闇宵紫昏 一章 四季の華 3

赤也が四季にやってきて七日が過ぎた。
当初、特殊な言葉に慣れず苦戦をしていたが、どうにか理解して一日の流れを掴むまでになった。
雅で浮世離れした見世の雰囲気には慣れないし、慣れられるとも思えない。
しかし赤也は持ち前の根性で仕事をこなしていた。
楽しみにしていた葛籠から出る最後の宝にはまだ会えていない。
亭主の幸村は出かけ先で色々あり、まだ帰路につけないのだと早馬がやってきた。
安堵と落胆が交錯する赤也を見て柳が笑う。
「誰に何を言われたか知らないが、精市を恐れているな?」
「はあ…まあ……」
あんな事を言われては恐れるなという方が無理な相談だ。
相変わらず赤也にだけ懐かない青也の世話に苦戦しながら心の中でぼやく。
青也を掴まえようと室内を走り回っているが、なかなか手の中に収まってはくれない。
大人しい青也が走る姿などあまり見かけないからと、助ける事もせず柳は窓際に座ったまま二人の様子を見て笑うだけだ。
それに赤也が恨めしそうに睨めば、ようやく腰を上げて近付いてきた青也を抱き上げた。
「ほら、これで付けられるだろう?」
赤也は柳の腕の中で途端に大人しくなった青也の首に赤と青の美しい組紐を巻きつける。
不器用な赤也が苦戦するのを見て、柳は白い指を差し出した。
「こうすれば解けない」
不意に手を重ねられ、思わずそれを撥ね退けてしまう。
その行動に、柳は赤也が他人に触れられるのを極端に嫌っている事を思い出した。
今まで置かれていた立場で他人に触れられるという事、即ち折檻されるという事が身に染みているのだ。
殴り殴られる事でしか他人の体温を知らない赤也は誰が相手であっても接触を拒む。
「あ…すいませ…」
「すまない」
本人も不本意で、無意識の行動なのだろう。
後は必ずきまりの悪い表情を見せる。
だからお前は何も悪くないのだという気持ちを込め、柳は赤也の言葉全てを聞き終える前に先に謝罪の言葉を重ねる。
「あのっ…」
「さ、人を迎えるから支度を」
柳は何かを言おうとする赤也を遮り、話を転換させた。
「え…?今日は一日ゆっくりするって……」
今日は宴席がない。花小屋は女郎屋と違い、元日だけが休みというわけではない。
華も休まねば枯れるのが早まると亭主の計らいで月に何度かは見世自体が休みになるのだ。
昨晩、明日は予定もないから、と言っていたはずだと赤也は目を丸くした。
「人が来る予定になった」
「解りました」
「客じゃないからそんなに畏まらなくていい。来るのは俺の友人だ」
友達いたのか、と失礼な事を思いながら部屋を出る柳の後を付いて行く。
その足下には青也が絡みつくように走る。
部屋の前の廊下をずっと真っ直ぐ下り、玄関前の廊下に出る。
「静かな見世もいいものだろう?」
「いいっつーか…珍しいっス」
人が多いとそれだけ騒がしくなる。
見世の中にいれば、いつも誰かが視界の端に入るほどだ。
だが今は互いの姿以外に誰もいない。
見世が休みの日は下働きの者はおらず、住み込みの萌芽や花蕾たちも皆ここぞとばかりに出かけており見世は閑散としていた。
華も柳を除いて皆出払っている。
そうなれば当然唖手たちも不在。
広い見世の中には、見張小屋に火の番と立ち番、あとは厨に飯炊き当番の萌芽が何人かと下男がいるだけだ。
誰に気兼ねする事もない。
「そうだ、他の者の持ち部屋はまだ見た事がなかっただろう?今から案内してやろう」
「え、けど、勝手に入っていいんっスか?」
「構わん。見世の部屋はどこも自由に入れるようになっている。控えの間だけは色々と置いてあるから暗黙的に誰も入らないがな」
離れから母屋に入ってすぐの場所にある部屋を大きく開け放つと、艶やかな桃色と緑が目に飛び込む。
「ここはもうすぐ夏色の部屋となる『夾竹桃』の間。珍しいだろう?まだ日本に入ったばかりらしいが…葉も花も実も…根も、燃やした煙すら毒になるそうだぞ」
「そ、そんなおっかない花描いてんっスか?!」
「毒も上手く使えば薬となる。この部屋の持ち主を考えてみろ」
そう言われ、頭に浮かんだ凛の姿に赤也は妙な納得を覚えた。
続けて案内されたのは玄関から入って一番近い部屋となる想思華。
ここは秋色の持ち部屋だ。
そしてその前にある二部屋、梔子【くちなし】薔薇【そうび】、廊下を折れすぐの百合は春色の、その隣にある仏桑花【ぶっそうげ】は現在の夏色の部屋だった。
どの部屋も上座に大きく花が描かれ、艶やかで美しい空気を醸し出している。
毎夜繰り広げられる宴に人々が酔いしれるのも理解できた。
そして全ての持ち部屋を案内し終えた柳は掃除の済んだ大座敷に入った。
座敷にやってきたわけではない来客は大抵通しの間で持て成す。
そのつもりでいた赤也はすでに通しの間に入ろうとしていた。
「お通しの間じゃないんっスか?」
「こっちの方が広くていい。誰もいないんだし別に構わんだろう」
玄関を入ってすぐの部屋は通しの間ともう一つ、厨のすぐ前にある大座敷だ。
三十畳ほどある大きな部屋。
ここで弐助【にすけ】と呼ばれる花蕾の接待が行われる。
冬色の柳にはもう縁のない場所なのだが、ここが好きなのだと笑った。
「美しい庭を広い窓から一望できる。それにここが俺の原点だからな…」
「原点?」
「華は皆ここでの宴席が出発点だ。尤も、それももう六年も前の話だがな」
今は最高位の華として君臨する柳だが、かつては他の者と同様にこの大座敷で宴席に出ていた。
「華寄席はあまり好きではないのだが、この部屋に戻れるからつい引き受けてしまう」
華寄席、その言葉に赤也はこの見世にやってきた日の盛大な宴を思い出した。
一体どれだけの金子が動いたのだろうと想像するに難い。
後日見世に運び込まれた千両箱の数は半端なものではなかった。
「俺、あの大店潰れちまうかと思いましたよ…亭主も怖いけどアンタも怖くなった」
「あれは俺への対価ではない。あの二軒は昔から商売敵でな…単にお互い張り合っているだけで、見世がそれを利用しているだけだ」
やはり怖い、と赤也は一歩下がった。
多少の見栄もあるだろうが、それをしてまで手に入れるだけの価値がある柳はやはり凄いのだ。
これは彼を蔑ろに扱う事、即ち各界の名士を敵に回す事になりかねない。
冷たい汗が赤也の背筋に伝わった。
「赤也?どうした?」
「いえ…別に……」
柳が青くなった赤也を心配した時、玄関の戸が開く音が鳴り響いた。
今日は出迎える下働きの者も花蕾もいない。
赤也は玄関に行こうとするが、一歩早く青也が動いた。
軽やかな足取りで玄関に走っていく青也が襖の向こうに消えると、歓声が聞こえる。
「へぇーお前綺麗んしてもらってんじゃーん」
「来たようだな」
その声に柳も玄関へ向かう。
「柳!遊びに来たぜぃ」
落ち着いた柳とは正反対の明るい声が赤也の耳に届く。
それに続いて間延びした声も届いた。
「よお柳。青也も元気しとったかー?」
猫の名を知っている事からして、猫の譲り主だろう。
赤也はそっと襖から顔を覗かせ玄関を見た。
途端に飛び込む真っ赤な髪と銀色の髪に目を疑った。
こうなればもう異人如何ではない。
この世にこんな髪の色の人間などいるはずがない。
赤也は眩い髪に目が釘付けとなった。
「どうぞ上がって。大座敷にいるぞ」
「マジで?!おっじゃましまーす!」
柳の声に客人が玄関を上がる足音が近付いてきた。
逃げる間もなく襖が開かれ、赤也は体勢を崩してしまう。
「うわっっ!吃驚したっ!大丈夫か?」
「す…すんませんっ」
襖を開けた赤髪の少年は突然倒れこんだ赤也に驚いたように目を見開き、しゃがみ込んで手を差し出す。
赤也はその手を借りず、自分で立ち上がった。
「大丈夫っス!!」
「そか?お前が赤也だよな?俺ブン太な!シクヨロ!!」
真っ赤な髪を揺らし、凛とはまた違った無邪気な笑みを向けられる。
それを見て赤也も自然と笑みが零れた。
「俺は仁王じゃ。よろしくな赤也」
ブン太のすぐ後ろにやってきた銀髪の男も挨拶するが、ブン太と違い唇を薄く上げるだけの皮肉ったような笑みを浮かべる。
鋭い視線だが嫌な気分にはならない。
どこか飄々としていて掴みどころのない男だと赤也は頭を下げながら思う。
逆にブン太は明るい雰囲気で人好きする笑顔を絶やさない。
対極にいるようで、派手な容姿は似ている。
赤也は二人の顔をまじまじと眺めた。
そんな赤也の様子に、柳は改めて二人を紹介した。
「この二人はな、昔この見世にいた事があったんだ。その頃からの友人だ」
「俺だって昔はここの花蕾だったんだぜ」
「えっ…!」
驚き目を見開く赤也にブン太はすぐ不機嫌な表情を向ける。
「んっだよその顔はー意外だって言いたいのか?」
「いや…」
ブン太からは凛と同じような空気を感じていたので意外ではない。
意外ではないにせよ、相応しいとも言えない。
赤也は口篭り柳に助けを求めるように視線を向けた。
「茶の用意を頼んでくるからお前はここで二人を持て成してやってくれ」
「…俺が…!」
行きますと、赤也が言うよりも先に、柳はすでに厨に続く階段下の扉から消えてしまった。
初対面の人間といきなりこんな風に置いていかれ、どうすれば解らないと赤也はうろたえる。
だが二人はかつての自宅である見世など勝手知ったるもの。
隅に置いてあった座敷机と座布団を用意し始めた。
「どした?赤也。こっち来いよ」
「…っス!」
ブン太に手招きされ、赤也は慌てて用意された座布団に座った。
ちらりちらりと視線を寄越す赤也に、ブン太は笑った。
「そんなに俺らの髪色が珍しいか?」
「あっ…いやその…」
うろうろと泳ぐ目を見て仁王も笑った。
「ここは四聖じゃ。色んな奴がおるぜよ」
「良くも悪くも堀の外と中じゃ別世界ってな」
二人の言葉通りだと赤也は思った。
この四季にやってきてから柳の使いで何度か街を歩き回ったが、本当に様々な人がいた。
堀の外では鎖国だキリスト教徒迫害断絶だと大騒ぎしているが、そんなものはどこ吹く風。
洋装の者が普通に街を闊歩し、青い目をした者が娑婆では見た事もないような道具を売っている。
この四聖鹿鳴という場所は、この日本において日本でない、無法地帯であり治外法権の場所であった。
だが、だからこそ厳しい掟で守られていた。
赤也がここに来た日に締め出されそうになったのもその所為だ。
そんな街の、様々の一角である二人は見た目に反してとても友好的で初対面である赤也にも臆せず話しかけてくる。
「俺らお前に会うの楽しみにしてたんだぜ」
「そうなんっスか?」
「こいつとソックリだって柳に聞いてたからな」
ブン太は青也を抱き上げけらけらと笑った。
むっと表情を不機嫌にする赤也にブン太の笑いがますます勢いづく。
仁王は表情には出さないものの、腹の中では笑っているのか緩みそうな口元を押さえている。
「俺はこいつが嫌いなんです!何でか解んねーけど俺にだけ懐かねぇし!!」
「そーなのか?うちにいた頃は大人しくて誰にも懐いてたぜ?」
「ホントっスよ!見て下さいよこれ!さっき掴まえようとしたとき引っかかれた傷!!」
「お前こいつの飯横取りでもしたんじゃねぇの?」
「んなわけないでしょう!!」
元々人見知りを知らないブン太相手に心を開かない者は少ない。
警戒心剥き出しであった赤也も負けじと応戦しているうちに自然と会話が弾む。
そんな様子を見ながら仁王は不思議に思った。
何故あの柳がこの者を側に置こうと決めたのかを。
それはブン太も同じだったらしく、笑うのを止めるとそれを口にする。
「お前さ、今柳の唖手やってんだよな?」
「へ?あ、はい」
「んじゃこいつの後輩だ」
ブン太は笑って仁王を指差す。
その瞬間様々な思いが赤也の頭を駆け巡った。
自分は柳がもう手は持たない、と言ってから初めての唖手である事を考えて、この人物が何か鍵を握っているのかもしれない。
そんな赤也の考えは全て顔に出ていた為仁王は笑ってそれを否定した。
「あー俺やない俺やない。柳が見世辞めようとしたんは俺がここ出たずっと後の話じゃ」
「お前何っの役にも立ってなかったし、唖手じゃなかっただろ。ヒモよりタチ悪ぃよな」
「随分な言われようだな、仁王」
襖を開きっ放しで話し込んでいると、柳が入ってくる。
手にしている盆には茶と美しい菓子が乗っていた。
それを目にしたブン太は諸手を上げて喜んだ。
「っしゃー!鳳来堂の蓬莱!」
屋号と同じ名の付いた饅頭は門外不出の贈答用の一品で店頭で買えるものではない。
だが鳳来堂の主人が四季の、観月の上客であった為、この見世には常にこれが置かれていた。
甘い物に目が無かったブン太はいつもこれを美味そうに頬張る。
「ブン太は本当にこれが好きだな」
「おお!俺これ食いたくてここで花蕾やってたよーなもんだったし」
かつて見世いた頃も今のように両手に饅頭を持って幸せそうな顔で食べていたな、
と幼子のような様子に柳は懐かしそうに目を細めた。
「太るぜよ」
「るっせぇ!!」
ブン太は腹の肉を摘もうとする仁王の手を振り払い、頭を殴る。
そして顔も合わせず片手で叩き合いが始まった。
その様子にうろたえるのは赤也一人で、柳もブン太の膝に乗った青也ですら澄ました顔で知らん顔を決め込んでいる。
「赤也、気にするな。いつもの事だから」
「えっ…でも……」
子供の喧嘩のように叩き合う仁王とブン太、そして涼しい顔で茶をすする柳を交互に視線をやる。
次第に飽きたのか手が止まるのを見届け、柳が口を開いた。
「それより仁王。お前まだ仕事をしていないのか?」
「やってないも同然だ!ほっとんど家でゴロゴロしてるだけだし!」
「…プリッ」
仁王が答えるよりも前にブン太が座卓を叩きながら抗議する。
「ならばもう一度この見世で働かないか?」
「何じゃいきなり」
「こいつに色々と見世の仕事を教えてやってほしい」
「俺?!」
いきなり話の矛先を向けられ、赤也が驚いたように声を上げる。
「今までは寛や天根が面倒を見てくれたりしていたんだが、あいつらも忙しいからな…」
「いくらでも使ってやってくれ、柳」
「何でお前が返事するんじゃ…」
当の本人である仁王を無視してまるで自分の事のように言うブン太に呆れた声を上げる。
その様子に赤也はこの二人がとても親しい仲なのだと感じた。
「ま、断る理由もないがのぅ。他ならぬお前さんの頼みじゃ」
「恩にきるぞ。ほら赤也も礼を」
「あっありがとうございます!よろしくっス!!」
「こちらこそよろしゅう頼むな、赤也」
初見の印象ではあまり取っ付き易そうな雰囲気はなかったが、悪い人ではないのだと赤也は思った。
話の流れから判断して、ブン太も仁王も柳に相当の思い入れや恩があるようだ。
暫く他愛も無い話をした後、二人は帰っていった。
その話の中で、赤也は自分の知らない柳の一面を知る事となった。
見世の者誰もに慕われ面倒見が良さそうに見えるが、元来面倒臭がりやで物臭なのだと言ってブン太が笑う。
それに赤也は酷く驚いた。
華の筆頭として皆の事をよく見てやっているからだ。
しかし慣れた相手であれば遠慮なく手を抜こうとする。
だからその辺も含めしっかりと支えてやってくれと頼まれたのだった。

++++++++++++++

翌日より仁王が再び見世に戻る事となった。
かつて働いていた場所という事もあり、すぐに見世の者も馴染み受け入れた。
尤も、昔から居座るだけでさして真面目に働いてもいなかった為か、誰も仁王に対して仕事を期待する事はなかった。
しかし柳生だけは容赦なく用事を言いつけ、遠慮なくこき使っている。
仁王の方も柳生には頭が上がらないようで、文句を垂れつつ言う事を聞いていた。
薄い硝子に阻まれていて柳生の素顔はあまり見る事が叶わないが、鋭い印象の輪郭をした面容はよく似ている。
縁のある者なのだろうかと思い、赤也は柳に尋ねてみた。
あの二人は兄弟か何かなんだろうか、と。
すると柳は意外そうに目を見張り、すぐにまた微笑みを湛える。
「お前、なかなか鋭いところがあるな」
「へ?」
意味を上手く汲み取れず目を丸くする赤也にそっと顔を近付けた。
そして大きな声で出来る話ではないからと言い、柳は赤也を手招きすぐ側の部屋に入った。
そこは誰の持ち物でもない部屋で、部屋遇いといって弐助より一つ頭の出る宴席を行う場所だ。
装飾の施され方は、むしろ柳の部屋よりも派手なのではと赤也は常々思っていた。
過剰かと思えるほどに彩り豊かな部屋の窓を開け放ち、柳がその縁に座る。
極彩色の壁に柳の纏う薄い色の上品な小袖が逆に際立って見えた。
一枚の絵のような光景に赤也は未だ慣れない様子で息を飲む。
「お前の言う通り、仁王と柳生は兄弟だ」
それが何故大きな声で言えない、人に知られてはならない内容なのだろうと不思議に思いつつ、柳の口から出る次の言葉を待つ。
「柳生の父親の囲い者だったのが仁王の母親だ」
「…腹違いって事っスか?」
「ああ、仁王は柳生の存在を早くから知っていたようだが…柳生は全く知らなかったらしい。
事実を知った時は相当に衝動を受けて…それでこの街にやってきたんだ」
生真面目な柳生にとって父親の不貞は到底許せる範疇を越えていた。
しかしそれは仁王には何の罪もなく、むしろ父が他所に子を作りながら全く母子に援助をしなかった事を面責した。
そしてこの街にやってきてしばらくは別の大店で働いていたが、その手腕を買われ、この店に引き抜かれたのだ。
その後、髪色の抜ける奇病にかかった仁王は娑婆で生きる事ができなくなり、柳生を頼りこの街にやってきた。
ただならぬ様相に、娑婆の者たちは何か悪い流行り病ではないかと囃したて差別したが、
金銀に光る髪をした異人たちが日常的に行き交うこの街は仁王を無条件に受け入れた。
柳生もすぐには受け入れる事は難しかったが、どこか憎めない飄々とした様子に次第に感化されていった。
「そういう経緯があるからな、仁王はなかなか柳生に頭が上がらないらしい」
「そうだったんっスか…けど柳生さんも時々振り回されてるように見えるっス」
「それは何をしたのか知らんが…仁王は何やら弱味を握っているそうだ」
口に手を当てながらおかしそうにくすくすと笑いを漏らす様子に、この様子からしてそれが何かを知っているのだなと赤也は思った。
その小さな笑い声を裂く様に、俄かに表が騒がしくなる。
窓の外、玄関のある方からは大きな鉦の音がした。
表で祭りでもあるのかと目を白黒させる赤也に、柳は肩を叩きながら言った。
「お待ちかねの奴のお戻りだ」
「は?…え?もしかして……亭主の?」
「ああ。幸村精市。この四聖鹿鳴の覇王と…この街では右に出るものなしと呼ばれている男だ。心してかからんと五感を奪われるぞ」
「えっっ!!?」
先に寛に聞かされていたとはいえ、柳の口から出ると更に信憑性が増す。
一体どんな怖ろしい人物なのだと赤也は背筋を伝う冷たい汗に身震いをした。
「フッ……案ずるな。俺は精市を良く知っている。お前はあいつに嫌われるような性格ではない、絶対に」
「そ…そうっスか……けど…気合入れとくっス」
「そうだな。非礼と不義理を許さん奴だから、それだけは注意しろ」
「…ういっス」
そして赤也は柳に連れられ廊下に出た。
畳敷きの廊下の両脇に花蕾も萌芽も、華も唖手もその他の使用人たちも全て出揃っているのではないかと思う程に皆一様に正座をしている。
その面々は柳が出ると一斉に頭を下げる。
柳もそれに一礼を返すと真っ直ぐに玄関に向けて歩き出した。
赤也はそれを追いかけ柳が姿勢を正し、正座をした玄関に一番近い場所、そのすぐ斜め後ろに同じように座る。
暫くすると玄関の扉が重い音を立てて開いた。
「亭主殿のお戻りでございます!!」
屈強な立ち番の男が道を開けると一人の男が戸を潜って入ってくる。
全員が畳に額を付けるのを見て、赤也は慌てて頭を下げた。
まだ顔を見る事は叶わないが一瞬で空気が変わるのが解った。
緊張感が見世中を巡るのを肌で感じる。
それを割くように心臓の音に混じり、静かな声が聞こえた。
「ただいま。皆、顔上げて」
思っていたより女性的な、柔らかい声が降り注ぎ、周囲に布の擦れる音がして皆顔を上げたのだと解る。
赤也もその流れに乗り、そっと視線を上げた。
「おかえり、精市」
「ただいま蓮二。留守中変わりはなかった?」
前を座る柳と話をする亭主、幸村精市。
誰もが畏怖の念を抱き、そしてこの街の王と呼ばれ時の支配者の運命すらをも左右する人物。
その人がついに目の前に現れた。
一体どのような鬼が来るのかと構えていたというのに、存外に相手は声の印象そのままの柔らかい印象の男だった。
それに呆気を取られ、顔を凝視していると不意に目が合い、慌てて頭を下げる。
「……あったみたいだね」
「ああ」
「その話は後でゆっくり聞くから」
柳の返事の後、幸村は一旦戸に視線を戻すとそこにいた少年を手招きした。
そして隣に立たせると静かに言い放つ。
「皆、今日から新しく見世に入る…いや、復帰って言った方がいいかな。淳だ」
「また…よろしくお願いします」
頭上からする声にそろそろと顔を上げると、誰かによく似た、否、同じ顔があった。
見えるのは横顔であるが間違いない。
赤也は持ち部屋の前に座るその人に視線を向けた。
「淳!」
淳と同じ顔をした亮が立ち上がり嬉しそうに近付くのを合図に、他の華たちも次々に玄関へと歩み寄る。
「おかえり」
「…うん」
幸村の言葉とそれぞれが歓迎の言葉を投げかけているところを見て、彼が以前この店にいたことは解った。
そして亮と双子であるという事も解った。
しかしその輪に入れるわけでもなく、赤也は少し離れた場所から見上げるだけだった。
後で柳が教えてくれるだろうと思い、先に部屋に戻ろうかと立ち上がったところで柳に呼び止められる。
「赤也、おいで」
「何っスか?」
輪の中から手招きされ、恐る恐ると近付くと亮と良く似た瞳が赤也に向けられる。
顔は同じ造りだが背中半分を隠す程の四方髪の亮と違い、淳の髪は肩にかかる程度。
しかし前髪が長く些か暗い雰囲気がある。
淳は柳の隣で伺うように近付く赤也の顔を見つめた。
「彼は亮と双生の弟で…淳だ」
「赤也です!よろしくお願いします!」
印象良く、なるべく明るく心がけ淳に挨拶するも、相手はすぐ柳に驚いたように視線を戻した。
「え…仁王は?」
「ああ、そうか…お前が離職した時はまだ奴がいたか。仁王は法度を犯した由で解雇してやったんだ。今はまた別口でこの見世にいるがな…」
「そうなんだ……よろしく、赤也」
戸惑いは一瞬だった。すぐに淳は亮達に向けていたものと同じだけの笑顔を赤也に向けた。
顔も雰囲気も瓜二つだが、亮よりもその笑顔は幼い印象がある。
何故彼がこの店を離れ、再びこの見世にやってきたかは解らないが、軽く言葉を交わしただけで他の者と同じだけの心根なのだろう事は赤也にも解った。
だが本番はこれからだ。
厨に続く扉の前で微笑んでる、その人。
柳と話している今は穏やかな雰囲気で、とてもこの街の覇王と呼ばれるような人物には思えない。
しかし、この人が見世に入った瞬間、言いようのない空気が走ったのは確かだ。
極度の緊張、恐怖、様々な感情が廊下を駆けめぐった。
幸村は笑顔で何やら大きな包みを柳に渡している。
盛大にうらやましがっている凛の様子からして土産物なのだろう。
なるほど、と赤也は納得した。
他の華たちとは一線画した扱いを受けているのは確かなようだ。
柳以外の者には一律小さな包みを渡しただけだった。
ぼんやりとそのやり取りを眺めていると、柳は幸村から受け取った包みを手に部屋の方へと歩いて行ってしまった。
慌てて追いかけようとするが、振り返ったところで肩を叩かれる。
「ちょっと待った」
「え?」
「君は?さっき、蓮二と一緒にいたみたいだけど?」
「あっ!えっと、あの、俺っ…」
どう説明すればよいものか、赤也が逡巡していると、横から凛の助け船が出た。
「迷い犬。紅橋で柳が拾ってきたんだよ」
果たしてそれが助けであるかは甚だ疑問ではあるものの、幸村は納得したらしく、何だそんな事かと頷いた。
「ふーん…ちょっとこっち来て」
「はっはいっ!」
玄関からすぐ側の部屋に入るように言われ、赤也は極度の緊張で体がこわばった。
一体何をされるのか、言われるのか、と警戒心を丸出しにしていると、幸村はおかしそうに笑い始めた。
「そんな顔するなよ。別に何もしないから」
「は…はあ…」
そうは言っているが、目の奥で光ものは鋭く相手を萎縮させるものだ。
赤也は背筋を伸ばし、気合を入れ直して幸村の目を見返した。
「名前は?」
「あ、赤也…赤也っス」
「そう。俺の事は知ってるだろうけど…一応名乗るのが礼儀だよね。この四季の亭主、幸村精市です。よろしくね、赤也」
「こ、こちらこそよろしくお願いします!!」
勢いよく頭を下げると、今度は声を上げて笑い始めた。
「だからそんなに硬くなるなって」
「あの、けど……初めましてだし、それにこの見世で一番えらい人だって思うと…」
つい無意識に態度が硬くなってしまう。
それは他の誰とも同じ事だと思っていたが、幸村はそれを穏やかに否定した。
「赤也、確かに俺はこの見世の亭主だが…そんな俺でも手出しできない役職があるんだ」
「え…?」
「華が自ら望んで側に置いている唖手だけは俺がいくら権力を振りかざそうと解雇できないんだよ」
それはつまり、彼が気に入ろうが気に入らなかろうが柳に囲われている間は何があっても大丈夫だという事なのだろうかと赤也は少し体から力を抜いた。
しかし次の瞬間目に入ったのは幸村の身の毛もよだつ程冷たい視線だった。
「…それで?お前はいつあいつを捨ててここを出るんだ?」
「……へ?」
「どうやって蓮二に取り入ってここに来たのかは知らないけど…もしあいつを傷つけるような真似をするなら俺は容赦しない。
今すぐここを叩き出してこの街に居られなくしてやる」
何かとんでもない誤解をされている。
赤也は慌てて否定した。
「取り入ろうなんてっ…!」
「随分上手くやったもんだな。蓮二の加護欲を利用したのか?」
「違いますって!俺ほんとに――!!」
「今まで蓮二には三人の唖手がいたが、皆あいつの地位や見返りのない優しさを利用するだけ利用して、あいつを捨ててここを出ていった。
お前もそのつもりなんだろう?」
はっきりと違うと言ってやりたかった。だが、この誤解もあながち間違えていない部分もあるのだ。
この見世に連れて来られた時、確かに考えていた。
どんな手を使ってでものし上がってやる、と。
だが今は少し心境に変化がある。
赤也は睨みつける幸村にひるまず、まっすぐに睨み返した。
「嘘はつけねえから言うけど…確かに俺はここに来て、初めの頃はどんな手段使ってでものし上がってやるって考えてた…
…けど!今は拾ってくれたあの人に本気で感謝してるし、恩返しって訳じゃねえけど…せめて柳さんが俺をいらなくなる日までは側に居ようって思ってるっス!!」
「口ではどうとでも言えるだろう。せめて半年は我慢して奉仕する事だな。話はそれからだ」
それまでの冷たい瞳を溶かし、幸村はふっと笑いを漏らした。
そして赤也の頭を軽く小突くと部屋を出て行く。
しかし誤解されたままではたまらないと、赤也は慌てて襖を開け、背中に向けて叫んだ。
「あの!俺ほんとにあの人が誰だか解んないままここ連れて来られたんスよ!!」
「解っている。あいつもそんな馬鹿じゃない」
一体どういう意味なのだろう。幸村の残した不可解な言葉に気を取られているうちに、今度こそその場を立ち去った。

++++++++++++++++++++++++++++++

幸村はその足で柳の居る福寿草の間へと向かった。
柳の持ち部屋の中でもとりわけ質素な印象であまり宴席に使われないこの部屋が、実は柳一番のお気に入りだった。
襖の前で声をかけると、すぐに中から返事がある。
幸村が中に入ると部屋の主は茶を立てている最中だった。
「精市、お前もどうだ?」
「遠慮するよ。お前のお手前は俺には濃すぎる」
「そうか」
幸村は襖を支える柱にもたれかかり、おかしそうに笑いを漏らす。
その小さな声に柳は顔を上げた。
「どうした?」
「随分面白いものを拾ったんだな」
「…赤也か?」
「ああ。ちょっと揺さぶってやったけど、構わず噛みついてきたよ」
相変わらず笑いを漏らしながら楽しそうに言う姿に柳は顔をしかめる。
「あまりいじめてやるな」
「大丈夫だ。根性もありそうだし多少の事にはへこたれなさそうだし…それに裏表がない」
「気に入ったか?」
「ああ。いびり甲斐がある」
まるで意地の悪い小姑のような言い分に、柳も苦笑いを返した。
そして何事もなかったかのように茶を口にする。
二度三度と口をつけ、全てを喉に通した後器を懐紙で拭うのを見届けると幸村は部屋を出た。
部屋と廊下を仕切る襖は開けたままでぼんやりと部屋の前にたたずむ幸村を不思議に思い、柳も廊下へと出た。
そして視線の先に捉えているものに薄く笑いを浮かべる。
幸村が何を思っているかは手に取るように解る。
幼い頃から同じ物を食べ、同じ空気を吸い、いつも側にいた彼の存在は最早兄弟や友人などという言葉では片付けられず、体の一部のように感じるのだ。
幸村もそんな柳の心の内を読んだように微笑む。
「……今度こそ、あの部屋に入れられる存在になるといいな」
二人共に窓の外へと視線をやり、そしてもう一度見詰め合い微笑んだ。
「お前は幸せになる事をすぐに諦めようとするけど…大丈夫。神様はちゃんと蓮二の分も用意してるんだから」
「それを掴み取るか否かは…」
「全て自分次第だ。お前が望めばちゃんと……手に入る」
間もなくやってくる春の色を含み始めた風が、窓の外にある池の水面に波紋を描く。
幸村はそれを眺めながら手探りで柳の手を取ると、ぎゅっと握りしめた。


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