味いはずだと赤也は一口に頬張った。
「そなたの新しい手は童子のようやの。ほんに愛らしゅうてそなたの好きそうな子や」
「すっ、すみませんっっ!!失礼いたしました!」
作法も何も考えず、つい厨でつまみ食いをするように菓子を食べてしまったと赤也は慌てて手を付き頭を下げた。
だが柳の斜め前に座っている上品な婦人は扇で口元を覆い、楚々と笑うだけで気にしている様子もない。
柳も構わないと笑みを見せているが、流石に子供ではないのだからと何度も謝った。
茶席を設ける前にこの婦人の正体を聞いた時には腰を抜かしそうになった。
嵯峨美局。
時の将軍の生母であり、紀州家前当主の正室、出自は京の公家という。
彼女は赤也だけではなく、この街の者にとっても雲の上の人だったのだ。
しかし時折京に赴いては街へ立ち寄り、こうして柳の茶席を楽しんでいるという。
柳生の言った通り、本当に将軍家のお席にも上がるのかと先日の眞屋の席よりも緊張していた。
だがしっとりと淑やかな雰囲気を持つ婦人は心を和ませ、つい童心に返り子供のような所作を見せてしまったのだ。
親を知らない赤也であったが、母とは恐らくこのような人なのだろうと思わずにはいられなかった。
「赤也殿とおっしゃいましたな。甘いものがお好きであらしゃいますか?」
「あ、えっと、は…はい」
「左様か。ではこちらも食べてみりゃれ」
「えっ、いやそんな!!」
嵯峨美局が優しい笑みを湛え柳に目をやると、柳は小さく頷き手元にある美しい菓子を赤也に差し出した。
「ほら赤也。いただきなさい」
「遠慮なさるな。そなたが召し上がる姿はほんに美味にみえまする。菓子も喜びましょう」
「……あ、ありがたく頂戴いたします…」
柳と嵯峨美局の笑顔に挟まれ、引けなくなった赤也はおずおずと手を差し出し皿を受け取る。
そして勧められるままに再び一口でそれを食べた。
不作法だと怒られる事を覚悟していたが、やはり気にしている様子もなくいい良い食べ振りだと喜ぶ姿に安堵した。
それからも終始和やかなまま茶会はお開きとなり、沢山の家来衆を引き連れた豪奢な輿が見世の前へとやってくる。
何から何まで雲の上の事だ、と黒塗り金縁の輿をまじまじと眺めていると、嵯峨美局は不意に柳に向き直った。
「そういえば…そなたまだ手に刀を持たせていらっしゃらぬそうですね」
刀、とはあの喉元襲いかかってきたあの懐刀の事であろう。
柳の表情を見ればそれは一目瞭然であった。
以前と同じく少し困ったような笑みを彼女に向けている。
それを肯定と受け取った嵯峨美局はゆっくりと赤也に向き直ると一層優しい笑みを浮かべた。
「何を躊躇うておいでです、冬色。この者はそなたに忠義を尽くす良い唖手ではございませぬか」
そこは否定する事なく、柳は赤也をちらりと視界の端に入れた後頷く。
「そなたにも色々思いはおありでしょうが、私はそなたの心許す者がこの赤也殿であればと思いますえ」
そう言い残し、嵯峨美局はゆっくりと輿に乗り、帰路へと着いてしまった。
柳は何も言わず見世へと戻ってしまい、どこか話しかけるなといった雰囲気が漂っている。
赤也は顔を合わせないように、宴席のない部屋に入るとだらしなく畳の上に延びた。
いつもとは違う緊張感で疲労困憊していた赤也は一瞬眠りに落ちてしまったようだった。
そして静寂の中で少し心が落ち着いた頃、廊下に続く襖が静かに開いた。
それに慌てて体を起こすと、そこにはいつもと変わらぬ様子の柳がいた。
「疲れただろう?夜の席まではゆっくりするといい。今日の手回しは萌芽達に頼んできた」
「あ、すいません…じゃあ、お言葉に甘えて…」
柳も流石に疲れているのか、いつもの豪奢な長着や打掛ではなく、部屋でいつも着ている男物のの長着を身につけている。
華やかな雰囲気の着物もいいが、このように男の姿であっても柳はどこか凛としてよく似合っているように思う。
「素敵なご婦人だろう?」
「嵯峨美局様ですか?」
「ああ。俺は親を知らんが、あのような方が母君であればと思う」
「え?え?親を…って、柳さんも?」
あまりに淡々と言うのでうっかりと聞き逃しそうになったが、その重い事実に赤也は聞き返した。
「このような見世にいれば家庭に何か問題がある事も多いだろう」
柳の言葉は然りで、花蕾や萌芽の多くも両親共に亡くした者、赤也のように口減らしに遭い捨てられた者など事情があってここにいる。
結局柳もそれ以上の事を教えてくれる事はなく、赤也は沈黙に耐えられずそわそわと身じろぐ。
「赤也、お前の言いたい事は解っている」
「え?」
「これの事が気になっているんだろう」
柳は赤也に少し近付くと、懐に差していた刀を取り出した。
「え、っと……ハ、ハイ…すごく、気になってます」
「仁王に聞いた。あいつがこれの正体を話したそうだな」
「そう、です…」
柳の様子をちらりちらりと見やりながら頷くと、柳は深い溜息を吐いた。
それは聞いてはならない事だったのだろうかと一瞬ひやりとしたが、柳は真っ直ぐと赤也を見つめた。
「そうか。俺はこれをお前に渡したいと思い用意した」
「え…え?!」
「お前はよく働いてくれている。それに俺の精神的な支えにもなってくれているのだから当然だ。忠義を誓わせたいと思うのは」
何だそういう事か、と赤也はいらぬ期待を持ってしまった己を恥じた。
柳が自分に特別な感情を持っているなどと、と思っていたが、次の言葉に赤也は座っていながらにして腰が抜ける思いがした。
「もちろんそれだけではない。暗に意味する事も含めてだがな」
「え?!……っっえ?!」
「何だ、その反応は」
不満げに口を窄ませる姿は子供のようで彼にはおおよそ似つかわしくないものだ。
だがそんな姿も意外と似合っているかもしれないと思わされる。
「それほど深い意味に捉えなくていい。お前にその気がない事は解っている。だからこれを用意したが渡す事を躊躇っていたのだ。
それに俺自身、お前を思う気持ちが何であるかも理解出来ていないしな」
その言葉に偽りがない事は柳の顔を見ればわかる事だった。
しかし赤也はこのままうやむやにしてしまう事は出来ず、傷つけてしまうかもしれないと思いながらも心の中を正直に打ち明けた。
「俺!あの、俺…ほんとに、あの…アンタには感謝してるし、アンタがいらないって思うまでずっと側にいたいと思ってる。
けど、あの……はっきり言って、アンタを…そんな風には…思えないっス」
「…そうか。正直に言ってくれてありがとう、赤也。それでも構わない。これからも俺の側で俺を助けてくれるか?」
「もっっもちろんです!!俺、ほんとに自分がこんなに必要とされてるなんて、嬉しいんです!それだけは、ほんとに、ほんとなんで。
俺が今頑張ろうって、生きていこうって思えるのは、アンタのおかげなんです!!」
赤也の必死な言葉は柳の心にも十分に届いたようで、ほんのりとした寂しさを匂わせながらもいつも通りに笑みを返した。


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不自然な態度の柳と真田の間にあった真実を知ったのは、それから比較的間もない頃だった。
四聖も桜の季節がすっかりと過ぎ、代わりに若葉生い茂る季節となった。
四季の庭も瑞々しい色をしていて、それに比例するように仕事も増えていく。
赤也は萌芽や花蕾を連れて広い庭掃除に勤しんでいた。
月に一度は庭師が手入れをしてくれているのだが、暖かくなるにつれて雑草の生える速度に追いつかず、こうして見世の者で手入れをしているのだ。
相変わらず仕事をする気などないのか、庭にある池の鯉に餌をやっている仁王に近づく。
「仁王さーん…庭掃除する気ないんなら中の手伝いしてきたらどうですか。今日は観月さんの最上客が来るって皆手が足りねーっつってんのに。
中大騒ぎっスよ」
「ああ…そうじゃのう」
適当な反応はいつも通りだが、その横顔が少し陰って見える。
それについて尋ねようとしたが、赤也が言葉を発するより先に仁王はいつもの様子に戻った。
「なあ赤也、観月の花摘みが決まったそうじゃぞ」
「え?花摘み、って…?」
「何じゃ、知らんのか。お女郎でいうとこの身請けじゃよ。まあ華は妾になるってわけやのぉて、
その能力の高さ買われて引き抜かれるって意味合いが強いんじゃけどな」
「そうなんっスか…って、え?じゃあ観月さんこの見世いなくなっちゃうんですか?!」
「ああ。その為に幸村がわざわざ淳を連れ戻したんじゃよ。観月の後釜張らせる為に」
この見世に来て以来、観月には世話になっていた為に寂しい思いがした。
観月は柳に次いで高位にあるのだから、恐らくそれ相応の家に引き取られるのだろうと思い尋ねれば、
音に聞く両替屋の息子の補佐になるのだと教えられる。
「柳もそれに合わせて忙しなるからの。しっかり助けてやり」
「はぁ…それアンタにそっくり返しますよ」
赤也の嫌味など意に介さず、仁王はいつもの皮肉じみた笑みを向けた。
こんな状態の彼に何を言っても無駄というもの。
赤也は諦めて庭掃除に戻ろうとした。
だが仁王が遠い目をしたまま庭の端を見ている為、その視線の先を追った。
そこはまだ赤也の足を踏み入れた事のない場所だ。
池の中にひっそりと佇む離れをぼんやりと眺める仁王に声をかける事を躊躇っていると、仁王の方から言葉がかかった。
「お前さん、断ったそうじゃな」
「え?」
「刀じゃよ。受け取らんかったんじゃろ」
「は、はい…ちょっと、思うとこがありまして…」
曖昧な赤也の言葉に仁王が意見する事はなかった。
だがわざとらしく一つ溜息を聞かせ、離れに向けて歩き始めた。
どういう意図があるのか、仁王の考える事など赤也に解るはずもない。
しかしその後姿に拒絶は感じられなかった為に後に付いて行く。
池のほとりに立ち止り、泥に澱む水面を見下ろす仁王の後ろに立っていると、彼は何を思ったのかにやりと嫌な笑みを浮かべ振り返った。
「赤也。あの刀はな、この離れを開ける鍵じゃよ」
「え?は?ど、どういう意味ですか?」
「この部屋の名前は柳蓮【りゅうれん】。その名の通り、柳の持ち部屋の最後の一つじゃ」
「え?え?!あ、そっか…椿、福寿草、南天、牡丹…四つしかねぇ!位は伍間続きなのに!」
指を折って数える赤也に、仁王は今まで気付かなかったのかと呆れた声を上げる。
深く考えていなかったと赤也が頭をかくのを見てもう一つ溜息を聞かせ、ゆっくりと建物を見上げる。
「ここはあいつと…柳と幸村以外は入った事のない場所なんじゃ。昔…俺がこの見世に来るより前の話なんやがな、
柳の上客やった男があいつの為に建ててやった場所じゃよ。結局その上客はここの完成を待つより先に飛んだんじゃが…
内装やった絵師は最後まで仕事全うしてここを完成させてくれた。その絵師も亡き今、ここに入れるんは柳と幸村だけの特別な場所なんじゃよ」
「それと…刀とどういう関係があるんですか?」
「つまりこの場所はそんだけ大事な場所って事じゃ」
そんな思わせぶりな事を言っておきながら、それ以上何も言おうとしない仁王に若干苛々としていると、
こちらもいい加減堪忍袋の緒が切れたといった様子の柳生が怒りの表情のまま遠くから叫んでいる。
「仁王君!この忙しいのに何をやってるんですか!……おや、赤也君もご一緒でしたか」
「赤也にあれの話聞かせてたんじゃよ」
柳生の位置からでは仁王の陰になっていて、近付いてきてからようやく赤也の存在に気付き、驚きの声を上げた。
そして仁王の指差す先に離れがある事に柳生は更に驚きの表情を浮かべる。
「その話は…」
「続きは柳生に聞きんしゃい。俺は庭掃除してくるけぇ」
「えっ!ちょっと!!」
都合よく逃げる口実にされ、柳生は戸惑いながら赤也を見下ろす。
だが赤也の顔に浮かぶ好奇心だけではない、柳を心配するような瞳の色に気付き、柳生は静かに口を開いた。
「ここがどのような場所かはお聞きになりましたか?柳君にとって…ひいては幸村君にとってどのような場所かを」
「何か…特別な場所っぽいっスね」
「ええ。ですが、特別なのはこの場所だけではありません。彼らの関係もそうと言えるでしょうね」
今更柳生に言われるまでもない、それは赤也も重々に理解している事だった。
しかし改めて聞かされた話はより深層を掘り下げたものだ。
「彼らの関係は先代の…幸村君のお父上の代から続くものですから、我々が思うよりもずっと深いです」
「でもそれだと…」
「親友であるか、共に暮らした兄弟のようなものであっても不思議ではありませんね」
先回りした柳生の返答に赤也が黙る。
拗ねた様子を見せる赤也を見て笑顔でそれをいなし、柳生は続けた。
「勿論そのような言葉にも当てはまりますが…もっと深く、強い絆で繋がっていると思います」
「あの人達って…何なんっスか?」
「幸村君は柳君に助けられ、柳君は幸村君に助けられた。その一語に尽きます」
言葉としては至極単純。
だがそれだけに裏にある事情は複雑そうだと赤也は言葉を控え、柳生の言葉を待った。
「柳君にご両親はなく、親代わりだった人の手から離れ、紆余曲折の後にこの街へやってきたそうです」
しかし売られた先は玄武の隠れ里、今の彼の地位からは考えられない場所だった。
玄武は所謂岡場所であり、見世はどれも体を売るだけで、朱雀や青龍にある街の公認を受けた遊女屋や花小屋、料亭などとは格が数段に違っている。
そんな場所に連れて行かれる道すがら、柳は幸村と出会ったという。
「どういった経緯でこの見世に来るようになったかは解りません。誰も…本人達以外は知らない事です。
でもその出会いが柳君の運命を大きく変えた事は事実ですから…彼が幸村君に特別な絆を感じて無理はないでしょう」
「じゃあ幸村さんは?あの人何で…」
「今から二年と少し前…先代の亭主が亡くなり、幸村君がこの見世を継いだ後の事です。
当時金庫番をしていた男が見世の金を持ち逃げしてしまった事があったんです。
この街の同心は市井よりも優秀ですからすぐに捕まり打ち首となりました。
ですが…盗られた金は結局戻らず、長く続いた伝統あるこの見世最大の危機となり……幸村君は失意のどん底に落とされたのです」
そして見世の者を抱え、多額の借金を抱え、死を思う程に落ち込む幸村を支え、立ち上がらせたのは他ならぬ柳だった。
二人は共に見世を盛り立てる為に知恵を絞り、助け合い、再び四聖一の花小屋へと返り咲いた。
「失意の幸村君を救ったのはこの部屋と柳君でした。ですから他の者がここに入る事を嫌がったのです。
彼らは運命共同体…表裏一体というべきでしょうか。柳君がいるから幸村君が、幸村君がいるから柳君がより輝けるのでしょう」
仁王の言っていたこの部屋の鍵、というのはそういう意味だったのかと赤也は漸く理解出来た。
この刀を受け取るという事は即ち柳の最も近くに侍るという事。
それは彼ら以外に許されなかったここに足を踏み入れる権利を手に入れるという事なのだ。
「…柳君が私と仁王君に言ってくれたのです、赤也に自分の過去を聞かせてやってくれと。勿論幸村君の了承も得ています」
「何で急に…」
「さあ…貴方に、もっと自分を知って欲しかったのではないでしょうか?たとえそれを聞かれてしまい貴方が離れていったとしても、
それでも真実を知ってもらいたいと思ったのでしょう。彼は決して嘘を吐く事がありませんから」
仁王も同じ事を言っていたと言えば、少し意外そうに目を瞬かせた。
「そうですか…彼も柳君には頭が上がりませんからね。心配をしていたのでしょう…蓮の花のようになりはしないかと」
「蓮の花?」
「ええ。蓮は一つの蕾が四度花を咲かせるのです。三度咲き、三度閉じ、四度目に咲いた後は花弁を散らしてしまう…
奇しくも柳君が貴方の前に抱えた手は三人。ですから…貴方にまで去られてはあるいは…再びこの見世を去るとおっしゃると思われたのでしょう」
そうだった、彼はここを辞めるのだと言って皆を困惑させていたのだと赤也の脳裏にはここへ来てすぐの事が浮かんだ。
そしてそれは幸村によって箝口令が敷かれていた。
今ならば聞く事が出来るかもしれないと尋ねようとした、その時だった。
「柳生」
「…柳君」
赤也も柳生も話に集中していた為にすぐ背後に柳が来ていた事に気付かなかった。
柳生が会釈して一歩引くと、柳は少し苦い表情を浮かべる。
「すまなかったな、変な事を頼んで。ここから先は俺が話そう」
「では私は見世に戻ります」
気を使った柳生が下がり、池の畔には赤也と柳二人きりとなる。
暫くは池に浮く蓮の葉を眺めたままだった柳が徐に口を開いた。
「俺が見世を辞めると言ったのは自戒のつもりだった。が……思った以上に皆に心配をかけてしまったようで今は反省している」
「自戒?あんた一体何したんっスか……」
赤也の問いかけに目を伏せたまま暫し時を置き、柳は小さく呟いた。
「親友と思っていた奴を……傷つけた」
「親友?それってあの真田って人ですか?」
柳は何の反応も示さない。
だがそれが真実であると僅かな眉の歪みで分かってしまった。
赤也は先を急かすような事はせず、柳が自分で言い出すのを待った。
「俺と精市は柳生の言っていた通りだ。特別なんだ…精市は。俺は精市と離れる事は出来ないし、離れようとも思わない。
一心同体というべきか…俺は自分自身を上手く理解出来ない事が多いが、そんな時は決まって精市が俺の気持ちを的確に汲んでくれていた。
もう…俺の半身というべき掛けがえのない存在なのだ」
その言葉をはっきりと聞いた瞬間、僅かに心が痛んだ事に赤也自身驚き、そして戸惑った。
二人の仲の睦まじい事は周知の事であり、赤也もよく理解している。
だが一瞬心がついていかなかったのだ。
この人の最も傍に侍るべきは自分ではなかったのか、と。
その激情を抑えるような柳の落ち着いた声が耳に入り、赤也は我に返った。
「だが……俺をこの見世から連れ出そうとしたのだ…弦一郎は」
「どういう事ですか?あ、花摘みって事ですか?」
先刻仁王に聞かされたばかりの単語がふと頭に浮かび尋ねれば、柳は小さく頷いた。
「この見世は精市のものであるが、身寄りのない俺にとっては家も同然。そこから俺を引き抜こうなど、弦一郎の考えが理解出来なかった。
当然俺は断った。自分で言うのは些か憚られるが…まだ回復途上のこの見世に俺は不可欠だと自負していた。だから……
だが弦一郎は譲らなかった。仁王が俺の元を離れて以降手の者がいないのならば、自分が唖手になるとまで言い出したのだ」
「え……え?…えっっっ?!」
「何だ、どうした突然」
唐突に叫ぶ赤也に驚き、柳はそれまでの神妙な顔付をやめ、珍しく目を見開いた。
それに慌てて己の口を掌で塞ぎ、何でもないと目で訴える。
赤也はここで漸く気付いたのだ。己の勘違いに。
あの皆の口ぶりや柳の行動からして、てっきり柳が傾倒しているものだと思っていた。
だが実際は違っていたのだ。
傾倒していたのは真田の方で、柳を我が物にしようとしていた。
それが真実だった。
「俺には理解出来なかった。弦一郎が何故そんな事を言い出したかなど…そんな事はどうでもよかった。
弦一郎の気持ちなど、考えていなかった。言葉は悪くなるが、興味もないし考えたくもなかったのだ。
だが…弦一郎が俺に…言ったのだ。ここで客の相手をしている事が許し難い、と。
俺はそれが許せなかった。これまで精市と共に頑張ってきた俺を否定されたような気持ちになった。
だから…言ってしまった。お前個人の感情など知った事か、本当に俺を思っていてくれるのなら、花摘みなどせず、手にもならず、
これからも客として俺に金を落としていってくれた方がよっぽど嬉しい、ありがたいと……
酷い言い分である事は解っていた。だが俺には許せなかったのだ…俺に精市を、この見世を捨てさせようとする事が」
共に大切な親友であると思っていた。
だが天秤にかけるまでもなく、柳は迷う事なく幸村のいるこの見世を選んだ。
己を思ってくれている親友を酷い言葉で傷つけてまで。
それは徐々に柳の心を蝕み、次第に見世にいる事が罪のように思い始めた。
そして自戒の意味を込め、柳は見世を辞めると申し出た。
何よりも大切に思っている幸村や見世と離れる事で心に落ちた罪を償おうと思ったのだ。
しかし当然幸村はそれを許さず、猶予期間を設けて考え直すように諭した。
見世は大変な状態となったが、その休暇は思わぬ帰結へと柳を辿り着かせた。
「お前と出会ったのはそんな時だったのだ。お前の…地に這い、人としての尊厳を奪われた状態で尚上を見続けるその姿勢に俺は敬服した。
この者を傍に置けばあるいは…俺も変われるだろうかと思ったのだ」
「気に入ったって…そういう意味だったんですね」
「ああ。他の…お前より以前に側に置いていた者は皆金で雇った小姓のようなものだった。だが赤也…お前は違う。
俺が必要として、俺が心から望んで手の者にと所望した。だからあの刀を用意したのだ。他に…お前をここに縛る方法が解らなかったから…」
赤也はずっと不安で、ここへ辿り着いた事は様々な疑問が巡る出来事であった。
だが漸く何故ここに自分がいるのかを理解出来た。
自分は本当に必要とされて今ここに立っているのだと。
分不相応であると心に引っかかっていた気持ちが水に流れるように赤也の中から綺麗に落ちて行った。
「柳さん…ちゃんと謝りましょう。真田さんに。今のまんまでいいわけねぇっス。ちゃんと…アンタの考えてる事全部話して…
それがまた相手を傷付ける事になっても、それでも…アンタはそれを受け止めなきゃなんない。
本気でぶつかってきた相手には、ちゃんと本気でぶつからねぇと」
「……しかし…」
「大丈夫、一人じゃないです。俺も行きます。俺が一緒にいます。俺が支えます。もっと頼ってください!」
「赤也…」
真剣な赤也の様子に心打たれた柳は少し不安げな表情のままではあるが頷いた。
「確かに…お前の言う通りだ。だが弦一郎との事は俺で決着をつけよう。それから、改めてこれを渡したい」
そういって差し出される懐刀の柄の銀が渋く光る。
赤也は一度それに目を落とした後、真っ直ぐに柳を見据え、しっかりと頷いた。


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後日、見世では目立ちすぎると、幸村は天生が持つ別宅の一つに真田を呼び出した。
幸村にお膳立てをしてもらい、赤也に背を押される形で柳は話し合いの場へと向かった。
広大な見世とは違い、庭の端から端までが三十歩程の狭い場所を臨みながら、ゆったりと茶の湯を楽しむ。
次第に二人の間にあった微妙な空気が取り払われ、柳は自然と話を切り出せた。
「あの時はすまなかった、本当に…」
「いや…俺の方もすまなかった。お前や幸村の気持ちを考えずに……少し勝手が過ぎた」
正座した姿勢から少し頭を下げただけの柳とは違い、深々と手をつき謝る姿があまりに真田らしいと感じ、柳は思わず笑いを漏らしてしまった。
顔を上げ、訝しげな表情を浮かべる真田にすまないと断りを入れ、茶を一口に飲み干す。
そして心の静まるのを感じ、ゆっくりと気持ちを吐き出した。
「俺はお前の気持ちなんてどうでもよかったのだ…お前がどんな気持ちであの申し出をしてくれたかなど、俺には関係がなかった。
少しの興味もなかった。だから…俺と精市を引き離そうとするお前がただ憎かったのだ」
「……そうか…すまな――…」
「だが今は違う。だからもう謝らないでくれ。俺ももう……」
忘れよう、と言いかけ、一旦言葉を止めて、謝らないと言い直した。
真田はそれに少し苦い表情を浮かべたが、静かに頷いた。
暫し二人の間には沈黙が落ちた。
だが意を決したように真田が口を開く。
「あいつは…あの手の者は一体どういった奴なのだ。お前を大事にしているのか?」
その物言いがまるで娘を心配する親父のようだと、再び吹き出してしまった。
何故笑っているのかに気付いた真田は、今度は少し不機嫌なような拗ねたような表情を浮かべる。
「赤也か…不思議な奴だ。俺もあいつもどん底を経験しているはずなのにな…何故こうも違うのかと思う事ばかりだよ」
「お前が納得して側に置いているのならばそれでいい。また仁王のようにお前の手を煩わせてばかりではと心配だったのだ」
「仁王もあれはあれで俺を心配してくれていたんだぞ。ま、その三倍は手のかかる男だったがな」
柳は渋い顔でそんな事を言う真田を窘め、だがそれに含まれる真実はしっかりと肯定する。
「赤也は……俺は赤也を側に置いて少しお前の気持ちが解るようになった。
何故お前が俺を摘み出そうとしたのか…今の地位や家を捨ててまで唖手になると言い出したのか。
やはり興味がないのは今も同じだが…理解は出来た。あの時、お前がどういう気持ちだったかが」
「お前…正直なのは結構だが少しは俺に気遣え」
いつも以上に眉間に皺を寄せ、情けない顔をする真田に軽い調子ですまんと謝る。
あまり謝る気がないな、と真田はますます険しい顔になる。
だがそれも自分達には丁度いいかもしれないと柳は心に落ち着けた。
そして遠くに聞こえる夕刻を告げる鐘の音に気付き、茶碗の片づけを始める。
「もう見世の開く時間か」
「ああ。すぐに赤也が迎えに来る」
それを聞き、真田は慌てて腰を上げた。
「そ、そうか。うむ、では俺は失礼しよう」
「どうした急に?一緒に出よう。途中までは同じ道のりだ」
「いや、いい。俺も店の方に顔を出すつもりでいたのだ。ではな」
挨拶もそこそこにそそくさと帰ってしまう真田に戸惑っていると、入れ替わるように幸村と赤也がやってきた。
「また何かあった?真田、慌てて出て行ったけど」
「いや、俺も解らんのだ…赤也が迎えに来ると言った途端帰ってしまった」
「ふーん…逃げたなあいつ…」
「何故?」
「赤也と顔を合わせたくなかったんだろ」
「えっ、俺?!」
見世から持ってきた茶器を片付ける柳を手伝っていると、突然に話を振られ動揺した赤也はうっかりと畳の上に茶碗を落としそうになる。
「落とすなよ。それは楽茶碗のいいものなんだからな」
「すっすみません!」
幸村にそう言われ、赤也は慌ててそれを拾い、大事に梱包して箱に戻した。
そして全てを片付け終え、見世に戻ろうかと柳と幸村は連れ立ち、家を後にしようとする。
だが玄関に続く廊下に突っ立ったままの赤也に気付き、不思議そうに二人は振り返った。
「赤也?どうした」
「早くしないと見世が始まるぞ」
「あのっ!ください!」
突然何を強請りだしたのかと面食らう二人に、赤也は自分の言葉が足りない事に気づき慌てて訂正した。
「あ!あの刀…あの懐刀です!!あの、やっぱり…アンタを冬色って華以外には見れない。けど…あの、これからもアンタの側にいたい。
俺の生きる意味与えてくれたアンタの側に、ずっと」
突然の赤也の告白に目を白黒させたまま玄関先に立ち尽くす柳の肩を幸村が叩く。
「蓮二」
幸村はそれ以上何も言わなかった。
だが全てを悟ったように柳は静かに頷き、帯に差した懐刀に手をかける。
そしてその身を隠す錦を外すと赤也に向け差し出した。
赤也はそれを恭しく受け取ると、鞘から抜き切っ先を首筋にあてる。
「彼の為には―――…」
仁王に教わった台詞を口にした瞬間、幸村が音の速さで赤也に近付き首にぴったりと刃を張り付けた。
「精市っ!」
鋭い柳の声など耳に届かないと言わんばかりの幸村は今までで一番鋭い瞳で赤也を射抜いた。
「これを受け取れば、お前に引き返す道はなくなる。蓮二と一蓮托生だ。俺は今まで蓮二を傷付ける奴を徹底的に排除してきた。
それはお前にだって例外なく言える事だ。……お前に、蓮二と添い遂げる覚悟はあるのか?華としか見れないなどと温い事を言っているお前に」
「お…れは…」
恐ろしい表情と、その細身からは考えられない程の力で押さえられ、徐々に肌に食い込む刃に恐怖心が芽生える。
だが赤也は渾身の思いでそれを跳ね除けると自らの手で再び刃を首筋にあてた。
「俺は誓えます。…いや、誓います。俺の一生をかけて、アンタに恩返しするって。それがどんな形になるかなんて今の俺には解んねぇけど…
でもこれだけは言えます。アンタにとってあの見世が特別な場所であるように、俺にとっても特別な場所になってます」
徐々に刃の食い込む跡が浮き上がり始め、痛々しい色がこびりつく。
だが赤也は刃を押し付けたまま、そう二人に向けて言い放った。
その真剣な姿に幸村も漸く表情を緩めた。
「……だ、そうだよ?どうだい蓮二?初めて手の者に誓いを立てさせた気分は?」
「そうだな…泣き出しそうに嬉しい」
「だったらもう少し嬉しそうにしなよ。お前は表情解り辛いんだから」
「いや、解ります!!あの、俺…何でか解らんねぇけど、解るんです……柳さんの、考えてる事とか…」
懐刀を鞘に納めながらそう主張する赤也に、二人は顔を見合わせ笑い始めた。
突然の事に驚き目を瞬かせていたが、何か二人の間だけに通じるものがあったのだろうと、
赤也は少し複雑な思いを抱えながらも二人に同じ笑みを向けた。


一章 終


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