セト5-1

公式行事を取りやめ、私室に戻った柳はまだ震える体を抑えられずにいた。
目の前で血の海に倒れ込む赤也を見て、平静を保てなかったのだ。
当たり前のように側にいた者がいなくなる。
それだけではない。
腕の中で動かなくなっていった者は、と思い付くが、柳はそれを振り払うように頭を振る。
「如何なさいましたか?」
「……いや…」
青い顔のまま消沈する柳を気遣い、柳生は落ち着くようにとハーブティーを運んできた。
匂いのきつい茶は好かん、と普段は飲まないものだ。
だが、今はその香りが酷く心を落ち着かせる。
柳は勧められるままゆっくりとカップに口を付け、一息吐いた。
ようやく体の震えが収まり、冷静な思考が戻ってきた。
それでも柳は怖ろしい程の静けさの中で、ただ胸の前に手を合わせ祈る事以外何もできなかった。
「柳君。これをどうぞ」
「…柳生……」
「何だ?それ」
柳生にそっと手渡されたネックレスに、桑原が興味を持った。
「ああ、君がこれを目にするのは初めてでしたね。これは王家に代々伝わる大切なソルです」
それは太陽を神と崇めるこの国における、祈念の際の神具だ。
香木で出来た珠を連ねた先には太陽を模る金と、その中央に大きな守護石が嵌め込まれていて、見るからに重厚感がある。
この国の民ならば誰もが一人一つ所有している物で、桑原自身も護符の様に普段から首に下げているが、これほどに立派な物は他にない。
普段は部屋の金庫で保管しているソルの管理は柳生がしていた。
元々信心深いわけではない柳も、今日ばかりは神に縋りたい程に追い詰められているのだ。
柳生はそんな柳の気持ちを察してそれを差し出した。
柳はそれを左手にかけると再び静かに祈り始める。
心の中に思う願いはただ一つ。
己の身代わりに血の海に伏したあの者を、助けてくれという事。
そうして一時間程が過ぎた頃、俄かに扉の外が騒がしくなった。
足音がそのまま室内に移り、柳が顔を上げると幸村達が目に映る。
「…精市!!赤也は…赤也の加減は?!」
途端に立ち上がり、縋り付く柳に幸村は安心させるように微笑んだ。
「落ち着いて。赤也なら大丈夫だ」
「…本当…に…?」
「ほんっっと悪運の強い奴で逆に呆れたよ。突き刺されたと思ったけど中に着てた帷子のおかげか
出血の割に傷が浅くて内臓にまで達してなかったんだよ、剣先は。
まあ普通の奴なら失血死しそうなもんだけど…あいつ、血の気多いから。しばらく安静にしていれば大丈夫だって」
衛生兵だけでは心許無いと、真田は禁裏付である御殿医に手当てを頼んだ。
特例中の特例であったが、女王自身の命という事で了承してもらい、幸いにも一命を取り留める事が叶った。
それを聞き安心した柳は刹那、意識を失った。
膝から崩れ落ちるように力が抜けるのを、幸村が抱き止める。
「蓮二!!?」
「―――っ…すまん…大丈夫…だ」
支える幸村に肩を揺さぶられ、すぐに意識は浮上した。
だが顔色は優れないままで、青白さを通り越し紙の様に白い。
「大丈夫じゃないだろう。少し横になれ」
幸村のすぐ後ろにいた真田が一歩前に出てベッドまで連れて行き、座らせる。
まだ何か言いたげな柳を視線で制し、柳生に目をやった。
柳生は御意に、と頷き、静かに近付くと柳をベッドに横たわらせた。
「今はゆっくり休んでください。そんなお顔色では、切原君が目を覚ました時に…心配させてしまいますよ?」
「……そうだな…ありがとう…皆……」
小さく呟き、すぐに緊張の糸が途切れたように意識を飛ばす柳を、幸村は複雑な思いで見下ろす。
これがあの冷静で非情の限りを口にしていた者と同じ人物なのだろうか。
そっと頬を撫でると苦しそうな表情を見せ、うわ言のように血に伏した者の名を呼ぶ。
何度も、何度も愛しむように。
「鋼鉄の棘は剥がれ落ちた……か…」
「何かおっしゃいましたか?」
幸村の小さな呟きを敏く拾う柳生に苦笑いを残し、部屋を出た。
柳の心は確実に捉えられている。
卑しい出自で、突飛した武道の才がある以外に何の変哲も無いあの男に。
柳は女王を冠して以来取り入ろうとする周囲を排し、非情に徹してきていた。
否、事実親しい者以外には怖ろしい程に非情なのだ、柳蓮二という男は。
日頃厳しい顔をしている真田の方が余程に人情があると幸村は思っている。
そんな彼を絆したというのだ。
予想外ではあるが、ある程度予知していた部分もあるかもしれない。
切原赤也という人物が、もしかすれば何か事を起こしてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて人事を行った。
今振り返れば、それが最も納得のできる答えだった。
国家の母として、国の為、民の為に変わっていく姿に心を痛めていた訳ではない。
それが当然の事だからだ。
そしてそうする事は彼自身を守る事にも繋がる。
だが、反して友人として接していて、変わってしまった彼に違和感を感じていた事も事実。
「……以前のような優しい蓮二に…戻って欲しかったのかな…俺は…」
「何をたわけた事を」
独り言を聞かれていたとは思っておらず、幸村は驚き顔を上げた。
いつの間にか部屋を出ていた真田がすぐ背後に立っている。
「真田…」
「お前は一体あいつの何を見てきたのだ」
「…何?」
「蓮二は何も変わってはいない」
真田の真っ直ぐな意見は尤もであった。
幸村はふっと表情を緩める。
「そうだったな…大切な事を忘れるところだったよ」
狭い空間、女王の私室でのみ見せていた素顔が、彼こそが本当の柳蓮二という人物なのだ。
そこに入り込んだ時点で、今のこの結果は見えていた。
情が深く、解りにくい場所にあるものの、確かに心の奥底にある優しさに触れた赤也が傾倒する事も、
柳がどこまでも真っ直ぐで強い意志を湛えた瞳を持つ赤也に惹かれる事も。
「だが二人は女王と騎士だ。道ならぬものだぞ」
それが現実だ、と真田の抑揚のない声が心を突く。
「愛こそ全て、とはいかないな…残念だけどこれ以上深入りさせないようにしないと」
しかしそれが無理であろう事は、すでに幸村にも解っていた事だった。

数日の後、赤也を除いた騎士団が厳重警護をしている中で、一旦は中止になった公式行事が無事に終わった。
先日の一件から芋蔓式に湧いて出る反王室一派を一掃する事が叶い、王宮は僅かながらではあるが平和を取り戻した。
引きずり出された賊は鬼将軍の手により言語に絶する処罰を受けた、
などという噂とも真実とも取れる囁きがあちらこちらから聞こえる。
これで馬鹿な真似をする輩はしばらく出てこないだろう。
騎士の面々は警戒態勢を緩め、同胞の快報を待った。
そんな中、柳はいつものようにすぐに王宮を離れようとはせず、執務のない時間はずっと衛生室に行って、赤也の側で回復を祈っていた。
衛生兵達は部屋に居座る女王に戸惑い、衛兵達も普段拝する事の叶わない女王を前にどこか気が漫ろになり、
そして苦言を呈する大臣達に、ついに幸村が部屋に戻るよう進言した。
「蓮二、いい加減ここを離れろ。心配なのは解るがこいつなら大丈夫だ」
人払いをし、眠る赤也の側を離れようとしない柳の顔を伺いながら話を切り出す。
柳は心配そうに見守る他の騎士達を見遣り、一瞬考える様子を見せた後、とんでもない事を言い始めた。
「…ならば赤也を俺の部屋に」
「何言ってるんだ?ここは離宮じゃないんだ。他の者の目もある。騎士とはいえ女王の私室に一兵士を入れるなど前代未聞だ」
「五月蝿い!命令だ!!」
長く付き合いのある幸村達であったが、こんな風に声を荒げ、権力を行使する事はなかった。
自分達の間には身分の差があり、それは仕方のない事だが、友として平等でありたいと常々言っていたからだ。
しかし、そんな事も頭にない程に追い詰められている。
「しかし…!」
「解った。言う通りにしよう」
「真田っ!?」
真田はまだ何かを言おうとする幸村の肩を掴み、言葉を止めさせる。
「……我らが主君の命は絶対だ。誰か、手を貸してくれ。赤也を女王の私室に」
「あ…ああ。解った」
真田の声に桑原が真っ先に反応し、側にあった担架を用意した。
その上に赤也を乗せると、反対側を丸井が持ち部屋を出て行く。
「私達も行きましょう、仁王君」
枕元に置いてある水差しや薬を乗せた盆を手に、柳生と仁王も続いて部屋を出て行き、衛生室は三人だけとなった。
足音の遠ざかるのを聞き、幸村が静かに口を開く。
「…どういうつもりだ真田」
「どうもこうもない。女王の命は絶対だ、と言ったはずだ」
掴み合う事は無かったが、剣呑な雰囲気を纏う二人の間に柳が入った。
そしてつい感情のまま怒鳴ってしまった事を後悔する。
「すまん、俺の我侭の所為で…」
冷静さを取り戻した柳に触発されるように、二人も間合いを取り落ち着いた。
「お前が赤也を心配する気持ちは解った。だが幸村の言う通り、
ここは離宮と違い自由の利かぬ場所だという事はお前も解っているだろう」
「……ああ…」
真田の言う事は、誰よりも柳が一番解っている。
だが今は、今だけは赤也の側を離れたくない。
その柳の言い分も痛いほど二人に伝わる。
「ここに連二が入り浸るより、赤也を部屋に連れ帰った方が都合良いかもしれんぞ、幸村」
「…あ、そうか!御匙が出入りしても不自然じゃないしな」
「…え?あ…なるほど…俺を診ていると言えばいいのか」
本来王家の為の御殿医が兵の為の衛生室に出入りする事自体が異様な光景なのだ。
しかし女王の私室ならばそれも不自然ではない。
平素の柳ならば真っ先に思いつこうものだが、冷静さを欠いた今の状況ではそこまで頭が回らなかった。
「赤也は怪我で外での警護は出来ないから室内警護に徹しているとでも言えば大臣達も納得するだろう」
「珍しく冴えてるな、真田」
「珍しくは余計だ」
「いや、精市の言い分が正しい」
「お前までなんだ!連二!」
一瞬悪い空気が流れたが、すぐに軽口を叩き合う。
最も長く付き合う三人だからこそ成せる事だった。
柳は二人の心遣いに感謝し、今後二度とあのような取り乱し方をしないようにと心に決めた。


【続】

 

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