セト14-1
静か過ぎる要塞の片隅にある特等室ともいえる部屋、その窓際に座りぼんやりと花に溢れた庭を眺める柳の姿を見て、乾は溜息を吐いた。
「また食べないのか?」
テーブルに置かれたままの朝食を見て部屋の隅にいる侍女に尋ねる。
「…はい…こちらへ来てより三日…何も口にされていません」
「水も?」
視線を落とし、はいと小さく呟く侍女を見て、もう一度大きく肩で息を吐いた。
騒ぎに乗じて無理矢理馬車に押し込め、連れて来た隣国の前女王は抜け殻となり、昼も夜もなく窓際に座ったままだ。
これは自分の声など届いていないだろうと思い、世話を部屋付きの侍女に命じて退室しようとした。
「貞治……ここは美しいな…」
だが背後からする小さな声に足を止めた。
「…蓮二」
「少し外の空気を吸いたい……誰か、案内してくれないか?ここの………庭を見たい」
「解った。だがその前に…着替えるんだ。いつまでもその格好ではな…」
柳はまだここへ来た日のままだった。
真っ白なヘベの礼服は赤也の血で染まり、すでに黒く変色してしまっている。
着替えるように言う周囲の声にも耳を貸さず、頑なにその姿を突き通していた。
しかし漸く柳も着替える気になったのか、乾の提案に小さく頷いた。
それを見た乾は侍女に風呂に連れて行くように言い、部下に庭を案内するよう命じて退室した。
言われるままに風呂に入り、用意された服を着て広い庭に出た。
閉鎖された空間であるはずの城だが、その広さ故にどこまでも続いているような錯覚すら覚える。
セトの花暦など比ではない美しい庭を目の当たりにして、漸く荒れた気持ちが凪いでいく。
ふと視界の隅で動く影に気付き、そちらへ向かった。
「誰かいるのか?」
「―――っっ!!!」
花壇に隠れるようにうずくまっていたのは、血に汚れた服をまとった男だった。
「どうした…ケガをしているじゃないか」
「うるせぇ!!俺に触んじゃねえ!!」
「おっ……と」
数日何も口にしていなかった柳は、男の腕を振り払う動きに体がついていかず、よろめいてしまいすぐ後ろに控えていた案内役の乾の部下に体を支えられる。
そんな柳の姿にいささかバツの悪い顔をする男を見て、彼がそれほどに悪い人間ではないと悟った。
柳は男の傷だらけの手足を見て溜息を吐き、案内役に向けて言った。
「傷の手当が必要だな……薬や包帯の用意をお願いできるか?」
「いや、あの…それは」
だが案内役の男がそれを拒む態度を見せ、それを受けて男は更に噛みつく。
「必要ねえ!俺に構うな!!」
「そうはいかないな。どうした?早く彼に手当てを」
その場から動く様子を見せない案内役は悪い事をしていると自覚しているのか目を逸らしながら答えた。
「出来ません。閣下の命に背く事になりますから」
「…貞治の?どういう意味だ?」
「その、彼には誰も関わらぬよう、言いつけられております…背けば、即処刑です」
うつむき案内役の言葉を聞いていた手負いの男は再び勢いよく腕を振り回した。
「解っただろ。俺は疫病神なんだ。アンタも首をはねられる前に…」
突然柳は二人から離れる。
漸く言葉を聞き入れてもらえたのだとホッとする男だったが、おもむろに柳は花壇を作っているレンガの角に己の手の甲を打ちつけた。
「―――っ!何やってんだ、アンタ!!」
白い肌に擦り傷が幾重にも出来て血がにじんでいる。
その行動に唖然としている案内役に向けて平然と言ってのけた。
「怪我をしてしまったから薬箱と水差しをここに」
「えっ…」
「早く!」
「はっ、はい!!」
慌てて転がるようにその場を離れ、僅か一分足らずで使いに出された男はなみなみと水の注がれた大きな水差しと小さな薬箱を抱えて戻ってきた。
「ありがとう。ああ、お前はもう下がって結構。案内ご苦労だった」
「はっ!」
これから柳が何をしようとしているかを察した案内役は逃げるようにその場を後にした。
遠くに見張りの兵が見える以外に誰もいなくなった庭の片隅にある花壇の縁に隣り合うよう座り、改めて男と向き合う。
「手を出しなさい。まずはその傷を洗わなければ」
「っ!先にアンタの手当てしろよ!何でこんな事までして……」
「ああ、そうだな。その代わり、俺の手当てが終わるまではここを離れないと約束してくれ」
男が頷くのを確認すると、柳は手早く自らの傷ついた手に薬を塗り包帯を巻いた。
そして漸く手負いの男の手当てを始める。
「……アンタ…誰なんだ。見慣れねえ顔だけど…新しい軍医か何かか?」
水差しの水で傷を洗い、丁寧に薬を塗り込めていると、不意に尋ねられた。
少し警戒心が解けたかと安心した柳は傷に視線を落としたまま答える。
「そう見えるか?」
「いや…」
そわそわと落ち着きなく周囲を気にしている男に、少し笑ってみせる。
「心配せずとも、俺は処刑などされない。この国の人間ではないからな」
「えっ…じゃあまさか……セトから来たっていう…」
「ああ、その通りだ」
軽く頷いてみせる柳に顔を青くした男は慌てた様子で立ち上がり、急ぎひざまずいた。
そして腰を直角に曲げて頭を下げる。
「失礼いたしました!閣下がお連れになったセトの女王陛下とは知らず無礼を…!」
「そんなかしこまらなくていい。俺はもう女王ではないし…ここでの役割は戦略対策用の参謀、ただの一軍人に過ぎん」
「しかし…」
彼も今はあまり綺麗な身なりをしていないが、どことなく品がある。
先刻の案内役の男の言い分から察するに卑しい身分ではないはずだと柳は思っていた。
「ほら、そんな事より手当ての続きを。本当に…何をすればこれほどまでに傷を作れる?」
「これは…その、そこの馬厩で……馬の世話をしていたら…耳に虻が入ったみたいで急に暴れ出して」
この国にいるのはセトのように主に移動に使うだけの馬ではない、戦の最前線に出るような大きな馬だ。
そんなものに蹴られてはひとたまりもないだろう事は想像に易い。
「それで怪我をしてしまったのか…他には?頭や背中は打っていないか?」
「は、はい!いえ、大丈夫です!申し訳ありません!殿下のお手を煩わせるような真似を…」
「だから気にしなくてもよい。それに、これも懐柔する為の一つの策やもしれんのだぞ?俺は今この国で味方もいないたった一人の状態だからな」
「そ…れは…」
「母国では鋼鉄の刺を持つ薔薇の女王と呼ばれていた男だ、努々油断すまいぞ」
恐縮しきりの男をからかうように言うと、呆然とした表情を返され、柳は思わず笑ってしまう。
「ほら、手当ては済んだ。今日は部屋でゆっくりと休むといい。気付いていないだけで頭や体を打っているかもしれないからな…安静にしていなさい」
「ありがとうございました。失礼いたします」
礼儀正しく深々と礼をする彼は、時折腕や背中を気にしていた。
遠慮して言っていなかったがやはり体も痛むのだろう、素直に柳の言葉に従った。
城の中に消える背中を見届けると、薬や包帯の残りを箱に片付ける。
すると物影から入れ替わるように乾がやってきた。
「やあ、蓮二」
「貞治……やはり覗いていたか。殺気でバレバレだ」
「相変わらず鋭いな。下手すると前線で戦ってるうちの兵士達より優秀だなあ」
「それだけ俺も色々あったという事だ」
薬箱とカラの水差しを乾の連れていた部下に渡すと、柳は今度こそ庭に出た。
むせるような花と緑のみずみずしい香りは祖国にはなかったものだ。
それを一つ一つ愛でるように眺めていると、いつの間にか乾が側にやってきていた。
連れていた部下は下がらせたようで、珍しく二人きりとなる。
「ありがとう、蓮二」
「何がだ」
「さっきの子だよ。わざわざ…策を弄してまで手当てしてくれて」
「気まぐれだ。それより…随分な入れ込みようだな。誰とも関わらないよう命じるなど」
にっこりと食えない笑みを浮かべ、何も言わない乾に冷ややかな視線を残し、更に庭の奥へと進んでいく。
「蓮二が国を守る為に個を犠牲にしたのと逆だよ」
森のように鬱蒼と草木生い茂る場所へさしかかった時、不意に背後にいた乾が口を開く。
それに驚き後ろを振り返るが、相手は逆光も手伝い何を表情に浮かべているかは解らなかった。
「俺は個を守る為に国を一つ滅ぼした」
「どういう…意味だ?まさかあの子を守る為に…」
「ああ、そうだ。前政権時代の悪政に苦しめられていた。だからそれを助けたくてね…この無茶の連続だよ」
よもやそんな個人的な理由でクーデターを起こしていたなど、誰が想像しようか。
呆然と乾の顔を見つめていると、雲が太陽を覆い、ようやくとその表情を映し出した。
穏やかな、まるでセトにいた頃と変わらない表情をしている。
最近見ていた険しい表情とは別人のようだった。
「実質俺が国の指揮官ではあるが…その時の借りが沢山あるんだ、今の国の重役達には。
正直なところ、それを盾にされると強くは出られない。だからどうしても蓮二が必要だった。
俺の味方をしてくれる知将がね…どんな手を使ってでも欲しかった」
「だがそれはお前の都合だ。俺から赤也を…赤也から俺を奪っていい理由にはならん」
静かに言ったつもりであったが、存外厳しい口調となってしまう。
しかし乾は態度を変えずに毅然と答えた。
「解ってるよ。悪い事をしたと思っている。けど謝らないよ…間違えた事をしたとは思ってないから」
「……やはり変わったな、貞治。目的の為に手段を選ばないなど、昔のお前では考えられん」
「お前も変わったよ、蓮二。そんな風に甘い事を言うなんてね。どんな手を使ってでも、結果が全てだって考え方してたくせに」
刹那、見つめ合い、溜息混じりに先に目を逸らしたのは柳だった。
「人は大切な者の為に強くなれるが…逆に弱くなりもする。お前は前者、俺は後者だったというだけだ」
「蓮二は強いよ、今も」
「さあ、それはどうだろうな。もう俺はお前の知っていた頃の俺ではない。赤也が側にいない俺は所詮不完全な肉塊でしかない。早計だったな…俺と赤也を引き離したのは大いなる誤算だ。俺一人ここへ連れて来たとて、お前の望む働きなど出来んぞ」
そうはっきり言い切る柳がとても尊く美しいものに感じられる。
恨み節の一つでも聞かせられれば少しは動きやすかったかもしれないと乾は思った。
「あ、蓮二」
それ以上何も言う事はないと、きびすを返す柳を慌てて呼び止める。
城に向けて歩みを進めていた柳は少しの間を置き振り返った。
「切原君を呼ぶにしても、お前を国に帰すにしても…今のままではどうにもならない。
俺を、この国を恨んでくれても構わないから…食事だけは取ってくれ。このままじゃ蓮二が心配だ」
「……ご忠告、ありがとう」
嫌味を含んだ口調でそう返すと、柳は城へと戻っていった。
【続】