サクラミズ7
::: 七 花ノモトニテ :::
「謙也ァ―――――――――――――――――――――っっっ!!!!!」
遠くから聞こえる濁声の主を謙也は知っている。
だから無視を決め込んでいた。
あのように自分を呼ぶ時は決まってろくでもない事を言い出すに決まっているからだ。
いつも読書をしている桜の木の幹に隠れる様に座ると、声の主が過ぎ去るのを待つ。
しかし目敏い彼はそれを見つけてしまった。
「やっぱしここおった!!聞こえてんやったら返事せぇやどアホ!!」
目の前に現れるなりいきなり地団駄踏みながら怒るユウジに言訳する言葉が見つからず、謙也はただ頬を歪め苦笑いを浮かべるしかない。
「いや…何。また試験範囲か?」
「ちっっがうわアホ!!手紙!この手紙!!」
そう言って目先に突き出されたのは先日捨ててくれと頼んだはずの手紙だった。
「何や…まだ捨ててへんかったん?ほかせ言うたやん」
「ほかせる訳無いやろが!〜〜〜〜…あー違う。いやあの、そんな事言いに来たんちゃうんや…」
それを見た途端不機嫌になる謙也にユウジは言い辛そうに口篭る。
「何」
「いやー…読んでもーてん…中身」
いくら捨てろと言った物でも他人の手紙を盗み読む事はあまり感心する事ではない。
ユウジは慌てて弁解を始めた。
「ちゃうねん!あんな、謙也の様子おかしかったから…そんでこれ読んだら何か解るかなー思てそれで…せやから……ほんますまん。堪忍」
しかし謙也は溜息一つを吐き出しただけで表情一つ変えなかった。
「許したりぃや、謙也。ユウジは心配でしゃーないんや、お前の事が」
「白石」
この大学で出会った友人のうち、最後の一人が顔を覗かせ驚く。
研究室に籠りきりで最近はあまり顔を合せなかったが、心配そうな表情を見て何を思いやって来たかを察した。
「ええよ別に……」
「あの…聞いてええ?!ええやんな?!」
「嫌」
「はい…」
喰いついてくるかと思いきや事の外あっさりと引き下がるユウジが親身になって自分を心配してくれているのだと、謙也は笑いながら落ち込む肩を叩いた。
「嘘やて。急に萎れんなや。何?」
「…あの事って…何?何あったん?自分がここ入学していっぺんも田舎帰ってへん理由て…これやんな?」
本当はこの手紙を捨ててくれと言った時から、謙也にはこうなる事が解っていた。
好奇心が旺盛で、言葉は悪いが人一倍優しいユウジが気にかけない筈もないと。
これまで誰にも言わなかった心の内を曝け出してもいいと思ったのは恐らく、彼と同じ真っ直ぐな瞳がそうさせたのだろう。
「…そうや。今帰るには…まだ、全然……心の整理ついてへんから……辛すぎるわ」
謙也に促されユウジは遠慮がちに謙也の隣に正座し手紙を開いた。
「すまんな、謙也。俺も見せてもろたで」
「ああ、うん…」
「この…彼の事では申し訳なく思ってるって、書いてあるけど…彼って人と何やあったんやな?」
白石は広げた手紙から顔を上げ謙也の様子を伺うが、その横顔は遠くの方を見たままだった。
「彼、は…俺の家で使用人してた子。いっこ下で……弟みたいに可愛がってた子」
「そんだけ大事にしてる子やのに…会いに行ったれへんのか?」
「おらへん」
「え?」
「もう、ここにはおらん」
鈍感なユウジは暫く謙也の言葉を理解できないでいた。
だがすぐに察した白石の顔色と、膝に顔を埋めそれ以上何も言わなくなってしまった謙也の様子に意味を察した。
いない、の意味を。
「あ……と…え?けど…え!それが何で…え?え?!…せやかて……!!」
それの意味する重さにユウジは言葉が上手く出てこない。
謙也も暫く顔を上げずにいたが、思い立ったように立ち上がり桜の梢を見上げた。
暫しの時を待てばこれも満開になるだろう。
「……謙也は…この子ん事好きやったん?」
ぼんやりと空を見上げる謙也にユウジは相変わらず堅苦しく正座したまま尋ねた。
「うん…って俺が言うたら気持ち悪いか?」
彼、と言うならば男である事は間違いない。
だがユウジは神妙な顔でかぶりを振った。
「…そんだけ大事に想ってんの解ってんのに……気持ち悪いとか思うわけないやんけ…俺誰や思とんねん」
普段から小春にべったりと貼りついているユウジにそれは愚問だったか、と謙也は言葉を続ける。
「…結局好きやなんて言葉には出来んかったけどな…言えてたら……ちょっとは状況変わってたかもしれんな……今更後悔しても遅いけどな、もう」
そう言いながら桜の木に背を向け歩き始めた謙也を、ユウジは痺れる脚を叱咤しながら慌てて後を追った。
白石も更にその後ろについて行く。
「彼…が俺をどう思とったかなんて、もう知る術もないけどな。俺はまだ忘れられへんねん…」
俯いたまま校舎に続く土の道をゆっくりと歩きながら、時折ぽつりぽつりと漏らず謙也の言葉をただ黙って聞くことしかできない。
謙也の口から出てくる言葉はどれも重いもので、それが白石とユウジに出来る精一杯だった。
彼が謙也の家にやってきた時の事、彼が事故に遭いそうになった自分を庇い失明してしまった事、
そんな彼を愛してしまった事、それに気付いた親が縁談を持ち出し二人を引き裂こうとした事。
そして、凄惨な最後の別れ。
二人には彼がどんな風に謙也を愛していたのかも解らない。
だが謙也がここまで想いを馳せている相手なのだ、きっと彼の想いも相当だったのだろうと思った。
そしてそうまでして想い合う二人を引き裂こうなど、何て惨酷な親なのだと知りもしない相手に腹を立ててしまう。
「酷いわ…謙也もその子も好き合うとったいうのに……」
「親に対しての怒りは…そんなないねん、もう。ほんまに…諦めとかやなくって…」
怒り心頭のユウジに対し、謙也から返ってきた言葉は意外なものだった。
「そうなんか?こんな酷い事されたのに?」
「確かに手段選ばんかった相手も両親も酷いとは思うけど…結局は自分の弱さが招いた事やしな」
「何で?!謙也悪ないやんけ!」
「早よ大人んなって、親や周りに文句言われへんようにって…そんな事ばっか考えててやー………
ほんまに大切にせなあかんかったんは彼であって…その為やったら何をおいても守らなあかんのに…
俺アホやからなぁ…周りの目ばっか気にして親の顔色伺って…そんなん全然気にせんでよかったのにな。
あいつの為とか言うて、ほんまは俺が怖かったてん…周りの目とか」
怒りが身を支配しているのかユウジは肩をふるふると震わせながら俯いてしまった。
心配になった謙也は歩を止めて顔を覗き込む。
怒っているのかと思えば泣いているのだ。
そして突然顔を上げ謙也の胸倉に掴みかかった。
「な、何や…ユウジ?」
「ユウジ?」
殴りかかるのではと心配して白石が間に入ろうとしたが、寸前でその表情に気付き手を止めた。
「悪ないっ!!お前は全っっ然何も悪ない!!!」
「は…?」
「謙也何も悪ないやんけ!!何っで一人溜め込むねん?!溝クサイやんけ!!俺らに言えや!!」
「…何やそれボケか?そんなベタなもんツッコミ入れへんで」
興奮で何を言っているのか解らなくなっているユウジの掴みかかっている腕を振り解き、再び俯いて嗚咽を漏らすユウジの頭を撫でてやる。
「謙也もそいつも…悪ないやんけ全然……」
「ありがとうな…ユウジ」
ユウジの涙に謙也の心にずっとわだかまっていた何かが急に軽くなった。
友人の過去をまるで自分の事の様に涙できるユウジの気持ちが素直に嬉しかった。
きっと彼は同情なんていう複雑な心なんて解っちゃいない。
だからこそ素直に嬉しいと思えたのかもしれない。
しかしだからといって心の枷が全て取り払えたわけではない。
苦しい程にずっと心を支配したままの大切な人を失ってから三年余り。
まだ、あの家に帰る気持ちにはなれないでいた。