闇宵紫昏 一章 四季の華 1

見世の開く夕刻まではしばし間のある昼時過ぎ。
京の町へと続く紅橋を前に立ちはだかる紅大門【べにだいもん】。
そこを守る門番が激しい怒声を上げるのが辺りに轟く。
また喧嘩かと、にわかに人が集まり始める。
「何かあったのか?」
街のもの誰もが一目置く存在。
その人物が人垣の最後列に位置する誰ともなしに声をかけると、自然と道が開いた。
それを分けるように前へと進めば、門番と喧嘩する小汚い少年が目に飛び込んできた。
そしてその姿が視界に入り、門番は慌てて姿勢を正す。
「こっ…これはこれは冬色様…どちらかお出かけですか?」
「いや、通りかかっただけだが……」
冬色、と呼ばれた男は薄汚い擦り切れた木綿の着物の少年とは対照的に真っ赤な襦袢に綺麗な小袖を着付け、
豪奢な金糸銀糸を施された内掛けを上から羽織っていてその身分の高さを示している。
警護用の長棒で背中を打たれていた少年は、橋の床に転がったまま睨み上げるように冬色に視線をやった。
落ち着きのない癖の強い黒髪には土埃が付き、その目は真っ赤に染まって人外な風貌で見る者全てを威嚇する。
だがそんな鋭い目を軽く受け流し、冬色は門番に視線を戻した。
「どうした?」
「四条河原から落ちてきた浮浪児でさぁな。街に入れろと煩いもんでつい…」
街の治安と品格保持の為、浮浪者や流れ者を厳しく締め出す掟のある恋街。
見るからにそれと解る身なりをした少年を力ずくで追い出そうとした結果、この騒ぎとなったのだ。
「そうか…」
冬色は着物が汚れる事も厭わず、片膝をついて少年に視線を合わせた。
「大丈夫か?」
「触んじゃねぇ!!」
袂から懐紙を出して切れた口元から流れる赤を拭こうとするが、穏やかではない動きで振り払われる。
「……ふむ…この冬色の手を跳ね除けるとは…浮浪児である事は間違いないようだ」
強く叩かれた手の甲を擦りながらも気にする様子もなく冬色は表情を緩めた。
だがその粗相を見逃すわけにはいかないと、門番は少年の襟首を掴み立ち上がらせる。
「申し訳ありゃあせん冬色様!すぐに追い払いますんで!!」
暴れる少年を羽交い絞めにして橋の向こうへと追い出そうとする門番を、冬色はゆったりとした動きで制する。
「あー…いや、待て」
「冬色様?」
「こやつは俺が貰い受けよう。それならば街に入れてやってもいいだろう?」
予想外の動きに、その動向を見守っていた野次馬も驚いた。
門番が呆けたままなのをいい事に、冬色は少年の腕を掴んだ。
だが振り払われたので今度は袖を掴み、逃げ出さないうちにさっさと街へと戻って行った。
冬色はそのまま手を引き、自らの住む白虎の花小屋へと向かう。
朱雀通りから細い路地に入り、幾度も幾度も曲がり、進み、大きな木造の門扉を前にして漸く手を離した。
「童【わっぱ】。名は?」
「……フン」
頭一つ小さい少年を見下ろし、冬色が問いかける。
だが少年は顔を背け答えない。
つれない態度であるが、全く気にする様子もなく冬色は朱塗りの門を変則的に三度叩き、内側にいる立ち番に門を開けさせた。
出迎えた背丈のある屈強な立ち番の男に少年は一瞬怯むが、冬色を睨んだ時と同じように鋭い視線で牽制する。
しかし男はそんな少年など無視して冬色に頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「精市はいるか?」
「亭主は先程お出かけになりました。戻りは三日後になるそうです」
「そう…か」
見世を取り仕切る責任者の不在に冬色は逡巡した。
少年は相変わらず睨みつけるだけで口を開く様子もない。
立ち番も視線が誰なんだ、と言っている。
冬色は安心させるよう両者に笑いかけると少年の背中を押して店内へと入った。
三和土ではなく石の埋まる玄関から黒光りする上がり框が見え、二枚の衝立が視界を阻んでいる。
松の絵の描かれた衝立の奥には広い畳張りの廊下が延々と続く。
その両脇には襖が並び、部屋の多さを物語っていて、玄関脇からは朱塗りの階段が上階に向かって伸びている。
しかしそれも天井の高さ故にいつまでも続いているような錯覚さえ覚えてしまう。
このように煌びやかな世界を知らないだろう少年は、目を大きく見開き興味深そうに見渡した。
「入れ」
冬色の声に一瞬迷う様子を見せる。
俯いた視線の先には草履が脱げた状態で汚れた足がある。
恐らくは先刻門番と揉み合った時に脱げてしまったのだろう。
見世までの距離を歩いた分だけ土色に汚れている。
少年はこのまま上がる事を躊躇っているのだ。
新しいとは言えないが、綺麗に掃除された畳に足跡が付ける事はできない。
そう考えての躊躇だろう。
先程までの無遠慮が嘘のように萎れた様子に冬色は小さく笑いを漏らす。
「構わん。そのまま上がれ」
「けど…」
玄関が俄かに騒がしくなった事に気付いたのか、一人の男が玄関のすぐ脇にある部屋から顔を覗かせる。
「おかえりなさい。随分早かったですね…何かあったんですか?」
茶色の髪に、薄い硝子の眼鏡が優しい面差しを隠している。
異人か、と少年が身構えるのが解る。
その様子はまるで警戒心の強い猫のようだ、と冬色はもう一度小さく笑った。
「ああ、柳生。畜生を拾ってきた。泥を払うから濡れ手拭を持ってきてくれないか?」
「畜生って……彼の…事ですか?」
冬色に柳生と呼ばれた眼鏡の男が驚いた表情で少年を見下ろす。
「ああ。このお猫様のおみ足を拭いてやってくれ。それから湯浴みをするから支度を」
「解りました」
柳生が手を二度叩くと、階段の下にある木の扉が開いた。
中から下働きをしているであろう木綿の薄い着物を身につけた少年がやってきて恭しく頭を下げる。
「お呼びでしょうか」
「冬色のお帰りですからお湯殿【ゆどの】の支度をお願いします」
「かしこまりました」
「それから、何か軽い食事の用意もお願いしますね。部屋は…通しの間でよろしいですか?」
頼んでもいない食事の指定。やはり抜け目の無い男だと冬色は思わず笑んだ。
柳生は恐らく何も物言わぬこの少年に食べさせるつもりなのだ。
始めから冬色もそのつもりであった為、気にせず話を続けた。
柳生に問われたが、直接下男に向け指示を下す。
「いや、俺の部屋に運んでくれ。どの間でも構わん」
「御意に」
下男は再び木戸の向こうへと消えた。
柳生は冬色の言った濡れ手拭を取りに一旦その場を離れ、すぐにそれを手に戻ってくる。
「失礼します」
「いい!自分でできる!」
柳生がわざわざ玄関に下りて少年の足を拭こうとした。
だが案の定それを頑なに拒み柳生から手拭を引っ手繰ると上がり口に座り込み足を拭い始めた。
「それだけ元気ならば結構。湯浴みが終わったら俺の間に通してやってくれ」
「え…?貴方が入るのでは?」
「俺はいいからその薄汚れた童を入れてやれ」
「解りました。そのように」
冬色は柳生が頷くのを確認すると、店内に上がった。
外を歩く為片手に持っていた打掛の裾を離し、それを引きずり奥へと消えていく。
柳生は頭を下げ見送ると、ようやく少年が口を開いた。
「あいつ…何モンだ?俺いきなりここ連れてこられて訳わかんねぇんだけど」
「彼を知らないという事は、君はここの人間ではありませんね?」
四聖の人間であれば彼を知らないはずがない。
それを踏まえてあえて肯定を促す問い方をする。
案に違わず少年は頷いた。
「彼はこの見世で最も位の高い伍間続きの華です」
「ハナ?俺、ここが何かも解ってねぇんだけど」
「ここは花小屋といって四聖独特の見世です。彼の様な美丈夫が接待をする…まあ料亭のようなものだと思ってください」
「陰間茶屋とは違うのか?」
どういう経緯でこの街へとやってきたのかは解らないが、ここがどういう場所であるかは解っているらしい。
少年は色町独特の言い回しを口にする。
「男子が接待するという意味では同じですがもっと高貴な場所です。
華は春売りではありませんから…お女郎ではなく、芸を売るという点では芸妓や舞妓と近い存在です。
ここのお座敷は彼らが教養や芸を売る、まあ上流階級者の社交場だと思った方が良いですね」
柳生は汚れた手拭を引き取ると、風呂の様子を見てくると言って一旦その場を離れた。
残された少年は、人の目を憚る事がなくなり遠慮なく周りを見渡す。
「すっげー……」
その価値は全く解らないが、玄関先に惜しげもなく飾られる華美な大皿や壷。
朱塗りの階段も、よく見れば細かい螺鈿細工が施されている。
延々と並ぶ襖に描かれる絵も続き物になっていて、それはそれは華美なものだった。
「湯殿の用意が出来ましたよ。一緒に参りましょう」
戻ってきた柳生に笑顔と新しい草履を向けられる。
その笑顔に少年はこの男は先程の奴よりはまだ信用なるかもしれないと少し警戒を解いた。
庭の隅にある湯殿で湯浴みをして、用意された着物を着て母屋であろう先程の玄関に戻る。
そして待ち構えていた柳生によって見世の奥へと案内された。
これはまた極楽浄土かと思わせる部屋だ、と少年は通された部屋で居住まいを正した。
部屋の壁には真っ赤な花を付けた椿が描かれていて、大して広くない部屋ではあるが異空間だ。
恐らくは先程の、ふゆいろ、と呼ばれていた男の部屋なのだ。
自分をここまで連れてきたあの男。
閉じているのか開いているのか解らない伏し目がちな瞳がやけに印象的な、一切の無駄を削ぎ落とした端整な顔立ちをしていた。
先程まではそんな余裕がなかった為何とも思わなかった。
だが改めて思い返し、とても綺麗な人だったと思う。この部屋に見合うだけの器量だった。
それにしてもこんなに煌びやかな世界がこの世にあるなんて、と少年は今までの暮らしと比較して顔を歪めた。
物心付く頃、食扶持減らしに合い郷を追い出された。
実家など、もうどこにあるのか解らない。
親の顔も覚えていない程小さな頃の話だ。
紆余曲折を経て、京に落ち延びたものの、拾われた先の家はとんでもない場所だった。
京の町では随一の大家らしいが、下人の扱いは最悪。
溝板長屋に詰め込まれ、名も与えられず人の扱いを受ける事はなかった。
だからここに来れば些かましな生活があるだろうと思いやってきたのだ。
忍び込むにも強行突破するにも、思った以上に高い壁が阻んでいた。
噂に聞けば来る者全てを受け入れてくれるはずだったのに、ここは誰でも入れるような場所ではなかった。
だが思わぬ展開が待っていた。
まさかこんな場所に入り込めるとは。
しかしまだ信用ならない。
最初は甘い顔をしていたとしても、いつ化けの皮が剥がれるやもしれないのだ。
だがどんな事があってものし上がって、這い上がってやる。
そう決心してあの橋を渡ったのだ。
先程冬色を睨み上げた時と同じ瞳を見せ、少年は拳を握り締めた。

++++++++++++++

暫く後、椿の間にお通しいたしましたと下男に言われ冬色は部屋に戻った。
襖を開けると用意された膳に乗せられた料理を貪るように食べる少年が部屋の中ほどにいるのが見える。
必死になって食べているからか、まだ部屋に入ってきた事に気付いていない。
冬色は静かに近付き隣に座った。
漸く気付いた少年が警戒心を丸出しにして睨む。
だが相変わらず柔らかく笑むだけで冬色は全く取り入れる様子もない。
「綺麗になったな」
二度三度と頭を撫でられ、不機嫌をむき出しにして手を払いのける。
「食事は口に合ったか?」
「……美味かった…こんなもん…初めて食ったし」
夜のお座敷で出す料理を少しずつ分けてもらった膳は気に入ったらしく、素直に言葉を紡ぐ。
そしてその綻んだ隙を見逃すような人物ではない。
花柳界に身を置く者らしく話術に長ける冬色は続けて問いを重ねた。
「お前、名は?俺は柳蓮二だ」
「え?」
名乗った途端驚いたように顔を跳ね上げられる。
その姿に逆に驚かされ、冬色は目を見開いた。
「何だ?」
「だってふゆいろって呼ばれてた…」
この街では通った名ではあるが、外から来たこの少年は知らなくても当然だろう。
冬色は笑いながら敷衍した。
「冬色は店に代々継承されているお職の名だ。俺の名ではない。本当の名は柳だ」
「柳…さん」
「ああ。さ、俺は名乗ったぞ。お前の名前を教えてくれ。いつまでも童と呼ぶのも味気なかろう」
「……ない」
たっぷりの間を置き、少年は顔を背けながらそう呟いた。
「ない?どういう意味だ?」
「…前に住んでたとこでは……おい、とかてめぇ、とかしか呼ばれてなかった」
「そう…なのか…」
身なりでそれなりの想像はしていたが、遥かに凌ぐ扱いの悪さだ。
柳は顔を顰め、思わず少年の頬を撫でた。
傷にまみれた口元を愛しむように。
また勢いよく跳ね除けられるかと思ったが、驚いて固まってしまっている。
そんな扱いを受けた事がないのだろう。対処がわからないのだ。
「では俺が名付けよう。良いか?」
「え…?俺の?俺に名前?」
「ああ」
一瞬嬉しそうな表情を見せたが、またすぐに膨れたような顔に戻ってしまう。
天邪鬼な餓鬼だ。
柳は少年の前に置かれた膳を取り払い、真正面に座り直した。
そして瞳を捉える。
「赤也」
「あかや?俺の名前?」
「そうだ」
柳は手を二度叩き、隣の部屋に詰めていた世話役を呼び膳を下げさせると書の準備をさせる。
経机に置かれた筆を手にすると半紙にさらさらと走らせた。
だが少年は眉を顰め、じっと紙を眺めたままだ。
「…俺…字、読めない」
「赤…これがアカ。也、こっちがヤ。お前の名だ」
柳が白く細長い指で書かれた文字を指し示すが、じっと半紙を眺めたまま固まっている。
「気に入らないか?」
「違っ……あの…ありがと…ございます」
初めてもらう自分だけの名が嬉しいのか、少年は何度も口の中で繰り返している。
「では赤也。話を戻そうか」
名前の書かれた半紙を赤也に渡し、柳は経机を部屋の脇に寄せた。
もう一度向き合う様に膝を付き合わせる。
「お前は何故この街に?ここが如何様な場か解ってやってきたのか?」
赤也が首を振り、それを否定する。
「この街がどんな場所かは噂で聞いただけで……この見世が何かはさっき柳生って人に聞くまで知らなかった」
「なるほど。差し詰め奉公先での扱いの悪さに辟易して出奔、ここに逃げてきた、といったところか」
何も言わないが、表情がそれを肯定する。
何故解ったのだと目が言っている。
面白い奴だと柳は目を細めるも、すぐに厳しい表情になった。
「しかしこの街も噂されているほども良い所ではない。多くの者が夢に破れ世知辛い現実に露と消えた欲望渦巻く場所だ」
「それでも!!あんな家で一生終えるよりはましだ!!俺はこの街で生まれ変わる!絶対ぇ這い上がってやるって決めたんだ!!」
興奮した様子で噛み付くように言い放つ赤也の瞳は先程橋の上で見せたものと同じように真っ赤に染まっている。
成る程発奮すると血の色に染まるのか、と柳は冷静にそれを眺めた。
「勢いや気持ちだけではどうにもならない事もある」
「んだと…!!」
「だが…何事も努力次第だ。お前の望みとて同じ事。成し遂げられない事はない」
柳は感じていた。
赤也の意志の強さは本物だ、と。
この街で何百という人間を見てきた柳だが、これほどまでに強い光を宿した瞳を持つ者は少ない。
地べたを這いずり回り、逆境でなおこれだけ澄んだ瞳を持っているのだ。
やはり面白い、と顔に出さないまま柳は心の中でこっそりと笑んだ。
「知り合いの見世で働けるよう世話してやる事もできるが…幸いにも俺はお前が気に入った」
「へ?」
「どうだ?俺の手となり働く気はないか?」
「…俺を雇ってくれるのか?この見世で?」
「いや、見世が雇うのは萌芽【ほうが】や花蕾【からい】といって華の卵だけだ。先刻玄関で見ただろう?」
逡巡する様子を見せ赤也が頷く。
柳生が手を打って呼んだあの少年も、華としてこの店に咲き誇る日を夢見て働いているのだ。
作法やあらゆる芸事を学びながら見世の下働きとして手伝う萌芽。
そしてそれらを身につけ客の前で芸事を披露しながら、なお日々精進している花蕾。
それとは別に、見世持ちではなく華が個人的に雇う身の回りの世話役がいる。
柳には今その役目がいないので、赤也の手を借りたいのだと言う。
「やる!やります!!俺…出は悪ぃし作法とか芸とか難しい事全然解んねぇけど…けどやってみせる!」
全く根拠のない自信だが、本当にやってくれそうな気がするから不思議だ。
だが一応釘を刺す。
「言っておくが安くて厳しい仕事だぞ?」
「今までの事考えたら何でも耐えられる」
名も与えられず、恐らく不当な賃金で雇われ辛い仕事をさせられていたのだろう事は想像するに易い。
その言葉は真実を物語っている。
「そうか。頼もしいな。亭主がいないから去就に関してはまだ何とも言えんが…恐らくは反対しないだろう。
奴が戻るまでは柳生にでも付いてこの店の事を色々覚えてくれ」
「はい!」
「俺は出掛ける用があるから後は柳生に頼むが…何か質問は?」
柳は打掛を肩にかけ直し、立ち上がった。
それに続いて赤也も立ち上がり、部屋を出ようと襖に手をかける柳に問いかける。
「あの…何で俺を拾ってくれたんですか?」
「……俺は血の色が好きなんだ」
「…え?」
小さく呟いた声は赤也の耳にも届いたのだろう。
聞き返す顔が不快を表している。
しかし柳は取り合わず、丁度廊下を通りかかった柳生を呼び止めた。
「丁度良かった。こやつにこの店の事や仕事を色々教えてやってくれ」
「は?あの…」
「今日から俺の手として働いてもらう事にした」
「はい?!」
柳生は手にしていた畳紙を派手に落として驚く。
訳が解らないと赤也は柳と柳生の顔を交互に見て不安そうにしている。
「ほら、自己紹介」
「あ…赤也です」
柳に背中を叩かれ、先刻貰ったばかりの名を戸惑いながら言うと柳生も会釈を返す。
それを見届け、打掛をひらり翻しながら廊下を歩いていってしまった。
「よろしくな。俺は長屋に出向くから後は頼む。あ、それから今日から俺も見世に出るから」
「えっ…今日からって……ちょっ…柳く…柳くーん?!」
背中に戸惑いを含む声を浴びながら、柳は見世を後にした。


++++++++++++++


通りは相変わらずの喧騒。
昼日中からやっている見世には多くの人が集まっている。
騒がしいのはあまり好みではないが、ここの喧騒はどこか祭りじみていて柳は好きだった。
花小屋の集まる一画を過ぎ、白虎通りを跨ぐと紅大門に一番近い区域、朱雀がある。
京の町に一番近いこの区域は大きく分けて二つの役割を担っている。
白虎に近い鹿鳴大通りの西側は遊女屋の立ち並ぶ歓楽街。
郭内には遊女屋の集まる場所はここの他に玄武、青龍、白虎にもあるが、京の町に一番近い為、最も賑わいを見せる。
だが青龍に近い東側に見世は少なく、どちらかというと四聖に住む人の居住区になっていた。
柳は一旦北に進むと青龍通りに面して構えられた大店、鳳来堂で手土産を買った。
鹿鳴大通りと青龍通りの間には長屋が軒を連ねている。
生活水準は他の地区より一つ二つ低いが、下町情緒が溢れた場所だ。
そのうちの一つの戸を前に立ち止まり、柳は戸を支える柱を叩いた。
はいはいーという返事が中からする。
喋り声があるから二人ともいるのか、と思いながら戸を開ける。
「いらっしゃい!」
異端的な真っ赤な髪がまず柳を出迎える。
邪気のない満面の笑みに迎えられ、柳からも自然な笑みが漏れた。
「邪魔するぞ」
「どーぞどーぞ!あ!鳳来堂の豆大福か?!」
「ああ、土産だ」
「ありがと柳!!」
手に持っていた包みを渡すとくんくんと匂いを嗅ぎ、さらに笑顔を向けた。
「上がってくれよ。あー…けど着物汚れっから地べた座んない方がいいかも」
「構わん」
先刻橋で片膝を付いた際汚れてしまっている。
それに見世に出る時に着る物でなければ別段汚れても構わない。
そう思い上がりこんだ部屋の囲炉裏端に腰を下ろそうとする。
「ちょっと待って柳。おい仁王てめぇどけっ!その座布団柳に貸せ!」
囲炉裏端でだらだらと昼寝している、これまた異端的な銀の髪をした仁王という少年の尻を蹴り上げた。
「あー…酷いのうブン太……」
ブン太と呼ばれた赤髪の少年は寝転んだ仁王の頭の下に敷かれた座布団を勢いよく引っこ抜く。
その反動で仁王の頭が板間にぶつかり小気味良い音が響いた。
「はい柳!これに座って!」
「別に構わないと言っているのに…」
「いーんだって!これは仁王の枕じゃねえんだ。使ってくれよ」
「そうか…ありがとう。仁王もすまないな」
お世辞にも座り心地の良いものではないが、ブン太や仁王の心遣いが嬉しい。
柳は差し出される煎餅のような座布団の上に腰を下ろした。
「いや、ええんよ。それより遅かったな」
打った頭を擦りながら体を起こし、約束の時間に遅れるという珍しい事をした柳の行動を問うた。
「面白いものを拾った」
「紅橋での騒動だろぃ」
「知っているのか?」
囲炉裏にかけられた湯で茶を淹れる準備をするブン太に先に言われ、些かの驚きを隠せない。
ほい、と出された熱い茶を啜ると今度は仁王が笑う。
「お前さんの動きなら今日はどんな物着て何食って、どの店で何を買ったかまで…この廓のモンなら皆知っとるぜよ」
「そうか。素行には気をつけねばならんな」
ニヤリと含みを込めて笑われ、柳は苦笑いを漏らす。
監視されている、というより皆この街一の男の普段の生活に興味があるのだ。
視線を向けられるのも仕事だと割り切っている為、柳もあまり気にしていない。
「それで?拾った奴はどないすんじゃ」
「さあ……これから考える」
「手の者にはせんのか?」
「そう言って雇ってはみたが…言葉の意味を知ればどうなるか解らんな」
「え…?もう手は持たないんじゃねーのか?」
すでに土産の豆大福を二つ頬張り、口の周りを疥の様に白くしたブン太が餡のついた指を舐めながら驚きの声を上げる。
掌にもついた白い粉をパンパンと叩き、柳の座布団の端を掴み自分に真正面向くように引っ張った。
真剣な瞳で見つめるが、柳はにっこりと笑顔でかわしてしまう。
「そうだな」
「あの事があったから…もう…見世も辞めちまうのかと思ってた…」
柳は目を丸くして言うブン太の口を懐紙で拭ってやり、間をおいて静かに口を開いた。
「……本当はそのつもりをしていたが……気が変わった。凄く面白い奴なんだ。
あいつが側にいてくれるのならもう少しやっていてもいいと思った」
「へえ…頑ななお前さんの意識を変えさせるなんてよっぽどの男なんじゃな」
仁王はどんな男を想像したのかは知らないが、柳の目に映る赤也はただの狂犬だ。
あるいは気まぐれな猫のようにも見える。
天邪鬼で意地っ張りだが、誇りを忘れず人として真っ当に生きようと前を向いている。
こんな風に落ちてしまった自分よりも、よっぽど人として優れている。
そう思い、茶碗に残っていた冷めた茶を一気に飲み干した。
二杯目の茶を柳自身の手で淹れ、二人にも茶碗を渡す。
淹れ手によりこんなにも味が変わるものなのかとブン太は感嘆の溜息を漏らした。
同じ事を思ったのだろう、仁王も珍しくほっと抜けた表情を見せた。
「俺があの店出てもう半年か…早いもんじゃな」
仁王は事情があり、数ヶ月ではあったが四季にいた。
その間の世話をしていたのが柳で、見世を出た後この長屋に転がり込んだ。
何だかんだの言いながらも、ブン太も憎からず思っているのだろう。
仁王を受け入れ一緒に暮らしているのだ。
「どんな心境の変化があったか知らんが…お前さんが見込んだんなら大丈夫じゃ。幸せになりんしゃい」
「……相手次第な話だな。それに俺は…」
「そんな風に言うなよ。お前だって人並みに幸せになる権利はあんだからさ」
膝の上に置いた白い手に、ブン太の温かい手が添えられる。
過去の出来事の所為で心の呵責に苛まれた柳はいつも後ろ向きで何があっても幸せになろうとしなかった。
ブン太も仁王も赤也と同じく柳に助けられたのだが、その恩があるからだけではない。
いつか前を向いて幸せに歩み寄る日がくればと願っていた。
きっとそれが今なのだ。
ブン太がぎゅっと手を握り笑いかけると、柳にもそれが伝わったのか先程の人を撒く為の笑顔ではなく、心から笑んだ。
「そうだ…あの猫はどこだ?」
「何や、新しい畜生を拾ったからもう用無しやないんか?」
仁王の冗談めかした言い方など慣れたもの。
柳は唇だけに笑みを乗せて受け流す。
「連れてくるな!」
手を離したブン太が玄関から出て行き、暫くして一匹の猫を連れて帰って来た。
野良ではあるが毛並みの良い黒猫。
長すぎない毛がくるくると巻いていて、まるで誰ぞの髪と同じだと思わず吹き出した。
長屋の二軒隣の子供が拾ってきた猫で、貰い手を捜していたところ柳が名乗り出た。
先刻紅橋の騒動がなければこの猫を引き取る為に長屋に出向くはずだった。
だから仁王が時間に遅れた柳を心配したのだ。
「こいつか…」
ブン太の胸に抱かれた猫を受け取り、頭を撫でると目を細め、小さくにゃあと鳴く。
「可愛いだろ?野良だけどすげー大人しくってさ」
「ああ…ありがとう。大事にする」
猫の方も柳を気に入ったのか、喉を鳴らして掌に顔を擦り付ける。
「名前は?決めたんか?」
「まだだが…お前達は何と呼んでいたんだ?」
「俺?俺ら適当に…おい猫ーって」
柳は名前も付けられずその他大勢として扱われていた少年を思い浮かべた。
風貌、毛質が良く似ている。
違うのは瞳の色が青い事ぐらい。
「青也にするか」
短絡的だが覚えやすい。
「何で?」
「うちに来れば解る。そろそろ見世の準備が始まる頃だから帰るが…いつでも遊びに来てくれ」
「解った!じゃあな!」
「うちにもいつでも来んしゃい」
「ああ」
柳は青也と名付けた猫を打掛の裾で包み、見世へと戻った。


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