セト6-3
柳が部屋を出た後、しばらくの静寂が空間を支配した。
だがそれは長く続かず、扉を開ける為のカラクリが動く音がする。
何とか一人で腹に包帯を巻こうかと苦戦していた赤也が顔を上げると、赤い髪がひらめくのが視界に入った。
「おーい赤也。大丈夫か?」
「…丸井さん」
「あーあー何やってんだよ。不器用だなー」
「すんません…」
腕や指に絡む包帯に呆れながら丸井は赤也に近付き、それを丁寧に巻き直し始めた。
「薬は自分で塗れんだろ。もう塗ったのか?」
「あ、まだっス」
少し離れた硝子机に置かれた瓶に目をやると、丸井は一旦ベッドから離れてそれを手に取り赤也に投げ寄越す。
蓋を開けて中からする臭いに赤也は顔をしかめた。
柳があらん限りの知識を駆使し、御殿医や国の研究所員などを総動員して作らせたという薬は見た目や臭いが強烈だった。
しかし効き目は絶大で、その一瓶にどれだけ柳の思いが詰まっているのだろうかと思いを馳せる。
彼はまだ己に生きろと、側にいる事を望んでくれているのだ。
それ以上の何を望む事もない。
赤也は勢いよく首を振り、先刻一瞬過ぎった都合の良い考えの一切を打ち消した。
「うわっ!何だよいきなり」
「へ?!あ!いや、何でも!!」
突然頭を振る赤也を訝り丸井が顔を顰めた。
変な奴だなと言いながらも、追究せず綿布を傷の大きさに合わせて切り始める。
「お前さー……」
「はい?」
鋏を進めながら一旦言葉を切る丸井の口元を眺め、赤也は次の言葉を待つ。
「お前、柳に何言ったんだよ」
「…は?うぐっっっ!!!」
薬を塗っていた手が動揺にうっかりと傷を抉るように滑っていき、あまりの痛みに腹を押さえて唸る。
どういう意味なのだ、と慌てて顔を上げると丸井の非難するような視線が降り注いでいる。
「あいつ、泣きそうだったぜ」
お前の所為なんだろうと饒舌に語る視線が突き刺さる。
赤也は思わず視線を彷徨わせた。
思い当たる節がないわけではない。だが以前腑に落ちないのだ。
しかしその疚しい気持ちを含む行動に、丸井は溜息混じりに言葉を吐く。
「まあ何あったか知んねぇけどさ、あいつは俺らにとっては主君以上に大事なダチなんだから…あんまあーいう顔させんなよな」
「…はあ…」
「んだよその気の抜けた返事は…」
再び非難の視線を注がれていると、扉のカラクリの動く音がする。
誰が入ってくるのかと二人が目を扉に向けると程なく幸村が中に入ってきた。
「ブン太、交代しよう。蓮二を執務室まで連れて行ってやってくれ」
丸井は赤也と幸村の間に視線を彷徨わせた後、わかったと頷く。
そして赤也の耳元に顔を寄せた。
「続きはあいつに聞いてもらえよ。ま、命の補償はできねーけどな」
折角ここまで治ったのに魂抜かれんなよ、などと無責任に笑いながら包帯を赤也に押し付け丸井は退室してしまった。
恐ろしい無表情を貼り付けた幸村が一歩また一歩と近付いてくる。
赤也は無意識に後退りしたが、ベッドの端に手を掬われ転がり落ちそうになった。
「何ビビってるんだ」
「いや、その…」
一瞬柔らかな笑顔を見せるが、目の奥は鋭く光っている。
赤也は背筋を駆け上がる戦慄に体温が下がる思いをした。
「何か疚しい事でもあるのか?」
「えっと…あの…」
「赤也、一発殴らせろ」
「は?!」
振り上げられる右手に、咄嗟に腹の傷を庇い蹲る。
これまでの経験上、痕の目立ってしまう顔を殴る事はしないだろう事は想像できていた。
そうなれば、必ず彼はここを狙うに違いない。
ぶるぶると震えながら衝撃を待っているが、一向にそれはやってこない。
薄っすらと目を開けると呆れたように溜息を吐かれた。
「…って、言いたいところだけど…今日は許す」
「は?え?…は?あの…」
幸村はもう一度溜息を吐き、赤也の隣に座った。
そして赤也が持っていた包帯を取り上げると手当ての続きを始めた。
薬を塗った患部に綿布を当て、包帯を巻いていく。
「蓮二に何言われたんだ?」
丸井と同じような口調で、違う切り口の質問をされ赤也は一瞬呆けた。
この部屋を出た後、一体あの人はどのような様子だったのだ、と。
幸村は丸井のように受け流す事は許さず、明確な答えを言えと強い視線を向ける。
しばらく逡巡した後、赤也は重く口を開いた。
「え…っと…もう二度と、こんな風に…助けるなって」
「それから?」
「こんな思いは二度とごめんだって…」
長い包帯で腹を固定して、幸村は寝間着を着るように赤也に指示する。
言われるままベッドに置いたままの寝間着を羽織り釦を留めていく。
「それを聞いて、お前はどう思った?」
「どう…って……言われても…」
一体幸村がどんな答えを望んでいるのかが解らないのだ。
先程感じた恐怖はまだ完全に拭えたわけではない。
一歩間違えれば間違いなく殴られる。
そんな恐怖心が赤也の口を更に重くさせる。
「別に怒ったりしないから正直に言ってみな」
「はあ…」
半信半疑ではあるが、これ以上答えを引き伸ばすと本気で怒りを買いかねない。
赤也は一言一言を慎重に選びながら話し始めた。
「えっと…あんな風に、俺の事盾にするみたいに言ってたけど…こうやって心配してくれるって事は……やっぱ優しい人なんだなって…思ったっス」
「どうしてか解るか?」
「だから…優しいから……」
なるべく本心に添った、無難な返答をしていったが幸村は気に入らないらしく大仰に肩を落とした。
「お前…この数ヶ月蓮二の一番側にいて何を見てきたんだ…」
「え?」
「いいか?あいつは身近な人間にこそ優しいがそれ以外の人間には非道そのものだ。それはお前が一番よく解っているはずだろう?」
「それは…ハイ……」
幸村の言葉に赤也は以前あった暗殺未遂事件を思い出した。
その様な行為を平気な顔で遂行できるのだ。
そして平素も政に携わる大臣や貴族達に対しても冷酷な一面を見せていた。
「そんなあいつがお前に甘い態度を見せているって事は……もうお前はあいつの内側に入ってるって事なんだ」
あの事件の後、幸村は赤也の代わりなどいくらでもいると言った。
しかし今は違う。
今柳から赤也を奪えばどうなるか、想像に易いようで難い。
過去、騎士団の面々以外にこうして柳が心を許した相手などほぼ皆無であった。
だから全く予想がつかないのだ。
だが間違いなく壊れてしまうだろう事だけは確かで、それが負の方向に働いてしまえば国が傾く。
そのような事態を避けなければならないのは当然の事だが、しかしそれ以上にそんな柳を見たくはないと幸村は唇を噛む。
「勘のいいお前の事だ…もう気付いたんだろう?蓮二の思いに」
「それは…けど……でも…絶対そんなはずねえし…そんな…自惚れてるみたいな事……」
「自惚れていいんだ!!…それで合っている」
その言葉に赤也の脳裏には先刻の柳の見せた深く悲しみを湛えた瞳が駆け巡る。
あれは演技で取り繕って見せられるようなものではない。
幸村の言葉が全て真実であると裏付けるには充分だった。
「けどあいつは…お前にそれを告げる事は無い。俺と約束したから…一生、気持ちを胸にしまったままにすると」
どうして、と言いかけて赤也は口を噤んだ。
当然の事だろう。言えるはずも無いのだ。
柳はこの国の女王で、赤也は二等身分を与えられたとはいえ配下に過ぎない。
歴然たるこの身分の差に、口外など以ての外だろう事は明白だ。
赤也は俯き膝の上で拳を握り締める。
「無茶な事を要求してしまったと思っている。だがこれはあいつと…お前を守る事にもなる」
「……ハイ…」
「俺はあいつから…お前を取り上げたくない」
見た事もないほど苦しげに紡がれる幸村の言葉は赤也の心を直に掴む。
親友の為に心を砕くその姿に、赤也は静かに誓った。
「俺も…言わないっス。一生……この気持ち…腹ん中で飼ったままにしときます」
元よりそのつもりだったのだ。
生涯騎士としての任務を全うし、柳の側にいられるのならばそれで充分だと思っていた。
そもそもこのような思いを抱く事自体、非礼で驕慢なのだ。
知れた時点で処分されても不服を申し立てれるわけもない。
それをこうして秘めた形とはいえ黙許してくれるというのだ、それ以上の何を望むというのだろう。
「本当に…それでいいのか?お前は、一生蓮二の側にいると誓えるか?
たとえあいつが…次期女王の妻を娶ったとしても、今と変わらない思いでいられるのか?」
「それは…」
一瞬赤也の中に過ぎる黒い感情を幸村は見逃さなかった。
視線を逸らす赤也の肩を叩き、向き直らせると言葉を繋げる。
「それが出来ないのなら、今すぐここを出てくれ。もちろん次の仕事は用意する。俸禄は…今の二倍出そう。
今回の働きに対する恩賞をお前の家へも贈る。どうだ?」
その言葉に、揺らいだ赤也の気持ちは焦点を取り戻した。
金も、地位も名誉もなくこれまで仕えてきたのだ。
たとえどれだけの月日が流れようと、環境が変わろうと決して色褪せたりはしない。
例えばいつの日か柳の持つ赤也への思いがただの配下へのものに変わったとしても、だ。
赤也が抱く柳への思いは、それほどまでに尊いものへと昇華していた。
だから赤也は幸村の申し出を丁重に断った。
決して揺るがない態度に変わり、幸村は安堵の息を吐いた。
「そう…よかった。あいつを信じられるって言い切ってくれて、本当によかったよ。
思いが叶わないならせめて…お前だけが受け入れてくれればなんて勝手な事思ってたから」
「俺…またあの人の側にいていいんっスよね?」
こんな身分不相応な思いを抱えたまま、と呟く赤也の腹を幸村は力一杯叩いた。
拳ではないだけまだ手心を加えたのだろう。
それに傷は触る事はなかった。
しかし平手で与えられた衝撃は弱気の赤也を黙らせるには充分だった。
「馬鹿。人が人を思うのに身分なんて関係ないだろう?言葉にするなって言ってるだけだ。
お前達の間にある思いまで、俺は止めるつもりはないよ」
「…ってぇー……っっ…マジ…これは効いた……」
「目、覚めただろう?」
「おもっきり…」
折角収まっていた灼熱を思わせるような痛みがぶり返し、
腹を抱え、うんうんと唸りベッドに転がる姿を幸村は楽しそうに見下ろす。
「お前はちょっとウザいぐらい押し強い方がいいんだよ。その方が蓮二も安心だろうし」
声に出来ない、表に出せない、それでも大丈夫だと思えるのは確固たる思いが二人の間にあるという真実があるからだ。
思いを言葉に出来ない事は、想像以上の隔たりになるだろう。
だがそんなものに惑わされず真実を貫き通して欲しい。
目に見える事実ではなく、二人の間にあるたった一つの真実を。
幸村はそんな叱咤激励を込めた平手を見舞ったのだ。
それが赤也に伝わったか否か、それは別問題ではあるが。
「離宮への出立は明後日早朝。それまでに荷物の準備しておけよ」
「……ういっス…!」
そう退室した幸村が残していった言葉は、赤也の疑問と不安を払拭するものだった。
【続】