セト7-2

斯くして、これ以上ないほどの密着状態でかれこれ半時間は経過しているだろう。
一応荷物として運ばれている為、いつもの馬車より足が速い気がする。
それでもあと半時間はこの状態なのだ。
正直、赤也の限界はすでに目の前にきていた。
柳にその気がない事は解っている。
しかし懐からする上品な香の芳気や腕の中の体温など、彼の全てが赤也を酩酊させるのだ。
しかも暗闇で視界を奪われている為いつもよりそれが鮮明に感じられる。
「赤也?」
「はははははいっ!何っスか?!」
「お前、すごい汗だ」
「へ?!すっ…すみませ…っ!あああ汗臭いっスよね?」
狭い箱の中、もうこれ以上ない程に離れていて背中の後ろは衝撃緩和材で、更にすぐ向こうは箱の縁だ。
これ以上側に寄られると、正直自分を抑える自信がないと赤也は必死に背中を縁に近付ける。
だが不意に首筋に手を伸ばされ、これ以上なく動揺して頭をぶつけてしまった。
幸いに緩和材のおかげて大した痛みもなかったが、柳を驚かせるには充分だった。
「どうした?すごい心拍数だぞ。気分でも悪いのか?」
驚きながらも手を引っ込める事はせず、柳はそのまま汗に塗れた赤也の首に手を添える。
振り払う事もできず、ただ呆然としていると、今度は引き寄せるように力が込められた。
「やっ…柳さ…っっ」
「何故そんなに離れるんだ?狭いだろう?」
「いや、あの、その……」
本気で言っているのかこの人は、と赤也は混乱の極みに陥る。
翻弄させる為に言っているのならかなり性質が悪い。
しかし声にからかっている様子はなく、真剣に心配をしているようだ。
「だっ大丈夫…なんで、あの、もうちょっと…離れた方が…いいっス…」
「どうして?あ、汗臭いか?すまん、気付かなくて」
「違っ…逆!その逆!!」
消沈した声に慌てて弁解するが、余計な事を言ってしまったと手で口を塞いだ。
「逆?」
やはり柳は何も分かっていないのか先程と同じように至って普通の態度をしている。
これはもう本当の事を言って柳から離れてもらうしかない。
赤也は首筋に添えられた柳の手を掴み無理矢理引き剥がした。
「赤也?」
「あの、ほんっとヤバいんっスよ。何かすげーいい匂いして、マジで襲い掛かりそうになるの抑えんの必死なんで…」
一瞬息を詰まらせる音がした。
あまりに明け透けな言い方に幻滅したのだろう。
赤也は握っていた柳の手を離し、少しの距離だが体を離した。
だがこれで少しは警戒してくれるだろう。
そうしてホッとしたのも束の間、柳は唐突に腕を伸ばしてきた。
「なっ…!」
「……本当だ」
「ちょっ…アンタ何考えてんだよ!!」
言葉で突き放したというのに、柳は体をより密着させるように近付いた。
誤魔化しようのない程に形を変えた下半身にも気付かれてしまった。
ぐいぐいと体を擦り付けられ、ますます汗を噴出す赤也など気にも留めず、柳は胸に顔を埋めたままじっと動かない。
「…柳さん……?…離れてって…マジで我慢きかなくなるし」
「嫌だ」
「…え?」
「離れない」
背中に腕を回してぎゅっとしがみつき、力を込めて絶対に離さないと意思を示す。
無理矢理引き剥がすわけにもいかず、たださせるままにしていた。
唇を噛み締め、必死で他所事を考えながら残りの時間をやり過ごすしかない。
だが腕の中の人の存在全てが赤也を翻弄する。
そしてすりっと甘えるような素振りで胸に顔を寄せられ、限界点を突破してしまった。
柳を逆の縁に押し付けんばかりの勢いで抱き締めた。
力の加減が解らず、恐らくは相当に苦しい思いをさせているだろう。
ぎり、と骨の軋む様な感覚がある。
しかし柳は何も言わず赤也のしたいままに身を委ねている。
「赤也…赤也」
胸に顔を押し付けたままでくぐもった声が胸元に響く。
「あ、すみませ…苦しい?」
「いや、いい。そのままでいてくれ」
「け…けど…やっぱ…ちょっとこのままだと…ヤバいっス…」
どんどんと体に熱が溜まっていっているのは柳も感じているはずだ。
先程は勢いのまま抱き締めてしまったが、一瞬の思いを解放してしまった今は羞恥と身のやり場のない思いだけが残っている。
僅かに体を離すが、同じだけ柳は擦り寄ってくる。
渦巻く思考を持て余していたが、柳の放つ言葉に舞い上がっていた気持ちが一瞬で落ち着いた。
「今は…今だけは二人きりだ」
離宮とはいえ常に人の目のある状況では決して許されない事を、今だけは許されている。
誰の目もない場所で存分に甘えたいのだと全身で訴えてきているのだ。
その姿に邪な思考は一気に霧散した。
赤也は先程とは違い、壊れ物を扱うように優しく抱き寄せ胸の中に柳の体を収めた。
ごく自然に背中に回される腕の力を感じ、髪をゆっくりと撫でる。
こんな風に子供のように甘えた様子を見せたのは、あの自演した暗殺未遂事件以来だ。
だがあの時は計算ずくの事だった。
今は違う。違うはずだ。
はっきりと柳本人が言ったわけではないが、それでもあの時とは明らかに違っている。
そんな様子に心臓が胸を突き破りそうなほどの鼓動は収まってきた。
しかしほっとする間もなく、柳はまた唐突な行動に出てきた。
「なっ何す…っっ!!」
ちゅっという水音と共に首筋に当たったものは間違いなく柳の唇だろう。
いきなりの事で対処できず、思わず体を引いてしまった。
その衝撃は箱の外に伝わったらしく、ゴンっと強くノックする音がする。
外で桑原が心配しているのだ。
先に約束していた通り、赤也は大丈夫だと伝える為に二度縁を叩いた。
再び静かになり、余計な勘繰りをされなくてよかったと安堵の溜息を吐く。
「…何すんっスか!」
「お前が何もしないからだ」
「は…はあ?!」
その口振りでは何かを期待していたという事なのだろうかとうろたえるが、馬車が離宮へと着いたのか急に停止する。
ここで外へ出る訳にもいかないのでこのまま部屋まで運ばれていくだろう。
じっと様子を伺っていると、馬車から降ろされ人の手で運ばれている感がある。
不規則な揺れに縋る柳を宥めるように肩を撫でると、再び首筋を舐められる感触があった。
「―――っっ!!!」
二度目とはいえ、大声を出して暴れなかった事を褒めて欲しいと赤也は思った。
動揺しつつも外に聞こえないよう小さな声で抗議する。
「止めてくださいって…―――っっ」
だがその声は塞がれてしまう。柳の唇によって。
「んんっ?!ちょ…っ」
慌てて離れようと身を引くが、両手でしっかりと頬を押さえられ逃げられなくなった。
唇を食むように合わせられ舌が侵入してくるかと構えた瞬間、ゴトリと一際大きな音が耳に届く。
下からする衝撃に、この箱が柳の部屋に運ばれた事が解る。
赤也は無理矢理引き剥がすように上体を反らせた。
間もなく蓋が開かれるだろう。
それは柳も解っているのか先刻のように無理に体を寄せてくる事はなかった。
二人だけの時間が終わりを告げる。拷問のようだと思っていた時間が。
早く過ぎろとばかり考えていたが、いざそうなった今、寂しさが赤也の心を過ぎった。
「お疲れ様ー二人とも」
静かに蓋が開けられ光が箱の中に射し、幸村の声がする。
蓋の向こう側は、見慣れた柳の私室が広がっていた。
柳は先程までの態度など微塵も感じさせない涼しい顔で起き上がり、幸村の手を借りて一足先に箱から出てしまう。
「うわっ…すごい汗。暑かった?風呂の用意はさせてあるから入ってきなよ」
「ああ、ありがとう」
被っていた銀色の鬘を柳生に渡し、柳はそのまま丸井を護衛に浴場へと行ってしまった。
それを見送り、赤也もようやく緩慢な動作で箱の外に出た。
中途半端に燻っていた体の熱はすっかりと冷えてしまっている。
しかしあのまま密着されていれば、確実に何か間違いを犯していただろう。
兎に角邪な事を考えていたままでは幸村に何を言われるか解ったものではない。
赤也は衣服を整えながら思考も共に整理した。
ゆっくりとした動作は心を落ち着けてくれる。
ようやく平静を取り戻したというのに、
「赤也、どうだった?蓮二との二人旅は」
何故この人は余計な事を言ってくれるのだろうと赤也は頭を抱えた。
楽しそうに視線を寄越す幸村に溜息を返す。
「どうもこうも…蒸し風呂状態で楽しむどころじゃなかったっスよ」
「ふーん……」
つまらなそうに返事をする幸村に、これで解放されるかと思った。
だがそれは甘い考えだったとこれまでの彼の奇行の数々で学んでいた。
「だったらどうして……ここに蓮二のドーランがついてるのかなー?」
学んでいたはずだというのに、全く油断をしていた。
幸村に人差し指で首筋を撫でられ、冷やりと背筋が凍る。
「あっ…あんだけくっついて入ってりゃ付いてもおかしくないっしょ?!」
撫でられた場所をごしごしと袖で拭うが幸村は変わらず疑念を抱いた瞳を向けてくる。
何か言いたそうにじっと見つめる双眸から逃れるように背を向けると、丁度変装を解いた仁王が部屋へとやってきた。
「おい赤也、お前も汗かいたじゃろ。風呂いかんか?」
「あ!!行きます!!」
いつになくいいタイミングで来てくれたと赤也は仁王のその誘いに乗り、二つ返事で浴場へと向かった。

【続】

 

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