サクラミズ8
サクラミズ
::: 八 ソノ如月ノ望月ノ頃 :::
窓の外は年末に降り積もった雪がまだ少し残っている。
季節はいつしか冬を迎え、年を越して更にひと月が過ぎていた。
いつも光の側にあったはずの謙也の姿は見えない。
代わりに増がせっせと病室の掃除をしている。
「"あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの あふこともがな"…」
「え?何かおっしゃいましたか?」
「…いや、別に、何も言うてへんよ」
「そうですか…坊ちゃんも最近は試験でお忙しいようでなかなか光さんに会いに来れんて淋しいと仰ってましたよ」
増の言葉に光は唇だけで微笑み返す。
年を越えた頃から、明を失い次第に目の周りの筋力を失った光はその美しい瞳を見せる事が出来なくなっていた。
光りは映さずとも綺麗な光を自ら放っていた黒曜の瞳は重い瞼に遮られてしまっている。
謙也が来ない日も増相手に明るく振舞っていた光も今ではすっかり大人しくなった。
口数が減り笑う機会が減り、今は盲目の賢者の如く俯き加減に佇むだけ。
増は試験だ、と言っていたが本当はまたあの女が忍足家に来ているのであろうと勘の良い光は察していた。
そしてその事が光を物静かにする事に拍車をかけていた。
光の離散した家族は海外で新たな事業を立ち上げ、少しずつではあるが一家の立て直しを図っている。
だがそんな状態であるから、病に伏す光などとても呼び戻せないと言って連絡が途絶えてしまった。
そんな中、半月振りに謙也が病室を訪れた。
満に拘束されてばかりいた時間を増が都合してくれたらしい。
二人は彼女の心遣いに感謝した。
「すまんかったな。全然来れんかって…淋しかったやろ?」
「うん」
謙也は珍しく素直に返事をする光の驚いた面持ちで見つめ返す。
揶揄するつもりが思わず調子を狂わされ謙也は居心地悪そうに椅子に腰掛けた。
「あー…何か…して欲しい事あるか?って…今日だいぶ慌てて来たから何も…本持って来れんかったんやけど」
申し訳なさそうに言う謙也に向け、光は黙って手を差し出した。
暫く状況を理解できないでいる謙也に何かを催促するように掌を振る。
「な…何?何欲しいん?水か?」
「手」
「え?」
「手…握ってください」
語尾を上げず、半強制的な物言いに謙也は些か驚かされた。
いつもならば何かを頼みたい時は必ず謙也の様子を伺いながら遠慮がちに言うというのに、何故か強くそう言う光の手を黙って握る。
枝の先端の様に細く冷たい指を絡めとると、謙也の手の温もりが流れて行き二人の体温が混ざり合った。
「冷たっっ!!何やこれお前…手ぇ氷やんけ!…寒いんちゃうか?この部屋…暖房何もないし」
「…火は危ないんやいうて一人の時は使わせてもらえんよって。謙也君は?寒ないんっスか?
風邪でも引いて鼻垂れたらぶっさいくなってまうんやから気ぃつけや」
「俺の心配なんかええねん!自分の心配せぇや……お前こそ風邪でも引いたら大変やん」
「…俺は大丈夫やから」
しっかりと着込んでいる謙也でさえ寒く感じる病室で光は寝間着と増が自分の着物を潰して作ってくれた綿入れ一枚なのだ。
寒くないはずがない。
謙也は手を離すと着てきた外套を光の肩にかけてやった。
「ほら、遠慮すんなて。ほんまは寒いんやろ?指先白して何が大丈夫やねんほんま……強がってる場合ちゃうやろ」
「あ…りがと…ございます…」
大きな外套は光の細い体をすっぽりと覆ってしまう。
その様子に謙也は眉を顰めた。
「…また痩せたな」
「自分では解りませんわ、そんなん…」
先刻手を握った時からそれには気づいていた。
ずり落ちそうになる大きな外套を押さえている光の青白い右手。
謙也は反対側の空いた左手をもう一度握った。
「今度な、光の好きな甘いお菓子差し入れたるから。それ食うてちょぉ肉つけや。ほんま…それ以上しぼんでどないすんねん…」
「しぼむって何や嫌な言い方やわー…他に言い方ないんかい」
ようやくいつものように憎々しい口をきき、小さく笑ってくれる光に謙也も安心した。
ここ数日の様子は増から聞いていたが、予想していた以上に光は元気がなかった。
固く目を閉ざし、いつも微笑みの耐えなかった紅い唇は白く真一文字に縛られてしまっている。
病室に入ってきた時、光は眠っているのか布団の中で微動だにしなかった。
一瞬肝が冷える思いをしたのは気温の所為じゃない。
冬になり輪にかけて光は一層色白になった。
否、もう青白いと言って良いかもしれない。
真っ白な雪に消えてしまいそうな顔からは生気を感じられないでいる。
増も痛く心配しており、また、光自身も気付いていた事だった。
光が謙也に手を握って欲しいとねだったのはまだ生きているという証を感じたかった、それだけなのだ。
しばらく言葉もなくお互いの生を確認するように手を握り合っていた。
その時ふと光はぎゅっと握り締めた謙也の手から微かに香る花の匂いに気付いた。
「謙也君…ええ匂いする。……甘い匂い…沈丁花?」
「おっ、当たりや。鋭いなぁ」
「鼻ばっか敏感なっとるんで。え、けどもう咲いてるんですか?早ない?」
春先に咲くはずの花が今の季節に咲くはずも無く、光は首を傾げる。
謙也は上着に入れたままになっていた、着物の端切れで作った香り袋を光の手に握らせてやった。
それを受け取り光は怖々とした様子で鼻を近づける。
流れてくるのは遠い光の香り。
「これは香り袋。この辺ではな、サクラミズって呼ばれてんねん」
「サクラミズ?何で?沈丁花やろ?」
「さてどうしてでしょう?」
「教えろや気持ち悪い。そこまで言うといて気になるやんけ」
意地悪く唇を歪める姿は見えない。
だがそんな様子は容易く想像がつく。
光の脳裏にはまだ光りがあった頃よく見せていた謙也の意地悪な笑顔が映っていた。
「謙也君?」
「次会いに来るまでに考えといて下さーい」
謙也の言葉に、それまで強気だった光の態度が一変した。
「…光?」
「次って…次ていつの話やねん…」
口の中だけで小さく呟かれた言葉は光が言いたくて、でも言えなかった一言。
勢いのまま言ってしまった本心に慌てて口を噤んだ。
「ごめ…何でもな……」
「次は明日や、明日!せやからな、早よ考えな時間切れになんで!」
語彙はきつくなってしまうのはただの照れ隠しと気を遣わない様にという優しさ。
その実、温かいその言葉に光はもう流れる事がなくなってしまった涙が溢れ出しそうなほど胸が熱くなった。
「それ光にあげるからな、しっかり考えやー」
「う、ん……」
光は掌に乗る春の香りを、謙也の優しさと思いを重ねてぎゅっと握り締めた。
翌日、謙也が学校から戻るまでの間はいつもの様に増が来ていた。
朝一番は病室の窓を開け放ち掃除をする事から始まる。
半日振りの外気は冬の剣がとれ春の優しさを含んでいる。
光は雪どけの冷たい風に乗ってやってくる土の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「今日は温かいな」
「えぇ。この分やと屋敷のお花ももうじき咲くかもしれませんねぇ」
「花…あ!せや!!」
光は増の手を止めさせ枕の脇に置いてあった香り袋を差し出した。
いくら考えても解らない答え、地の文化は地の者に聞くが一番と思ったのだ。
「あら光さん。これはサクラミズやございませんか。どうなすったんです?」
「昨日謙也君にもらったんやけど…全然意味解らんで…ほんで、これ何なんやろって…」
「坊ちゃんに?あぁ…それで……」
「何?!何か知ってるんっスか?」
含みのある言い方に、光は思わず増に縋りついた。
謙也の言葉が気になり昨晩あまり眠れなかったのだ、昨日謙也が別れ際言った言葉が。
それが俺の気持ちだから、と。
そう言い謙也は足早に帰ってしまったのだ。
サクラミズ、という言葉そのものの意味とそして謙也が残していった言葉の意味。
初めは前者の意味を知りたいと思っていたのだが今は後者の意味が気になって仕方がないのだ。
必死の形相の光に増は悪いと思いながらも笑いを漏らしてしまった。
「何やねんー…増さんまで教えてくれんの?」
「いえいえ……この辺りの風習ではね、そのサクラミズは求婚に使われていたものなんですよ」
「………………………は…?」
一瞬増の言葉を理解できなかった為、間抜けな事に口を開けたまま腑抜けした返事しかできないでいた。
暫しの時を置き、ようやく理解した光は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「サクラミズはもともと女が男の求婚を受け入れる時に作るものなんです。
冬に求婚された女は自分の着物を使ってこの香り袋を作って返事の代わりに相手に渡すのですよ。
この雪が溶けてこの花が咲く頃には祝言を挙げましょう…この花の様に優しい香りに包まれ永遠を共に過ごしましょう……という意味を込めて」
恥ずかしさで顔からどころか全身から火の出るような思いの光は何も言えずただ俯くばかり。
そんな様子を微笑ましく思いながら増は更に続けた。
「坊ちゃんも粋な事なさいますねぇ。私が娘時分やった頃は皆やっていましたが…
もうこの風習を知る者なんてこの辺りでも少ないでしょうに、誰からかお聞きになって作られたんでしょうねぇ…
小さい頃からお側にいましたが、口下手でなかなかご自分の気持ちを素直に言えない方でしたから…
ふふ…おかしいと思たんですよ。今までお裁縫なんてなすった事ない坊ちゃんが急に道具を貸してくれと私に仰るんです。
数日夜なべしているとは思っていたのですが…そうですか…これを作ってらしたんですか」
「え…えー……け、っけどっ……そんな深い意味ないって!せやかて…そんな…」
香り袋を持つ手が震える、上手く言葉が出てこない。
光は否定しながらも完全に舞い上がっていた。
それに追い討ちをかけたのが増の止めの一言だった。
「いいえ。ここだけの話ね、坊ちゃん本当は先端恐怖症なんですよ。せやから未だに旦那様と居合いのお稽古も出来なくって…
それに運動やお勉強は良く出来るのに手先が不器用でらしてね。ちょっとせっかちなところがありますからねぇ。せやから針仕事なんて以ての外。
そんな坊ちゃんが自分から進んでお裁縫をされてそれを貴方に渡した………それにどんな想いがこもっているかお解かりでしょう?」
不恰好なそれは光の指先が敏感に感じ取っていた。
おかしいと思っていたのだ。増が作ったにしてはあまりにも粗雑すぎる、と。
そんな誰が見ても出来損ないの香り袋を愛しそうにぎゅっと握り締める光の頭を、増は子を愛しむ母の様に優しく撫でた。
「明日来る時にはお裁縫道具を持ってきましょうねぇ……」
「え…?」
「お返事、されませんとこのままでは坊ちゃんの想いが一方通行ですよ?」
「…ん…うん」
サクラミズを握る光の指先からは春の移り香。
春はもうすぐそこまで来ている。
春の陽気は祝福されない想いを抱えた二人をも優しく包み込んでくれるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱かせる。
あの日以来、謙也は以前と同じ様に毎日病室を訪れていた。
夕方に授業を終えた謙也が来るまでの間はいつものように増が病室を訪れ、香り袋を作る手ほどきをしている。
目闇の光にとってのそれは、謙也以上に困難な作業だった。
しかし光は増に目の代わりを頼み地道にひと針ひと針想いを込めて作り進めていった。
そして僅か三日で作り上げた香り袋は謙也が作ったそれよりも綺麗に仕上がっていた。
「上出来ですよ光さん。坊ちゃんよりお上手やないですか。さぁこれを袋に入れれば完成ですよ」
「これは…?」
「沈丁花の花を煮出して作った香料です。蓋のところから少しずつ洩れる香りを楽しむのですよ」
「へぇ…これ中に入っとったんや」
微かに漂う甘い香りは確かに沈丁花のもの。
光は手に握らされた小さな瓶を指先で弄った。
「季節が良ければ生花を入れたりもするんですけどねぇ…」
「うん…けど生花はすぐ枯れるし」
「長く持つものですしねぇ」
「うん………って何言うとんねん!!」
「さぁさぁ早く仕上げませんと坊ちゃんが帰ってきてしまいますよ」
上手く誤魔化された、と光は唇を尖らせながらも手を動かした。
優しい春の香りを湛えた小瓶を綺麗な着物の端切れで作った袋の中に入れ、巾着にした口を閉める。
その後、間もなく謙也も来るだろうと増は屋敷へと帰ってしまった。
謙也の母親に何か用事を頼まれているらしい。
それからは一人きりの病室。
光は縮緬の間から微かに洩れる香りに小さく呟いた。
「謙也君早よけぇへんかな…」
これを渡したらどんな顔をするのだろう。
きっと酷く驚き、そして一瞬の嬉しそうな顔と照れ隠しの悪態。
一連の謙也の行動を見る事は叶わないが想像は容易かった。
その時廊下に足音が響いた。
謙也の来訪か、と刹那喜ぶ光。
しかしすぐにそれが違う者だと気付き顔をしかめた。
近付く足音から逃げるように布団をかぶる。
同時に開かれた扉の前にいたのは満だった。
「お久し振りね。寝たふりなさらないで結構よ」
「あー寝てます寝てます。だからお帰り下さいお嬢様」
「心配しなくてもすぐに帰りますわよ」
相変わらずの馬鹿にした態度に満も頭では解っていてもつい語感を強めてしまう。
室内はいつの間にか淡い沈丁花の香りから満のつけていた強烈な香水の臭いに支配されてしまっていた。
光は動くたびに頭痛がするほどに漂ってくる人工的な甘い臭いに心底嫌そうな顔でこっそりと鼻を摘まむ。
「くっさ……」
「お子様の貴方には解らないでしょう?大人の魅力が」
「えぇもう、おばはんの感性なんてさっぱり」
忌々しそうに呟く光にも強気で言い返す満だが、やはり口では敵わない。
「何ですのこれ…」
しかし枕元に置かれた香り袋を見つけられた事に光の顔色が変わった。
それに目敏く気付いた満は光より一瞬早く取り上げた。
「返せや!触んな!」
満の声と匂いを頼りに手を差し出すも空を切るばかり。
「…男の癖に……こんな女々しい事してあの人を衆道に引き込んだんじゃありませんの?」
「何とでも言うてろや。ええから兎に角それ返せや」
満の手にあるのは謙也から貰った大切な香り袋。
先刻完成したばかりの謙也にあげるはずのものは寝巻きの帯に挟んであった。
光は必死に手を伸ばし満を捕まえようとするが空を掻いているだけで一向に届かない。
今まで余裕を見せていた光の焦り様に満は満足気に笑みを浮かべると窓を開け放ち、それを外に向けて放り投げた。
「―――っ!何しやがったんじゃこのっ!!」
勿論光に見えるはずもない。
しかし満の動きを察した光は寝台から転げ落ち窓辺へと駆け寄った。
「あら、ごめんなさい。手がすべりましたのよ。わざとじゃないの、わざとじゃ。貴方の大切な物なんでしょう?早く拾わなきゃ捨てられちゃいますわよ?」
満の言葉に、それが今窓の外に放り出されてしまったのだと察した光は縁を越え病院の庭へと飛び出した。
地面を這い手探りで必死に探す光の姿を見て、満は高笑いをする。
「そうそう…今日は貴方にいいお知らせを持ってまいりましたのよ」
満の戯言など右から左へ、光は返事もせずに微かにする甘い香りを頼りに探そうとするが、
風に乗ってやってくる満の香水の臭いに負けてしまい完全にお手上げ状態だった。
それでも諦めず地面に這いつくばる光を一瞥し、満は言葉を続けた。
「明日貴方を退院させてあげますわ」
「……は?」
突然の申し立てに光は開いた口が塞がらなかった。
「こんな狭い所に幽閉されてお辛いでしょう?ですから東京にあるここよりもっと大きな施設を紹介してさしあげますわよ。
そちらに移ってはいかがかしら?何不自由ない生活が約束されてましてよ。それに向こうの病院も、財前家のお坊ちゃんだって聞いたら是非引き受けたいって」
色々と御託を並べてはいるが、察するに彼女は厄介払いをしたいのだ。
謙也の家からも近いこの病院に光が居ては今後も謙也は足繁く通うだろう。
ここから遠く離れた病院にぶち込んでしまえば今のように通う事も叶わないと、そう思い提案してきたのだ。
「…好きにしたらええやんけ」
光はさも興味なさげに一笑し再び満の投げた香り袋を探し始めた。
「あんたが何しようと俺の思いは変わらんしな、それに……」
「な…何よ…?」
「絶対に負ける気しせぇへんし。せやから好きにしぃや」
「負け惜しみ?見苦しいわよ」
「どっちが。前にも言うたやんけ。ここの違い見せたるわ」
そう言って振り返る光は自らの胸を指差し、唇の端を薄く上げて笑った。
自信たっぷりなもの言いに満は唇を噛み締める。
そして何も言い返さない満に、光は草むらを掻き分け探し続けた。
薄れていく人工的な甘い臭いと遠ざかる足音に満が帰ったのだと悟り、溜息一つを漏らした。
真っ暗闇の中、本当は不安で不安で仕方がなかった。
だが謙也からの気持ちを、大切な想いを投げ捨てられ居てもたってもいられなかったのだ。
考えるよりも先に体が動いていた。
光は時が経つのも忘れ、暗闇を彷徨い探した。
だからいつもは敏感に気付いていた謙也の足音にも気付かないでいたのだ。
その後すぐにやってきた謙也は酷く驚いた。
病室に入っていつも迎えてくれるはずの笑顔が見当たらない事に。
もぬけの殻となった寝台に慌てて駆け寄り、そして開いたままになっている窓に近付いて更に驚いた。
土の上を手探りで這っている光が居たからだ。
謙也は窓枠を飛び越え光の側へと駆け寄った。
「光!おま…っ…何やっとんねんアホっっ!!」
「へ…?あ…謙也君?来てたんっスか?ごめん、全っ然気付かんかったわ…」
「兎に角病室戻んで!」
泥だらけの光の指先は鋭利な草で創傷している。
謙也はその手を掴み連れ戻そうとするが光はそれを精一杯に拒んだ。
「まっ…待って!!」
「え?」
「サクラミズ……謙也君にもらった……あの…窓の外落として…せやからっ……」
謙也は一瞬眉をひそめた。
病室に僅かに残る香りは満がいつも振り撒いていたものと同じものだった。
だから数十分前まではここに彼女がいたのだろうと察していた。
それがどれだけ見苦しく滑稽な事かを知っている光は決して満の悪態を謙也の前では吐かない。
彼女と同じ轍を踏みたくないと思っている為だ。
そして謙也にはそれが解っていた。
これも満の仕業なのだろうという事が。
「……ほら、戻んで。また新しいん持ってきたるから」
「あかん!あれやないと……謙也君がめっちゃ一生懸命作ってくれたもん易々と捨てられへんわ!」
気付いていたのか、と動揺して揺れる謙也の肩など光には見えるはずもない。
相変わらず這いつくばったままの光を唖然と見つめた。
「ひか…」
「あった!!これや!!!」
そう叫ぶ光の手には確かに謙也が渡した香り袋がある。
本当に嬉しそうにそれ握り締める光の傷だらけの手を、謙也は包み込むように握った。
そしてそのまま病室に連れて帰り、湯を張った洗面器で泥だらけの手足や顔を洗ってやり、傷の消毒をしてやった。
すっかり綺麗になった光を寝台に座らせほっと溜息を吐く謙也に苦笑いを返しておく。
「ほんまに…寿命十年縮んだで」
「いけますよ。謙也君絶対長生きするやろし、十年ぐらい縮んだってどってことないやろ」
「あんなぁ…」
「あ、せや」
まだ何か言いたげな謙也を遮り、光は思い出したように自分の懐を探り始めた。
そうして取り出されたのは赤地の綺麗な縮緬でできた巾着だった。
「増さんに聞いた。これの意味……」
「え……?」
すぐにそれが何かを察した謙也はそれと光の顔を交互に呆然と見比べる。
「こ…れ光が作ったん?!ほんまに?!」
「当たり前や。謙也君のより上出来やろ?」
「…悪かったな不器用で…」
手に納まるほどの小さな巾着だが光にしてみれば途方もない作業だっただろう。
得意げに言っているが並大抵の苦労ではなかっただろうと謙也は胸が熱くなった。
だがそれを素直に言えない謙也はやはりそんな風にしか言い返せない。
「嬉しかったんです、謙也君の気持ち…せやから、これが俺の返事」
指先に移る光の香り。
光は謙也の手を取ると、その小さな香り袋に想いを託した。
そして香り袋を握らせると謙也の手をそのまま握り締める。
「あ、その前に…聞きたい事あるんですけど」
「うん?」
細い指を手首に絡められ、脈が上がるのを感じる。
だが謙也は振り払いもせずそれを受け入れた。
「今からする質問に、はいか、いいえだけで答えてや。ええ?」
「お…おぉ…解った」
盲目の賢者は揶揄する様子もなく、真剣な表情のまま俯き小さく言葉を紡いだ。
「謙也君は、彼女を愛していますか」
「いいえ」
迷いもなく答える謙也に安堵の溜息を一つ、光は言葉を続けた。
「今、家族の他に大切な人はいますか」
「はい」
「その人と今生の別れがあったとしても…ずっと大切に想い続けられますか」
刹那、二人の間に流れる沈黙。
そして振り払うように手を離され、光は顔を跳ね上げた。
「謙也君?」
「いいえ!!絶対に別れるとかありえへん!せやからその質問の答えは否や!」
光を転院させるという話は母親には随分と前から聞かされていた。
彼を気遣いその事は伏せていたのだが恐らく彼女が話してしまったのだろう。
その話をしているのだと謙也は慌てて否定をした。
しかしそんな事を露ぞ知らない光は怪訝な顔をする。
「…何興奮してんっスか?落ち着きぃや……」
「ひっ光が変な事言い出すからやろ!」
「まぁええわ…ほな、最後の質問な」
むっととしたまま返事をしない謙也など構いもせず、光は再び謙也の手を握った。
「その大切な人を、貴方は愛していますか?」
そもそも光の質問には主語がなかった。
誰を示している事かは断定していない。
だが謙也の心の中に浮かぶ人はただ一人だけ。
その問いに謙也が答えを出す事はなかった。
無言の肯定、それだった。
そして重いその言葉を口に出来ない代わりに、謙也は絡められた白い指に小さな口付を落とした。
ふと心に浮かんだ歌を思いながら。
"君がため 惜しからざりし命さへ 長くもがなと 思ひけるかな"