闇宵紫昏 一章 四季の華 2
柳が出て行った後、柳生は目の前の少年を信じられないといった表情で見下ろしていた。
頑なだった柳を、まるで寒さを拒む為堅く閉ざした冬の蕾のようだった柳を絆したというのだ。
どんな心境の変化を与えたというのか、この少年が。
「…あの?俺の顔…何かついてるっスか?」
「あ…いや、これは失礼…」
つい不躾に凝視してしまい、柳生は腰を折って詫びる。
「申し送れました。私はこの花小屋四季で金庫番をしている柳生比呂士といいます。以後宜しくお願いします」
「えっと…こちらこそ」
丁寧な挨拶に赤也も倣って頭を下げる。
「金庫番と言っても普段は雑務を請け負っていますので、何なりとおっしゃって下さい。
では部屋の案内をしながら見世の仕組みをお話しましょうか。今の時間なら他の華たちもいるでしょうから…」
「華ってあの人だけじゃないんっスか?」
「彼は冬色といって冬の華。この見世は"四季"ですから、他に春色、夏色、秋色といます」
柳生は今出てきたばかりの部屋の襖を開け放ち、赤也を中に促す。
「ここは椿。冬色専用のお部屋で伍間のうちの一つです。伍間続きとはその名の通り、部屋が五つあるという意味で…」
そこまで言うと一旦言葉を切り、庭に面した障子を開けて光を入れた。
先刻まで障子越しの光でしか見えなかったが、壁に描かれた絵が赤也の目に飛び込んだ。
深い艶のある緑に血のように赤い椿の花が鮮やかに映えている。
「この見世では部屋の数が多い程位が上で、今は部屋五つの冬色が最高位です。
まぁ位といっても女郎屋における太夫や天神のような正式なものではありません。
この見世にしか通用しない言い方ですが見世自体が高名ですからね…
この見世でお職をはれるという事は、すなわちそれだけの高位だという事です」
「偉いって事っスか?」
「もちろん。お武家大名大商人たる著名の士…時には将軍家の御座敷にも上がりますから」
雲の上の話だ、と赤也の脳に柳生の声が染み付く。
とても付いていけそうな雰囲気ではない。
何でもやる、とは言ったものの、今になって少し不安になる。
そんな赤也の不安などどこ吹く風、柳生は淡々と説明を続ける。
「華のお部屋の隣は全て控えの間になっています。お世話の者か手の者を必ず一人置く事になっていて、
彼らが座敷に上がって接待している間ここで待機するんです。まあ雑用係ですね。
雑用と言ってもやる事は沢山ありますよ。席の準備から片付けまで全て仕事のうちですから」
椿の大きく描かれた壁の正面は山水画の襖があって、そこを開ければ半畳敷きが八枚連なる小さな部屋があった。
狭い場所ではあるが、あらゆる物が揃っている。
部屋の隅には衣桁があり、柳の物と思われる豪奢な打掛がかかっていた。
長持が二つ、桐の箪笥が一つあり、それだけで部屋は圧迫感に襲われている。
「次に行きましょうか」
再び廊下に出て、隣の木戸を柳生が二度叩く。
中から間延びした気合の入らない声がするのを聞いてから静かに開いた。
「失礼します」
「おー柳生ーどーした?こんな時間に。まだ見世は開いてねぇぞー」
金色の髪に浅黒い褐色の肌、深紅の派手な花柄の着物を纏った男が、縁のない半畳の畳が敷き詰められた部屋の中央に寝転んでいる。
今度こそ異人だ、と赤也は目を見張った。
「凛君。だらしないですよ。いくら人前ではないとはいえお職の華が…」
「はいはいっと…あー…やーはあっちのヒロシより五月蝿い」
凛、と呼ばれた派手な男は柳生に睨まれ足に反動をつけて起き上がり、部屋の隅を指差した。
他に人がいたのかと赤也は目をやった。
凛の物であろう簪や櫛を綺麗な蒔絵の箱に片付けている男が目に入る。
彼も凛と同じように褐色の肌だが、藍型の渋い着物を身につけている。
立ち上がると驚くほど身丈があり、赤也は思わず仰け反った。
明るい凛の雰囲気と対照的で、寡黙な分些かの不気味さすら孕む男だ。
「な!柳生。そいつは?新しい萌芽か?また珍しい毛色の雇ったんだな」
「いえ…その……柳君の…新しい手の者らしいのですが…」
「何ーっっ?!柳の?!」
声を上げた凛だけでなく、寛も目を見開いて驚いている。
誤魔化すように手を振り柳生が慌てて言い訳を始めた。
「私もまだちゃんと話を聞いた訳ではないので何とも……ただの気紛れではないと思いますが…」
ちらりちらりと目を赤也にやりながら、落ち着きなく目を泳がせる。
一体何なのだと不機嫌な顔を隠さない赤也に気付いた凛が立ち上がり近付く。
頭の天辺から爪先まで値踏みするようにじっくりと見られ、ますます赤也の機嫌が悪くなる。
だが次の瞬間、全くの邪気も含まない笑顔を向けられ赤也は肩の力が抜ける思いだった。
「ん!よし!ごーかく!」
「は?」
凛は赤也の肩をぽんぽん、と二度叩きもう一度笑顔を見せる。
「柳生、こいつ悪い奴じゃないって。柳もそれ見抜いて側に置くって決めたんだろ」
「はあ…まあ貴方の人を見る目は確かですが……」
まだ小言が続きそうな雰囲気を断ち切るように凛は赤也に向き直る。
「お前、名前は?」
「えと…赤也です」
「そっか。俺は凛。よろしくな。こいつは寛。解んない事あったらこいつ使っていいから」
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
二人に頭を下げて挨拶を済ませると、柳生に連れられ次へと向かう。
長く曲がりくねる廊下に沿うように部屋が並んでいて、先刻の椿の間のように花の描かれた壁のある部屋が並んでいる。
そのうちの福寿草、南天、牡丹は冬色の持ち部屋だった。
客の望む間で宴を催したり、芸事を披露するのが華の仕事。
この見世には華の他にも花蕾たちが接待する少し格の下がるお席も用意されているが、それらは決まって共用の座敷でする為、
部屋を持つ事は華だけに許された特権だった。
そしてその部屋で接待を受ける事が、京の街では上流階級の一種社会的地位を示すものとなっていた。
どの華に、どのお席を受持ってもらったと、皆こぞって自慢し合うのだ。
相当数の部屋があり、迷子になりそうな程広大な見世には、広い庭面して回廊のある部屋がいくつもある。
そしてそこから続くように渡り廊下があった。
黒光りするそれは長く雨曝しにされた古い物と解る。
渡り切るとその先は別棟になっていて、離れのような扱いになっていた。
だが離れといっても広さは普通の家の三倍はある。
「ここは華たちの私室があります。貴方もここに住む事になりますから」
「え?さっきの凛って人は?」
「ああ…彼のお気に入りの場所なんですよ、先刻の物置は。見世に出ない間はよくあそこで遊んでいるんです」
あれが物置なのか、と、もう驚きの声も出ない。
前に住んでいた長屋の一間と変わらないが、同じ様な境遇の者と相部屋だった。
「彼は琉球王国出身なので半畳敷きのあの部屋が落ち着くのでしょう」
「琉球…ってどこ?」
赤也も名前だけは聞いた事があったがその実態は何も知らない未知の世界だ。
「海を渡った先にある遠い国です。ここは四聖。洋の東西を問わず美男美女が集まる街ですから」
やはり異人だったのかと、赤也は自分とは違う風貌の凛を頭に浮かべる。
そういえば寛と聞き慣れない言葉で話していた。
だが他の者には着れない様な派手な着物も、見た事もないような美しい金糸のような髪も、とてもよく似合っていた。
今まで生きてきた中で会った事も見た事もないような人が、この見世には沢山いて先程から高揚しきっている。
まるで大切な物を詰めた葛籠を開けたようだと赤也は思った。
「廊下を渡りきってすぐの間は空き部屋になっていて、特に誰の物にもなっていません。
今は主に華たちが憩うのに使うだけですかね。一番奥にあるのが冬色の私室です。
先に他の者に挨拶に参りましょう。私室は柳君に連れて行って貰って下さい」
別棟になったこの離れはどの部屋も庭に面していて、華がこの見世でどれだけ大切にされているかが解る。
母屋と違い、鰻の寝床の如く壁に面して細い廊下があり、部屋が四つ隣り合わせに並んでいた。
だが隣り、と言っても一間一間がとても広く次の襖がえらく遠くに感じる。
空き部屋を過ぎようとしたが、そこから話し声がする。
足を止め柳生が襖の柱を二度叩くと、凛の時とは違いきちんと通った声が返ってきた。
「失礼します」
「おや柳生君」
六畳ほどの部屋で碁盤を挟み、二人が睨み合っていたが、音もなく開く襖の向こうに立つ柳生に視線が集まる。
向かって左側に座っている濡れたような艶を持った癖毛の方が立ち上がろうとするが、柳生が手でそれを制する。
「ああ、そのままで。亮君もご一緒だったのですね」
「うん。碁の相手してもらってた」
もう一人が絹のような漆黒の長い髪を揺らし整った涼しげな顔をにこりと崩した。
「何かご用でも?」
「新しく人が入ったので紹介に上がりました。入ってもよろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」
許しが出たので、柳生は半分だけ開けていた襖を全て開け放ち、廊下に立っていた赤也を促した。
部屋の中にいた二人も襖の方に体を向けて座り直す。
「彼は赤也といいます。その……先程突然柳君が手の者にすると連れてきて…」
「は?!」
「何ですって?!」
先刻、凛と寛が見せたものと同じ様な驚愕の表情を見せられ、赤也も流石に戸惑いをみせる。
一体何があるというのだろう、と。
「本っ当ーに彼がそう言っていたんですか?」
「え…ええ…」
「では彼はここを続けるというのですね?!」
「そのつもりかと…」
いきなり立ち上がり、必死の形相で詰め寄る男に些か顔を引きつらせた柳生が落ち着けと手で抑えた。
すると今度は赤也の方を向き直った。
そして赤也の顔を覗き込むようにして手を祈るように組む。
「よかった…本当によかった……君がどこのどなたかは存じませんが感謝しますよ」
「は…はあ…?」
全く言葉の意味が解らず、目を白黒させながら赤也はぎゅっと組まれた真っ白な指先から顔に目を移す。
女もこの店にいるのか、と。綺麗な少女だと赤也は思った。
濡れたように艶のある深い栗色の癖のある髪に猫のようにきつい大きな瞳がくりくりと動く。
「僕は観月。この見世の春色です」
「は…はい…あの…赤也っス……」
女ではなく、女の様な男、であった。
首からは堀の外では禁止されている十字架を下げているが、この街では異端者扱いは受けないのだろう。
「あちらの彼が秋色の亮君です」
「よろしくな。俺もここでは新入りだから、一緒に頑張ろうぜ」
こちらも声を聞くまでは性別を疑うほどの美貌の持ち主だ。
「彼らを合わせて"四色の華"【ししきのはな】と呼ばれています。この見世が誇る艶華【あでばな】たちですよ」
柳生にそう言われ、赤也は今ここにいない二人を頭に置き、もう一度目の前の華に目をやる。
この四人が揃う様はさぞや壮観であろう事は想像に易い。
赤也は彼らの持つ雰囲気に完全に飲まれていた。
今までの地獄の様な日々を思えば極楽であろう。
だが、あまりに浮世離れしたこの見世に違う意味で苦労しそうだと、気合を入れるべく一つ大きく深呼吸した。
++++++++++++++
一通りの案内を終わり、柳生は母屋に赤也を連れ帰り、玄関から一番近い通しの間で一服する事にした。
互いに色々と聞きたい事が積もっていたので、これ幸いと話を切り出す。
柳生は何を思い柳がここに彼を連れてきたのか、興味があった為、まずその旨を聞き出した。
「では先程紅大門で初めて柳君に会ったのですか?」
「そうっス…他の見世を世話してやってもいいけど、その…お前を気に入ったから俺の手の者にならないかって言われて…」
「そうですか…」
これは本人にのみぞ解る心の内であろう。
そう思い、柳生はそれ以上の追究を止めた。
すると今度は赤也から問いを投げかけられる。
「あの…さっきなんであの人たちあんな変な反応だったんっスか?俺、手の者って言われても何かよく解ってなくて…」
「手の者…というのは……ただの華の世話係とは一線隔した存在です」
「だから?」
回りくどい説明では解らない。
ただでさえこの見世独特の言い回しが多く、それを理解するので精一杯なのだ。
赤也は表情を歪め、更に言葉の先を求めた。
「華が物言わぬ手足として常に側に置く存在…それが手の者、唖手です」
「あしゅ?」
「華たちは唖手の注ぐ無心の愛があってこそ咲き誇る。絶対の忠誠を誓い、
華がたとえ誰に買われようと変わらぬ愛を注ぎ、華たちの心の支えであり続けるのです」
「家来…って事?従僕って事か?」
「いえ、その…まあ…そうですね…彼の場合少し特別といいますか……」
言い辛そうに口を噤む様子に、もしや先刻の様子と関係があるのでは、と思う。
「色々ありまして…もう手を持たない、見世も辞めるかもしれないと亭主に話していたのですが……彼はこの見世唯一の松の位。
すぐに辞めさせるわけにもいかないので暇を取らせて一度ゆっくり休養するように言っていたのです。
そんな矢先に君を連れ帰ったものですから皆あのような反応をしていたのですよ。…すみません、皆の失礼な態度をお詫びします」
「あ、いや…それは別に……いいんっスけど…何で」
「理由は聞かないであげて下さいね。彼が自分で話せるまで…」
物言わぬ手足、というのはそういう意味もあるのだ。
常に華に気を配り、心の限りを尽くす。
何故柳がその役割を赤也に与えたのか柳生には解らない。
だが今はその理由を探るより、柳がこの見世に残るという事実の方が勝る。
余計な事をして拗れさせてはならない。
そう思い、柳生はここでその話題を打ち切った。
「ところで赤也君は何か特技などはあるのですか?」
「喧嘩?」
間髪入れずそう答える赤也にがっくりと肩を落とす。
「…あの…そういうものではなく……何か芸事の役に立ちそうなものは?」
「そんな暇も金も自由もねぇし」
「そうですか…でもこれから柳君について色々と教わればいいですよ。彼はあらゆる芸事に精通した方ですから」
「芸事ってどんな事するんスか?踊りとか三味線とか?」
「ええ、そういうお座敷芸はもちろん、碁、書画、茶華道、香道、歌なども…
華は色々な方を接待するので見た目だけでは務まりません。…まあ…特例もいますが……」
柳生が目を逸らし眼鏡をわざとらしく指で掛け直す。
赤也にも一人思いつく者があった。
物置でだらしなく横たわっていた人物。
彼に違いないと名を声に出せば、柳生も黙って頷く。
「………彼のように一芸に秀でている者も…まぁ上手く世渡りすれば生き残れます。彼は踊りと三線の名手ですから…
観月君は歌の、亮君は碁と舞いの名手です。殊舞いに関しては、上総の国では右に出る者なしと謳われている程でして、幸村君がわざわざ彼を引き抜きに行った程なのですよ」
「ふーん…何か色んな人がいるんっスね、ここ」
「私もまだここに勤めて二年足らずですが…本当に興味深いです。でも皆心意気の良い者ばかりですからすぐに慣れますよ」
「あ、はいっ!よろしくお願いします!!」
物怖じしない、この明るい雰囲気も柳の心を掴んだのかもしれない。
柳生はそう思い、笑顔で頭を下げる少年を目を細めて眺めた。
その時、玄関から鈴の音がする。
「冬色のお帰りですね」
「え?」
「出迎えも貴方の役目ですよ。さあ参りましょう」
立ち上がり襖から出て行く柳生について行くと、猫を抱いた柳が玄関に立っていた。
「お帰りなさい柳君」
「おっ…おかえりなさいっ」
「ただいま」
思いがけず赤也の出迎えを受け、柳はあまり見せないはっきりとした笑みを見せる。
その様子に、柳生は彼を連れ帰ったのがただの気紛れでなかった事を確信した。
「それがブン太君の言っていた猫ですか?」
「ああ。可愛いだろう?」
打掛にくるんでいた猫を玄関に下ろすが、大人しいそれはそのまま走っていくような事はせず、じっと柳の顔を見上げたままだ。
「本当に。大人しくていい子です」
柳生が指の腹で喉を撫でると、ぐるぐると鳴らして目を細めて喜ぶ。
だが同じように赤也が手を伸ばそうとすると、さっと身を翻し柳の元へと行ってしまう。
足下に垂らした内掛の裾に隠れるように潜り込み出てこようとしない。
「……同属嫌悪か?」
「は?」
「ほら、出て来い」
つい、ついと裾を広げると漸く顔を覗かせる。
柳は片手で猫を抱き上げ、赤也に向けて突き出した。
「青也だ。仲良くしてくれ」
「青…っ……ええっ?!」
「やっ…柳君それって」
「似てるだろう?」
柳生は赤也と青也の顔を見比べ思わず吹き出してしまった。
毛の巻き具合も強い光を放つ吊り気味の瞳も、確かに似ている。
だが赤也に睨み上げられ、柳生は咳払いをしてそれを誤魔化す。
「失礼……」
「腹が減っているだろうから何か食べさせてやってくれ」
「解りました。あ、凡そですが見世の案内はしておきましたので」
「ああ、ありがとう。では部屋に戻ろうか」
土に汚れた打掛と青也を柳生に手渡し、柳は赤也を連れて部屋に戻った。
++++++++++++++
初めて入る柳の部屋は想像とは違い、閑散とした場所だった。
見世の持ち部屋が艶やかだった為、余計にそう感じるのかもしれない。
襖を開けた瞬間、赤也はそう思った。
土色の壁には何の飾りも無く、床の間には深い鳶色をした壷が置かれているだけ。
衣桁が部屋の隅にあるが、何も掛けられていない。
上座に角火鉢、あとは柳が普段使っているであろう厚みのある座布団が一枚その前に置かれているだけだ。
廊下から見た時は広い部屋のように見えたが、中に入れば十二畳ほどの空間があるだけだった。
だが部屋を区切るように襖が四枚連なっているところから察するに、一間を無理に二つにしているのだ。
「意外と物が少ない、と思ったか?」
「あ、いや…はあ……」
「俺の物は全て次の間に置いてあるんだ。今日からお前の部屋になるから荷物を動かすのを手伝ってくれ」
柳が部屋の真ん中を仕切る襖を開けると、続きの四畳が現れた。
襖を取り払えば一間として使えるのだろう。
次の間には廊下からは出入できない。
だから外から見た時は一間で広く感じたのだ。
「箪笥や長持までは動かせないな」
「いや、俺寝る場所さえあればいいんで!このままで充分っス!」
赤也の言葉通り、部屋の中央には家財の置かれていない空間が一畳分ほどある。
だが部屋の三方は荷物が積みあがっている。
この圧迫感のある室内で日常を過ごすには些か抵抗があるだろう。
そう思い柳は眉を顰めた。
「そうか?しかし狭いだろう…」
「全然っ!前住んでた部屋なんてこんなもんじゃなかったし」
「それなら明日からでも少しずつ運び出すか…そろそろ見世に出る仕度をせねば」
窓の外では夕刻を知らせる鐘の音が鳴っている。
今日の客が誰なのかは頭に入っている。
皆自分の客ではないが、暫く店を離れていた事に対しての詫びと、これからも見世を続けると挨拶しなければならないだろう。
柳は箪笥から着物の包まれた畳紙を二つ、それから帯や小物を取り出した。
しかし意外な光景を目撃し、思わず手を止める。
赤也がそれらの小物類を着付けしやすいよう使う順に並べ始めたのだ。
「赤也…お前…」
「へ?あ、すんません勝手にっ…触っちゃ駄目でしたか?!」
「いや、違う!そのままで」
慌てて手を離し、折角並べたばかりの帯紐や飾り紐を片そうとするのを制する。
市井ではとんと目に掛からないであろう、花街特有の艶やかな着物。
庶民の、しかも男の赤也が着付けられるとなれば今まで何をしていたのかが見えてきた。
「お前、このような着物を着付けれるのか?」
「あ、はい一応……俺呉服商家にいたんで…家の手伝いとは別に色々させられてて…それで覚えたんっス」
「そうだったのか。何も出来ないなどと謙遜するな。立派な特技ではないか」
「え?…あ…今まで……出来て当たり前で…出来なきゃすっげー怒られてたから…何か褒められると変な感じがする…」
褒められる事に慣れていない赤也は照れながらも嬉しそうにはにかむ。
「では手伝ってくれるか?一人では着れんからな」
「はいっ」
初仕事だ、と俄然張り切り赤也は畳紙から色鮮やかな小袖を取り出した。
帯を締めるまでは柳一人でも出来る。
だが赤也の補助は的確で、いつもの半分以下の時間で着付けれた。
余程厳しくされてきたのだろう。
それらは一寸の狂いもなく並べられ、絶妙の頃合に次々と紐を手渡される。
「…赤也。そんなにきっちりしなくても大丈夫だ」
「すいません…やり難いっスか?」
「いや、凄くやり易い。だがお前…そんなに気を使ってばかりでは疲れるぞ」
「これが普通なんで平気っスよ。それに俺丈夫なんで多少の無理なんて全然堪えないんでどんどん使って下さい」
そんな赤也の手助けもあり、あっという間に準備は整った。
女の様に派手に化粧をするわけでも髪を整えるわけでもない。
だが艶やかな衣裳を纏うだけで雰囲気ががらりと変わった。
これが廓に棲む者の持つ力か、と赤也は息を飲んだ。
「見世での勝手も解らないだろうから暫くは誰か世話役をつけよう。その者に聞いて色々と仕事を覚えてくれ」
「わかったっス」
「柳君…っと失礼」
衣桁に掛けられていた打掛を羽織るのを手伝っていると、突然廊下側の襖が動いた。
いつも遠慮なく入るのだろう、声が掛かると同時にそれは開いた。
その先には観月が立っている。
すでに身支度を整えた状態だが、何か借りに来たのだろうかと柳が口を開く。
「どうした?」
観月は淡い桜色の小袖に金糸の流水紋が粋な打掛を翻し、部屋に入ってきた。
刹那、部屋の雰囲気が明るくなる。
冬の凛とした空気、そして春の柔らかい空気が同居する不思議な空間となった。
「柳生君に今日から見世に出ると聞いたので支度の手伝いをと思ったのですが…必要なかったようですね」
観月も赤也が支度を助けられる事が意外だったのだろう。
驚いた表情を見せた。
「いや…丁度よかった、観月。頼まれ事をしてくれないか?」
「何なりと」
柳に促され、観月は向き合うように座った。
「赤也に誰か…仕事に慣れた世話役をつけてやりたいんだが誰がいいと思う?」
「そうですね…手の仕事を教えるなら花蕾より同じ唖手がよろしいでしょうが…」
「なら俺の貸してやるよ」
突然降って沸く声に驚き、先刻観月が入ってきた襖に視線をやれば派手な衣裳姿が見える。
「…凛」
「遊びにきたー!」
凛は部屋に入るなり勢いよく柳に飛びついた。
それもいつもの事なのか、柳は動じる事無く受け止め、肩に回された腕を優しく撫でた。
その様子はまるで母が子の悪戯を窘めるように見える。
「そしたら話し声聞こえたからさ。観月も亮も席があるだろ?俺今日暇だし」
そう言った凛は先程物置でごろごろと寝転んでいた時と同じ格好のままでいる。
つまり今日は席がないという事だ。
「寛貸してやるからしっかり柳助けてやれよー赤也」
柳から離れ、部屋の隅で所在無さげに落ち着きなく座っていた赤也の頭を凛がぐりぐりと撫でる。
畜生と同じ扱いにされ、赤也は不機嫌に手を振り払う。
だが邪気のない笑顔をへらりと向けられ瞬間的な怒りも消え失せた。
「寛ー聞こえたか?よろしくな」
「あいー」
唖手は他の華の部屋には入れない決まりなので、廊下で待機している寛に向けて声をかける。
赤也は頭に浮かべた、先刻凛の世話をしていた不気味な男の事を。
彼に付いて、と言われたが些かの不安が心を過ぎる。
あまり愛想よい風には思えなかった為上手くやれるかが心配だ。
それから間もなく見世の開く夕刻の鐘が鳴り響いた。
華は皆連れ立ち、客を迎えに出る為一旦母屋の玄関すぐ側にある通しの間に集まった。
赤也は寛に連れられ、その隣にある部屋へ行く。
そこには同じように待つ男がもう二人いた。
一人は寛や凛と負けず劣らずの黒い肌をしている。
もう一人は頑丈そうな体躯をした男。
彫りの深いはっきりとした顔立ちで、また異人かと赤也は思う。
流れから察するに、春色秋色の唖手なのだろうと赤也は二人に視線をやった。
すると二人もすぐに赤也が誰なのかに気付いたのか表情を明るくした。
「お前か、柳の新しい手の者って…柳生に聞いたよ。俺は春色持ちの赤澤だ。宜しくな」
「俺は天根。秋色の手だ。宜しく」
「赤也です。宜しくっス」
やはり、と頭を下げながら赤也は思った。
そして寛に比べ明るい雰囲気の二人は些か取っ付きやすそうだと安心した。
「お大ー尽ー様ー!早ぉのお着きであらしゃりますーるー!」
廊下に響く、花蕾の甲高い声は客の来訪を知らせる合図だ。
「春色ー様ー御貸ーしー!」
「秋色様ー御貸ーしー!」
続く声に隣の部屋から人が出る気配がする。
面倒臭そうに頭を掻き毟り、暫くの間を置き赤澤と天根が部屋から出て行ってしまった。
寛と二人部屋に残され、些か気まずい。
しかし寛はあまり何も考えていないのか、淡々と説明を続けた。
「客を華が出迎えて持ち部屋に戻ったら俺たちはここから控えの間に移る事になる。
だからその日どの間で接待するかちゃんと覚えておくんだ」
寛は部屋の隅に積まれていた座布団を持ってきて、部屋の中央に置かれた座敷机の前に置く。
そして赤也に座るように促した。
暫くの沈黙が流れ、忙しなく回る襖の外と遮断されたような感覚に陥る。
すぐに沈黙に耐えれなくなった赤也はおそるおそると口を開いた。
「待ってる間って…何かやる事あるんっスか?」
「席がある時は色々ある。客が望めばすぐにでも華が行動を起こせるよう次の一手を考えて準備をする」
「忙しいんっスね…」
「今のように席のない場合はこんな状態だ。だから少しでも華が客を取れるよう俺たちは気を配らないとならない」
「俺らの失敗で客を減らす事もあるって事か…」
「そういう事だ」
見た目で判断していたほど寛は取っ付き難くはなかった。
それからいくつか質問をしたが、全て丁寧に答えてくれる。
見世の話から、赤也が興味を持った琉球の話に移った頃、突然襖が開いた。
誰か花蕾が来たのかと思えば、凛が入ってきた。
「暇!今日から柳が見世に出るって聞いた客みーんなあっち流れんだもん…やる事ねー」
雪崩れ込むように寛に寄りかかり、だらしなく畳に座り込む。
客を取られた事を怒っている様子はなく、ただ時間を持て余す事を嫌がっているだけのようだ。
女同士のような陰険な空気はこの見世にはない。
前に居た商家で意地汚い女共の熾烈な争いばかりを見てきた赤也には新鮮だった。
柳生の言っていた通り、この見世の者は皆良い人ばかりなのだと思った。
「華寄席だって。いきなり大仕事だな、お前」
寄りかかっていた寛の背中から起き上がり、座敷机の向かいに座る赤也の鼻の前に指を突き出す。
「はなよせ?…って何っスか?」
「上客で華の取り合いになった時、持ち部屋じゃなくて大座敷で芸の披露をするんだ。
で、そん時の祝儀が一番多かった客が華の席に上がれるってわけ」
恐らく見た事もないような金が動くのだろうと赤也の頭に大量の千両箱が並んだ。
そんな赤也の様子に気付いた凛はからかうように笑った。
「柳の寄席で動く金は半端じゃねーぜ。最後にやった時は大店が二軒潰れた」
「いっ…?!」
想像の中の千両箱が一つ二つと増えて、やがて大きな蔵に摩り替わる。
「ま、柳の客って花柳界に慣れたいい客ばっかだし大丈夫だって。そんな硬くなんなくてもさ」
「はあ……」
これだけ脅しのような言葉をかけておいて何て無責任なのだろう。
凛は言いたい事だけ言うと、腹が減ったと厨へ行ってしまった。
賑やかな者が去り、再び室内が静寂に包まれる。
しかし、不意に寛が口を開いた。
「…凛はああ言っていたが…柳の扱いには気を付けた方がいい」
「へ?あの人そんな怖いんっスか?!」
最初あった警戒心はすでに解かれていた。
柔らかな物腰で何事も上手くかわし、見世の者全てを手懐けていた彼。
やはり油断ならない人物だったかと身構えたが、そうではなかった。
寛の口から出たのはまだ見ぬ者の名だった。
「本当に怖いのはこの見世の亭主だ…柳と亭主の幸村は昔馴染で殊更柳を大切に扱っている節がある」
この見世に初めて連れ帰られた時、一瞬聞いた名前。
せいいち、と言っていた。
見世の最高権力者である亭主を名前で呼んでいるのだ。
余程親しい仲なのだろう事は赤也にも想像がついていた。
「お前、少し前に将軍が代がわりした事は知っているな?」
「あ…あー…何か病気で急死したって聞いたけど」
大きな話題であれば下町にも音は届く。
町人にはすこぶる評判のよくなかった前将軍。
それでも政権が持っていたのは才ある老中がいたからだ。
「あれはうちの亭主が老中を失脚させたからだ」
「は…はぁ?!」
「あの老中は柳の上客だったんだが色々と悶着が多くてな……怒った幸村が柳を守る為に財の全てを搾り取る手に出た」
「……で?」
「結果は今の通りだ。怜悧で狡猾な片腕を失った将軍は呆気なく次代を狙うお家騒動で暗殺された」
時代を支配する存在を左右するだけの影響力のある亭主。
どんな人物なのだろうと想像して背筋が凍る思いをする。
青くなる赤也の顔を見て、寛は慌てて付け加えた。
「あ、いや、そんな不安そうな顔をしなくても…普段は凄く穏やかで優しい人だから。ただ柳の事となると容赦ないってだけで」
「それが怖いんじゃないっスか!」
「仕事での失敗ぐらいで怒るような人じゃないが…気をつけろよ。間違えても柳を傷付けたり泣かせたりはしない事だ」
翌日には堀の苔になる破目になる、と小声で囁かれ赤也は姿勢を正す。
「き…肝に銘じておきます……」
「じゃ、華寄席の手回しに行こう。この見世では席の準備の事を手回しというから覚えておけ」
何事もなかったかのように再び説明を始める寛だが、赤也の耳にはもう半分も届いてはいなかった。
成り行きでやってきた店で、命を落とすような事はしたくはない。
亭主は三日後に帰ると立ち番が言っていた。
どんな人物なのか、楽しみであり不安でもある。
宝物が沢山詰まった葛籠の最後から出るのは鬼か蛇か。
寛の後を付いて長い廊下を歩きながら、赤也はぼんやりとそんな事を考えた。