サクラミズ9

::: 九 春、散リユク華 :::


ずっと側にいるから、神に誓ってずっと側にいるから。
どうしてそれを言葉に出来なかったのかと悔やまれてならない。
本当に誓わなければならなかったのは、神ではなく、彼本人にだ。
愛してる、ただその一言を君に伝えたかった。
だけどそれも叶わない。

天つ風 雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

想いは天をも貫き、君は逝ってしまった
俺の手の届かない場所へと。







「謙也ァ―――――――――――――――――――――っっっ!!!!!」
「またお前かい……」
うんざり、といった表情で謙也は桜吹雪の向こう側からやってくる影を一瞥した。
「んな嫌そうな顔すんなや!」
いつもの様に桜の木の下で読書をしていた謙也は遠くからする声の主、ユウジに心底嫌そうな顔を向けていた。
抗議の言葉を吐きながらユウジはいつかの如く謙也の前に正座する。
「五月蠅いでー」
「そんなの前からやろ!それよりっっ…陸軍士官学校行くて、どどどっどういう事やねん?!」
本を閉じかけた手を一瞬止め薄笑いを浮かべる謙也に、ユウジはその情報が真であると確信した。
「謙也ーっっ!!」
「謙也くぅーん!!!!」
漸く黙ったユウジにホッとしたのも束の間、続けざまに白石と小春が遠くから走りこんでくるのが見える。
恐らくは同じ要件だろう。
騒がしい小春ならともかく、いつも冷静な白石があのような取り乱し方をしているのだから、と思い落ち着いた頭で考える。
「ちょっとぉお!!陸軍入るってどういう事なん?!あんた今戦局がどないなってるか解ってんの?!」
「小春の言う通りや。今士官学校なんか入ったら…すぐ戦地送られんで?」
時は過ぎ、今期はユウジの試験も無事済み、四人揃って進級する事ができ、大学生活最後の春を迎えていた。
年末開戦したこの国と海を挟んだ大国との闘争。
火の粉は謙也たち若者にも降りかかっていた。
次々と学友たちが徴兵されていく中、謙也は自ら進んで軍隊に配属されたいというのだ。
周りは大反対だった。
ユウジと違い成績優秀な謙也は今年一年頑張れば主席で卒業できると教授陣の間でも太鼓判を押されていた。
それを振り切り入隊を決めた謙也の思いなど誰も理解できないでいた。
「謙也っ!お前なぁ…このまんま一緒に卒業しよやー…」
「自分、教育学部やねんしすぐ徴兵される心配ないけど…俺はどの道徴集されんねん…早いか遅いかの差やわ」
「そない言うたかてー……わざわざ自分から飛び込んでく事ないやんけ!!」
「火ニ赴ク蛾ガ如シ…ってな。英雄みたいで格好ええやろ?」
「全っ然良ぉないわい!ガがどないしたとかこないしたとか火で燃やしたとか意味解らんわ!!」
謙也の言う難度の高い冗談がユウジに通じる筈もなく、茶化してその場の空気を和ませようとする作戦は失敗に終わった。
誤魔化し切れないユウジや小春、白石の真っ直ぐな瞳に謙也は自嘲的に一笑した。
「…まさかとは思うけど、後追いとかする気ちゃうやろな」
「はぁ?」
白石の突拍子もない言葉に謙也は間の抜けた返事をする。
「前言うとったあの子や。自棄になってへんやろな?自棄っぱちで戦地に行くなんて…どんだけ馬鹿げた事か、お前でも解るやろ」
「…別にそんなんちゃうよ。これは自分の意志で決めた事なんやし」
不機嫌に睨みつける三人の視線から逃れる様に謙也は立ち上がり桜の木を見上げた。
はらはらと舞う薄紅色の花びらが謙也の色素の薄い髪に絡まる。
一枚、二枚、数十、数百、春嵐にさらわれる桜を眺め、今年の花はいつもより命が短いかもしれないと謙也はぼんやりと思っていた。
華麗に咲き誇り儚く散る様は、正に鮮烈に生きた彼のようだと毎年毎年この薄紅の嵐に重ねてしまう。
独りこの季節を迎えるたびに空っぽになってしまった心を掠める想いに辛い思いをするのはもう沢山だと。
納得しない様子のユウジにはああ言ったが本当はこのまま生きていく事が辛かった。
それが謙也の正直な気持ちだった。
「兎に角、止めてももう無駄やで。退学届も受理されたし…来週にもここ離れるよって」
「え?田舎帰んのか?」
「アーホ。どうやって実家から学校まで通うねん。まぁ…入隊する前に一回は実家帰るけどな、顔見せに」
「そ、か………」
暗い表情のまま俯き鼻をすする音に謙也は笑いながらその頭を小突いた。
「なーに泣いとんねん!俺おらんでも、こいつらおるんやし寂しないやろ?」
「アホかーっっっ!!こいつらはこいつら!お前はお前じゃ!!」
「解ったから泣くなや…めっちゃぶっさいくなっとんで」
子供の様に地団太を踏みながら涙々に訴えるユウジに、謙也は苦笑いしながら宥めるように肩を叩いた。
せめて彼の数十分の一だけでもこんなに純粋に感情さらけ出せる素直さがあればと思いながら。
「謙也お前…絶対またここ戻って来ぃや!!死んだらぶっ飛ばしに行くかなら!!前歯折れるくらいぐぅで殴ったるよって覚悟せぇや!!」
「死んだらどないして殴るねん…」
目の前に拳を突きつけられるものの、素朴な疑問が湧き最早謙也からは呆れ混じりの乾いた笑いしか出てこない。
「あ、そか……ほな無事生きて帰ってきたら殴ったる!!」
「何でやねん!!俺お前に殴られに帰ってくるんけ!」
「そうじゃボケ!男同士の拳の約束じゃ!!」
「あ、ほな俺も殴らしてもらおかな」
「ほなうちも!」
冗談のようで、真剣な表情の窺える白石と小春にも視線を送り、謙也は仕方ないといった調子で頷く。
謙也にとっての初めての親友達はどこまでも真っ直ぐな奴らだった。
上辺だけではなく真剣に心配をしてくれる彼との約束を反故できない。
だがこれから飛び込む世界はそんな約束など呆気なく壊されてしまう様な場所なのだ。
謙也は別れ際、皆と固く手を握り合った。
もうこの地には帰ってこないだろう。
否、これないのだ。
そんな矛盾した思いを抱えたまま、謙也は数年振りに故郷へ向かう列車へと乗り込んだ。
きっと実家の庭に咲く桜も満開だろう。
下りの汽車に揺られながら謙也は流れる景色を目で追った。
菜の花畑は黄色い絨毯、山の裾野は桜の薄紅の帯。
謙也は何もかもが浮き足立った陽気の春が嫌いだった。
最後はどんな思いだったのだろう、彼は何を思いこの手を離れたのだろうと。
淡い光の中、色濃く思い出してしまうのは彼を失くした春の事ばかりだからだ。
だけど懐に大切にしまわれた香り袋は春の優しい香りを漂わせている。
これは君を想う香り、そう思い謙也はずっと捨てられないでいた。
列車が故郷に到着するまでまだゆうに数時間はある。
謙也は目を閉じるとそのまま夢の世界へと旅立った。










いつだって君を求めている。
夢の中でも君の笑顔をずっと探している。
もう逢えやしないのに。
二度と逢えやしないというのに。










「謙也君………ありがとう。明日もまた…来てな」
ずっとおかしいと思っていたのだ。
一度だって己の望みなど自発しなかった光が突然そんな事を言ったのだから。
サクラミズ、と呼ばれる古い言伝えで言葉に出来なかった互いの想いを伝え合ったその日。
別れ際に言った光のその言葉は謙也の心に黒い影を落とした。
不安定な毎日を送っていた為、些細な変化にも敏感になってしまっていた。
「あ…あぁ、もちろんや。ほなまた明日…」
手を振って病室を出た謙也の耳には届いていなかった。
独りきりになった部屋に響いた光の最後の言葉が。

「さよなら…謙也君」

翌日は学校が休みだった為、謙也は朝から病院に出向くつもりだった。
しかし父親に使いを頼まれ隣町にまで行かなければならなくなってしまった。
増に光への伝言を託すと急いで家を後にした。
自家用車と運転手は父親が別件で使う為隣町までのは徒歩。
その間も思うのは光の事ばかり。
早く用事を済ませて光に会いに行こうと、謙也は山道を只管走り続けた。
だが使いに行った先で思いの外足止めを食らってしまい、結局帰路に着いたのは日も暮れた後だった。
一度家に帰ってしまえばもう外出は許してもらえないだろうと謙也はその帰りに直接病院へと向かった。
それほど大きくもない田舎の小さな病院の庭先が何やら騒々しい。
その人垣の正体は病院に常駐している医師や看護婦、それに忍足家の使用人が数名。
謙也は足早に人の群へと近付いた。
「どないしたんですか?」
誰ともなしに話しかけると、すぐに気付いた増が輪の中から抜け出してきた。
「坊ちゃん!お帰りなさいまし!!あぁ…お待ちしてましたよ」
「何かあったん?」
焦って息を切らせている増は謙也の腕を掴むと涙ながらに答えた。
「光さんが…光さんが行方不明なんです」
「……え…?」
手拭を握り締めおいおいと泣く増には状況は離せないだろうと顔見知りの看護婦が代わりに説明をしてくれる。
「朝…転院手続きをしに来られた満様が引きずるようにどこかへお連れになったのを見たんですが…
私たちは東京の病院に移ったのだとばかり思っていたのですけど向こうの病院には来ていないと連絡が入って」
「それで彼女は?」
「お兄様と一緒に京都へ行かれたみたいで連絡がつかないんです」
「駅に聞いてみても汽車には乗っていないと言ってましたしまだこの辺にいるのかもしれないと
今、総出で探している途中なんですがまだ見つからなくて…」
「目闇の人間がそう遠くにも行けまいとこの辺りを探してはいるんですが…もし事故にでも遭ってたら……」
最悪の事態を思ったのか丁稚の一人が苦い表情を浮かべる。
その様子に謙也は胸倉を掴みかかり烈火の如く吠え掛かった。
「アホか――――っっ!!何で光が…っっ……」
「坊ちゃん落ち着いて!」
ぎりぎりと締め上げる腕を傍観していた他の奉公人が止めに入り、謙也は唇を噛み締め腕を緩めた。
「…とにかく捜すで…もっと人呼んで……怪我でもして動けんねやったらえらいこっちゃ……夜んなったらもっと冷え込むし…それまでに見つけたらな…」
そういい終えるより先に謙也は走り出していた。
闇に消える姿を追うように、他の者達も方々散り散りに走り出した。
昨日謙也の心の落ちた黒い影は急速に淡い幸せを蝕んでゆく。

光が自ら進んでいなくなったのか、それとも満が連れ出しどこかへ連れて行ったのかは定かではない。
しかし今光が居なくなってしまったのは紛れもない事実なのだ。
どうか無事でいてくれ。
謙也は祈る気持ちを胸に一晩中駆けずり回った。
疲れなど感じている暇はない。
泥だらけになり、声の限り呼び、脚などもう棒の様になっていたが転がるように歩を進め続けた。
「見つかったぞー!!」
そしてようやくその声を聞いたのは、夜も明けた頃。
東の空が白みかけ朝靄立ちこめる中だった。
その報を受け謙也は最後の力を振り絞り駆け出した。
知らされた場所は町外れにある池。
途中すれ違う皆の顔が悲愴なものだった事に不安を覚えながら急行した。
「…光…………」
大方の想像は裏切られなかった。
謙也は呆然と立ち尽くしその姿を見つめた。
池のほとりに立つ大きな桜の根元に寝かされている光。
その雪の様に白い肌が寝間着の合わせ部分から覗いている。
視線をずらせば目に入る池面は鮮烈な赤。
蒼白い顔から伸びる細い首と袖から覗く手首に真一文字には切り裂かれた傷口がある。
血の気を失くした顔はその傷の所為だろう。
紅を引いた女など比にならないほど鮮やかだった光の唇は真青に色褪せてしまっている。
そしてその白い手にはしっかりと、謙也の渡したサクラミズが握られていた。
「………ぅ…う…そ…やろ…?また俺揶揄ってんやろ?………悪い冗談はやめや…いつも言うとるやん……冗談は笑えるのにせぇって…」
ふらりと近寄る謙也を見たその場に居た者は、皆光の側から離れた。
一歩、また一歩と側に寄るたびに鮮明に感じるその気配に謙也は立っていられなかった。
足元から崩れる様に力なく座り込み、生を感じられない頬にそっと手を伸ばした。
氷の様に冷たい感覚が指先に伝わり、瞬時に感じ取ってしまった。
死、という信じ難い事実を。
「光…なぁ…おい……起きぃや…冗談やんな?またいきなり起きて脅かすつもりなんやろ?もう充分吃驚させられたって…ほんま…俺の負けやから…せ…やから………っっ目ぇ覚ませや!!なぁ!光!光―――っっ……」
冷たく凍りついた骸を抱き、謙也は辺り憚らず声を上げて泣いた。
しっかり者の嫡男はいつ何時も冷静であり人前で取り乱すなんて事は決してなかった。
そんな彼が子供の様に声を上げて泣いているのだ。
その悲痛な声は、快闊でいつも笑っている謙也しか知らなかった周りに居た者の心にも大きな衝撃を与えた。
そして彼らは婚約が決まってからもまだ光への気持ちを断ち切らないでいた謙也に対する不信感や、同性を想っているという不快感を持った事を激しく恥じた。
人を想う気持ちに男も女も身分も関係なく、まして今の謙也を見ればどれ程までに相手を好いていたかなど言わずとも解るというもの。
一報を受けて駆けつけた謙也の両親にもそれは充分すぎる程に伝わった。
しかし皮肉なのは、その結果が命を代償にしたものだという事。
やがて朝日が昇っても、謙也の悲鳴にも似たその声が止む事はなかった。





「き、京都に行く?!」
久々に家族が集まった夕食時。
お櫃のご飯をよそっていた増の大きな声に皆が顔を上げた。
「…京都の大学に進学なされるんですか?」
黙って頷く謙也の顔は暗く、決心の揺らぎもない事を感じる。
明朗だった謙也はあの日以来すっかり人が変わった様に無口になり笑う事もなくなっていた。
家の者だけで細々とされた光の葬式に姿を見せてからはずっと部屋にこもり誰とも口をきかなかった。
涙こそ見せないが、心の中では泣いているのだろう歯を食いしばり何かに堪える様子を見せていた。
この件に関して謙也は誰の事も責め様とはしなかった。
両親の事も満の事も、光に辛く当たっていた他の使用人たちも、そんな気力すら起こらないのだろう。
ただ脱け殻の様になってしまった謙也はろくに食事も睡眠も摂らずにずっと部屋にこもり、かつて光の住んでいた納屋を一日中眺めて過ごしていた。
使用人らは皆口を揃え、満が死ぬように仕向けたのではないかと噂していた。
当然謙也の耳にもそれは入っていたが噂を止めるように言う事はしなかった。
結果、渡邊家から正式に破談の申し入れがあり二度と満とも会うことはなかったのだった。
結局事故だったのか、殺人だったのか、それとも光が自ら命を絶ったのかは解らないでいた。
警察や医師が光の骸を触る事を頑として許さなかったからだ。
謙也にとってはそれは大した事ではなく、ただ、今光が側にいないというこの現実に立ち向かえないでいる。
そんな謙也が久方振りに夕食に顔を出し、突然そんな事を言い出したのだ。
相変わらず箸は一向に進む様子も無く食卓に座るとそれだけを言い、立ち上がった。
信じられないと目を見開き大粒の涙を零す母親と苦い顔をしたまま静かに頷く父親に一礼すると謙也はそのまま部屋に戻った。
耳鳴りさえ覚える程痛い静寂。
庭に咲いた沈丁花は胸が苦しいほどに甘い香りを振り撒いている。
結局この花の意味は教えてやれなかった、と。
謙也は大切に握り締めていた香り袋を見つめた。
どうしても伝えなければならなかった一言はついぞ彼には聞かせてやれなかった。
たった一言、だけどとても重い重い一言。
失う事を恐れなければならなかったのは、己の体裁ではなく何より大切にしたかった存在だった。
そして謙也はそれを失うことでしか気付けなかった己の愚かさを呪い続けた。

翌月、小さな手荷物一つで駅に立つ謙也の姿があった。
見送りは増ただ一人。
父は相も変わらず仕事に忙しく、母は謙也が東京行きを決めて以来床に伏せっている。
弟は兄や家の異常を察してか大人しく母の看病をしていた。
「坊ちゃん…どうかお元気で」
「増さんも…元気で…家の事よろしくな」
涙で頬を濡らし深々と頭を下げる増を見届けると、謙也は駅舎に滑り込んで来た上りの汽車に乗り込んだ。
胸に香る、サクラミズを忍ばせて。














地元駅の名を知らせる車掌の声に目を覚ました。
謙也は慌てて荷物をまとめると列車から降りた。
黒煙を吐きながら駅を後にする汽車を見送り、駅舎から一歩外に出る。
目の前に広がるのは懐かしい故郷の景色。
謙也はまっすぐに生家には向かわず反対方向へと歩を進め始めた。
京都よりも幾分南に位置するここだがまだ少し肌寒い。
しかしもう桜は咲いているらしく山は薄紅に染まっている。
そんな景色を眺めながら行き着いた先は、光の亡くなったあの池だった。


go page top