セト5-2
簡素な造りの自分のベッドに横たわる赤也の顔を覗き、柳は縁に腰掛けるとそっと手を取った。
どうか死なないでくれ、どうか助かってくれという身勝手な願いを、慈悲深く気まぐれな太陽神はどうやら聞き入れてくれたようだ。
御殿医の見立てではもう大丈夫だ、心配はないとの事。
そしてその言葉を裏付けるように時折意識の浮上するような様子があった。
だがふわふわと眠りと現実を行き来するだけで、はっきりと目を覚ます事はない。
それでも、生きていてくれてよかったと心の底から思えた。
初めは心無く、本気で身代わりにするつもりでいた。
その為に策を弄し、思うまま扱ってきたのだ。
多くの人々の欲望から己を守るために非情に徹してきた。
しかし、赤也の心に触れ、それまで頑なに守ってきたものが全て崩れ去った。
それが何を意味するか、今は考えないようにしよう。
心に思いを押し込め、赤也から手を離して今度はソルを握り祈りを捧げた。
柳がしばらく顔を眺めて聖典の経を唱えていると唐突に赤也がふわりと目を開いた。
はっきりと意識を取り戻したかと思ったが、やはりまだ夢うつつのようで反応は薄い。
「……赤也?気分はどうだ?」
「や…な…さん…?」
「どこか…痛むか?」
身を乗り出し顔を近付けるが、言葉をつなげる様子はない。
まだ話す事は無理なのかと一旦体を起こした。
すると赤也は布団の中から腕を出し、何かを手探りするように宙を彷徨う。
何がしたいのか、不思議に思いながら柳はその手の先をそっと握った。
ようやく動きを止め、ああこの手を探していたのかと握り返す手を見つめる。
「どうした?」
声をかければ再び目を開き、今度ははっきりと柳に焦点を合わせる。
二三度ぱくぱくと口を動かすだけで音にはならない。
しかし次に聞こえてくる掠れた声に、柳の心臓は凍りついた。
恐怖や絶望に、ではない。
「ごめん、ね……」
あまりに予想外の言葉に驚かされ、身動きがとれなくなったのだ。
一体何に対しての謝罪なのだと、ただ目を見開き呆然と赤也を見下ろす事以外にできない。
「痛くなかった…?」
「…っ―――何?痛いのはお前だろう?」
「突き飛ばして…ごめ…ね。怪我…しなかったっスか?」
赤也はもう何日も眠っていた事に気付いていないのだろう。
唐突にそんな事を問いかける。
恐らくは襲い掛かられた瞬間、庇う為に咄嗟に出た行動を謝っているのだ。
言いたい事は次々と湧き上がる。
痛いのは、怪我をしたのはお前だ。
こんな状態になってまで何故こちらの心配をするのだ。
ああは言ってはいたが、何故ここまでして守ろうとしたのだ。
だが、そのどれも言葉にはできなかった。
柳は本当に心配そうに見上げる瞳に対して、ただ頭を縦に振り頷く。
「…ああ、大丈夫だ」
「そっか…よかったっス…」
強く手を握り直し、安心したように笑みを浮かべた後に再び目を閉じる。
「赤也…?おい赤也っ!」
焦って顔に耳を寄せれば規則正しい呼吸が聞こえる。
「何だ…眠っているだけか……」
手を動かした所為で肌蹴てしまった掛け布団を肩までかけてやり、ほっと息を漏らす。
こうして本気で安心している己を自嘲した。
つい先日までこうなる事も辞さないと言っていたというのに、と。
布団に隠れてしまった腕を再び引き出し、起こさないよう気をつけながら顔を近付ける。
いつだったか、赤也が柄にもなくこんな事をしていたなと思い出しながら、柳はそっと口付ける。
たった一度に本当に生きていてくれてありがとうという言葉にならない気持ちを込めた。
その時、コンコンと乾いた音が室内に鳴り響き、続いて幸村が顔を覗かせた。
「精市」
柳は慌てる様子もなく赤也の腕を布団に戻し、手を離した。
「どう?赤也の様子は」
「今…少し目を覚ました」
幸村はベッドに近付き、赤也の顔を覗き込むが眠っているのを確認する。
柳の言葉からまた眠りについたのかと推測した。
そして今にも泣き出しそうな柳の表情に気付き、そっと胸に抱き寄せた。
それは柳が何か行き詰まった時、落ち込んだ時など幸村が必ず取る行動だった。
されるがままに身をゆだねる柳の頭を優しく撫でると、震える声が伝わってくる。
「……すまん、精市」
「いいよ。もう解ってるから」
「…俺はどうかしている……」
掌で顔を覆うように項垂れ自嘲的に笑う柳に、幸村は腕の力を強める。
それ以上は言わなくていい、言うな、という意思表示だったが、柳は言葉を紡ぐ事を止めなかった。
「赤也を前にしていると…己の立場も何もかも全てを忘れてしまう……」
「うん」
「丸裸の一人の人間に戻って……」
「蓮二」
「俺は赤也を…」
「蓮二!」
強い調子で言葉を遮り、幸村は柳を体から離した。
そして跪き、柳の視線を下から捉える。
「…頼むから…それ以上は言わないでくれ、蓮二」
柳に女王としての立場があるように、幸村にも同じ様に立場がある。
女王と国家を守る近衛連隊の長として、しなければならない事が。
「そこから先を聞いてしまうと、俺はお前から赤也を奪わなければならなくなる」
国の女王と一兵士の恋など、たとえどのような経緯があれ許されるものではない。
今柳が思いを吐露してしまえば、幸村は国の大将として赤也を国賊として処分しなければならなくなる。
それは即ち、幸村にとって大切な人の、一番大切な人を奪ってしまう事なのだ。
幸村の苦しげな声と、真剣な瞳に柳は言葉を失った。
身勝手な思いの所為で友を、腹心を苦しめている。
「すまない…」
「謝るな。お前は悪くない」
再び立ち上がり、幸村は先程より強い力で柳の肩を抱きしめた。
ただ人を好きになるという、万人に与えられた幸せを奪ってしまっているのは自分たちなのだからと。
この国の民20万の平安の為に、たった一人を愛する事すら許されない。
本来あるべき姿ではないというのに国の為に尽力するこの仮初めの女王を、誰が責められよう。
いやしくもこの思いが漏洩し、その様な輩が出れば、この階級章にかけてでも全力で叩き潰す。
全ては無二の親友の為だ。幸村はそう密やかに心に誓った。
だが、そうならない為にも今守らなければならないのだ。
彼を。この国を。
「蓮二、一つだけ約束をして」
「……何だ?」
「その気持ちは、一生蓮二の心の中にしまったままにしてくれ」
「………解った」
それは酷な願いだと自覚していた。
このような事を命じなければならない己の立場を恨み、呪い、しかしその立場こそ彼を守れる全てで矛盾した思いが錯綜する。
そしてそんな幸村の複雑な心境を、柳は一番に理解している。
「辛くなったら…俺達も側にいるから」
「ああ…ありがとう……」
たった一言を口にすることを許されない不自由さと、誰よりも自分を大切にしてくれる友。
そして何より、誰より愛しいと、初めて思えた赤也。
柳はたくさんの思いを胸に、静かに頷いた。
【続】