サクラミズ6
::: 六 アノ花ガ咲ク日 :::
光は謙也が側にいるだけで幸せだった。
謙也は光の側にいるだけで幸せだった。
毎日が淡い光の粒子に包まれている様だった。
謙也の婚約が決まってからふた月、季節は盛夏を迎えていた。
窓の外には眩い光が溢れているだろう。
真っ暗闇の中ひとりぼっちの光にそれを感じる事は出来ない。
だがその暗闇には光より眩い謙也の存在があった。
学校に通いながら、相変わらず光の病室に行く事は止めないでいる。
謙也は婚約者とは見合い以来会っていない。
先方はあまりいい顔をしていないと聞いたが、今の謙也にとって何処の誰よりも他の何よりも光が大切だから、それ以外の事は本当にどうでもよかった。
勉学が疎かになれば両親に小言を言われ光に会えなくなる為、学校の成績は常に上位を保ち続けた。
学校が終わればすぐに病室に向かい、そして勉強の一環だと光に本を読み聞かせる。
光がその後謙也の婚約の話を聞く事は無かった。
それは謙也の心を軽くしていた。
しかし光は見た事も無い相手にずっと怯えていた。
いつか、謙也がその婚約者の元に行ってしまうのではないかと。
そんな不安な気持ちを察していた謙也は光から離れようとはしなかったのだった。
「…………謙也君は…」
「何?」
「謙也君は…佐助?」
突然何を言い出すのかと、謙也は目を丸くした。
だがすぐに今読み聞かせたばかりの話の事だと察した。
「ほな光は春琴?」
「違うわアホ…」
「俺も違うわアホー」
春琴抄を読み聞かせたのはそのようなつもりではなかった。
謙也は内心舌打ちをした。
盲目の琴の師、春琴と世話する奉公人佐助との倒錯的な恋物語。
ただ、美しい春琴が強く生きる姿を光に聞かせたかっただけなのだ。
思い返せば光が明を失ってから、謙也は随分沢山の本を読んで聞かせていた。
伊豆の踊り子、雪国、暗夜行路、舞姫、たけくらべなど近代文学から源氏物語や宇治拾遺物語などの古典文学まで幅広く。
光の興味を惹きそうな面白い話から生きる事の大変さを伝える秀作や恋物語まで毎日毎日。
謙也はふと感付いた。
光が気にしているのはあの場面であろう、と。
春琴が美しい顔に大火傷を負った時佐助は自らの目を針で刺し、美しい春琴の記憶を自らの中に閉じ込めたのだ。
光は自分の身の事に謙也が責任を感じて馬鹿な真似をしないかと心配しているのだろう。
「俺は佐助とはちゃうからな。これは佐助の愛情表現やねんし…俺は……あー…」
ここまで言いかけて、謙也は妙な気恥ずかしさに襲われ口を噤んだ。
勢いでとんでもない事を言いそうになってしまった。
光は怪訝そうな顔を謙也に向ける。
勿論見える筈は無い。
不謹慎にも光の目に入らなくて良かったと、謙也は思ってしまった。
きっと顔は夕陽よりも赤く火照っているだろう。
「何…?謙也君、続き気になるんですけど……」
光は相変わらずだんまりを決め込む謙也に些か不安そうな顔を浮かべた。
何かいけない事を言ってしまったのではないかと呵責を感じているのだろう。
「何や気に障る事言いましたか?」
「違…っいや……だからその…」
「何なんっスかほんま…気持ち悪いんではっきり言うて下さいよ…」
厳しい事を言いながらも、今にも泣きそうな声を聞き、謙也は遂にその口を開いた。
「っ…せ、せやから!!…俺は……俺が光の目の代わりになるからやな…っ
…これから先もずっと…ずっと側におって…せやから、こんな阿呆な真似せんわっ!神に誓ってずっと光の側におるからっ…」
その言葉の示す意味を瞬時に理解した光の顔までも、謙也と負けず真っ赤に染まった。
まるで夫婦の契りかと思わせんばかりの謙也の宣言。
それはこれから先も共に過ごそうという、不器用な謙也の精一杯の愛情表現だった。
その宣言通りそれからも光の側には常に謙也の姿があった。
それを快く思っていないのは両親と、謙也の婚約者である満。
そんな彼女が数ヶ月振りに謙也の家にやってきた。
見合いの時もはっきりと顔を見ていなかった謙也は始め誰が来たのかすら解っていなかった。
病院から戻ると見慣れぬ顔が居間に座っている。
謙也が訝しげな顔を向けると軽く会釈をしてきた。
間違いなく美人の部類に入るであろうきりりとした切れ長の目とつんと尖った鼻、薄い唇。
記憶の糸を懸命に手繰り寄せるが一向に思い出せない。
そんな謙也の背後からお茶の用意を手にした女中を連れた母親が居間に入ってきた。
「あら、謙也さんおかえりなさい。先程からずっとお待ちやったんですよ。また病院に行ってはったん?」
「あ…あぁ……え…っと?」
「お久し振りです。お忘れですか?渡邊満です」
母親が後ろから小さな声で貴方の婚約者でしょう、と呟き謙也はようやく思い出した。
目の前の人が数ヶ月前見合いをした相手だという事を。
「すんません…全然覚えてなくて」
全く悪気無くそう言われ、満は元より吊り上がった目を細くさせた。
それだけの美貌を持てば恐らく幼い頃からさぞや持て囃されていたのだろう。
それまでは男といえば皆自分の美しさの前にひれ伏すものなのだと思っていた満は激しく自尊心を傷付けられた。
この縁談を一旦は断られたというのも気に入らないらしい。
良家のお嬢様らしく気位の高い雰囲気を醸し出している。
だが日頃光の側にいた謙也にとってはそんなものは大した事ではなかった。
彼女の美しい顔など謙也の瞳に映る光に比べれば地を這う程度のもの。
光は器の美しさだけでない、しっかりと内面から滲み出る美しさも持ち合わせていた。
少し我侭だが真っ直ぐで偽りない心根を持った光とただ高慢なだけのお嬢様。
実際はこのお嬢様がどんな人物なのかも知らない。
だが謙也の第六感が訴えていた。
一目見た時の高揚感、光が持つ嘘の無い瞳とは程遠い奥の見えない彼女の瞳からは何も感じないと。
だからこれから先光を想う気持ちには到底適わないだろう。
その旨を伝えたのだが相手にはなかなか上手く伝わらないでいた。
謙也は何度も掛け合った。
この縁談は自分が望んだものではなく不本意だという事を何度も訴えかけた。
だが謙也は解っていなかった、自尊心を傷付けられ嫉妬に狂った女が攻撃する方向を。
それから暫くは忍足家に入り浸っていた満だったが、ある日を境に寄り付かなくなっていた。
結婚は諦めたものだと解釈していた謙也は安心していた。
しかしそれは大きな間違いだった。
時が経ち闇の中での生活に慣れてきた光だったが、まだ人の介助を必要とする事が多い。
謙也が病院に行けない日は決まって増という女中頭の老女が光の世話をしていた。
増は謙也の幼い頃から、ずっと母親の代わりに慈しんでくれた存在で謙也にとってのもう一人の母だ。
そして二人の一番の理解者でもあった。
光が忍足家ではみ出し者扱いをされていた時も増だけは違っていつも二人を励ましていた。
病院から出られなくなってしまった光の世話も進んで買って出たのであった。
その日も謙也が学校に行っていた為、朝から増がやってきて光の話し相手をしていた。
「なぁ、お増さんやと野菊の墓と一緒やね?」
「光さんもお読みになりましたか?私も坊ちゃんに勧められて読みましたよ。いいお話でした。
坊ちゃんは文学作品としては未熟やとおっしゃってましたが薄学の私には丁度解りやすうてようございました」
増は光と違い貧しい出だった為、字の読み書きが出来なかったが謙也の世話をしながら謙也と共に少しずつ勉強し、
今では難なく読書が出来るまでになっていた。
「うん。けど表現が俺にはちょっと難しかったんやけど…謙也君が上手い事解説してくれてやっと理解できてん」
嬉しそうにそう話す光の顔を見て、増も目尻に皺を作り小さく笑った。
増には謙也の想いも光の気持ちも解っている。
だがお互いに抱えている想いを他言する事はなかった。
時が来るまで大切に二人の気持ちを育めばよい、そう思っていた。
しかし謙也の縁談が二人の間に流れていた緩やかな時間を急流の中に巻き込んでゆく。
満が忍足家に来なくなったのは謙也との結婚を諦めたからではない。
光を謙也から引き離す画策の為だった。
謙也によって激しく自尊心を傷付けられた満はその怒りの矛先を光に向けていた。
その日も例外なく満は光の元へとやってきた。
「相変わらず息災の様ね」
「……またあんた?お嬢様ってよっぽど暇なんっスね。毎日毎日顔も見たない相手に会いに来るて…」
謙也や増の前ではあまり見せないが、光の言いたい事を思うが侭口にする性格は健在だった。
ましてや初めから喧嘩腰にやってきていた満相手では光も容赦なかった。
「言ってくれるやない…まぁええわ。貴方が大きな事を言ってられるのも今のうちですものね」
「あんた本気で謙也君と結婚するつもりなん?」
「少なくとも男の貴方よりは可能性が高いと思いますわよ」
「顔も覚えられてなかった相手と?」
何か言っても倍に言い返される事はここ数日のやり取りで充分に解っているはずなのだが、
腹の虫が納まらない満は毎日の様に光の病室へとやってきていた。
「なあ、何の為に結婚するん?」
「あ…愛してるからに決まってるやない!!」
「愛してる…ね…」
唇の端を薄く上げて含み笑いを浮かべる光の態度が気に入らない満は辺りはばからず金切声を上げる。
それまではいつもの事だと傍観していた増も流石に驚き仲裁に入った。
しかし興奮した満の怒りは治まらない。
「何よ!!」
「あんたが口にすると嘘臭く聞こえるなーと思て。愛してるって言葉も」
「何ですって?!」
「自分の胸に手ぇ当ててよぉ聞いてみぃって事。あんたがほんまに愛してるもんが見えてくるはずや思うけど?」
光には解っていた。
満がこんなに自棄になって結婚にこだわっている理由が。
恐らくは傷付けられた自尊心を守りきるためだろう。
このまま済し崩しに謙也との結婚を手に入れれば自分が交際を断られたという事実を消す事ができる。
そんな事の為に手段を選ばずにこの様な真似をしているのだ。
もしも彼女が本当に謙也の事を想い慕っていたのなら、光も身を引いたかもしれない。
だが満が愛しているのは自分自身だけ。
そんな心の内に気付いてしまった光は辛辣な言葉で何とかこの縁談を破綻させようとしていたのだった。
「許さへい…いい加減消えなさいよ!謙也さんのお荷物になりっぱなしの寄生虫の癖に!!」
「その言葉そっくりそのままあんたに返すわ。謙也君にへばりつくフジツボの癖に」
ついに怒りの頂点に達した満は荷物を手に病室を後にしようとした。
その時、珍しく光の方から満を呼び止めた。
「"思ひわび さても命はあるものの 憂きにたへぬは 涙なりけり"」
扉の前で振り返る満に光は焦点の合わない瞳を向ける。
光を失ってなおも衰えぬ瞳の力に一瞬満が怯んだのを増は目敏く察知した。
「な…何よ……」
「人を愛するって事は、つまりそういう事やろ。解らんの?あんたも外見ばっか磨く暇あったらちょっとは教養つけぇや。
良家のお嬢さんってだけやと誰も相手してくれへんようなんで。勿論謙也君もな。
もっと中身磨かんと。結局はこことここの違いやよ、人て」
自らの胸と頭を指しながら、光は揶揄的な笑いを漏らす。
これ以上ない辛辣な言葉と態度に満は怒りに顔を真っ赤にさせながら慌しく病室から出て行ってしまった。
後に残された増は光の肩を宥める様に優しく撫でた。
「ご立派でしたよ、光さん」
「そう?ありがとう」
それまでの険しい表情を崩し光は笑顔を見せた。
激情家の満と違い光は決して感情に任せて言い合いをする事がなかった。
努めて冷静に的確な言葉だけを選び相手を追い詰める。
それだけとても頭が良いのだと増はいつも感心していた。
「道因の歌ですねぇ今のは」
「あーうん。最近小説だけやのぉて歌も教えてもらってんねん。おもろいねんなー百人一首て。色んな歌あって…あ、それより今日の事…」
「他言はいたしません。もちろん坊ちゃんにも」
「ありがと」
そう、光は頭が良かった。
非常に鋭い読みをしていた。
この満とのやり取りは当人と増だけが知る事だった。
もしも謙也に言ってしまえば絶対に持てる力を全て使い光を陥れるだろうと考えていた。
実際に一度罠にかけられそうになったのも一度や二度ではなかった。
謙也がお前を疎んでいるのだと言う事もしばしば。
しかし光はその度に謙也の口から直接聞いたわけではないと一蹴していた。
そんないつまでも屈しない光の態度に業を煮やした満は被害者を装う為にまた一計企ててきた。
いつもの様に病室に行き、光の口から出てくる辛辣な言葉の数々を待った。
「聞きましたか?謙也さん。この方、いつもこんな調子で私の事をけなしますのよ?」
その言葉に光も言葉を止めた。
しかし表情が変わることはない。
「やっぱし…謙也君そこおってんな」
「え…?」
満は普段自分がどれだけ酷い事を光に言われているかということを思い知らせようと、
これがこの男の本性なのだと言う為に光には内緒で謙也と共に病室を訪れた。
しかしそれも失敗に終わった。
光は最初から気付いていたのだ、謙也の気配に。
「…光はうちにおった頃からあんな調子でしたよ。確かに言葉こそ厳しいものですけど…絶対に嘘だけは吐かへん子です」
謙也の言葉に満は顔色を変えた。
つまり光の言葉に偽りがないのであればその様な状況になったのは自分の所為だという事。
「あんたやー…自分が歪んでるからて周りまで歪んで見えるて言いふらさん方がええで。皆が皆計算高いと思たら大間違いやから」
「どういうつもりなんか知りませんけど…これ以上軽蔑させんといて下さい」
光の厳しい言葉と謙也の蔑みの視線に耐え切れなくなった満は病室から飛び出していった。
大きく開け放たれたままの扉を閉めに謙也が出入口に近付くと、入れ替わりに光の食事を運んできた増が入ってきた。
「まぁ坊ちゃん。いらしてたんですか。今日は満お嬢様とお出かけになると伺っていましたが?」
「うん。もうええねん」
いつもの柔和な笑顔ではない作り笑顔の謙也を見て、何かあったのだと察した増はそれ以上何も聞かなかった。
増が光の前に食事を載せた膳を置くと、慣れた様子で光は寝台の横にある引き出しから箸を取り出す。
「身の回りの事だいぶ自分で出来るようになってんな」
「まぁな」
子供の様に得意げに器の中の煮物を一つ摘まんで見せる光に謙也は声を上げて笑った。
そんな二人のやり取りを微笑ましく見守っていた増が何かを思い出し掌を叩く。
「あぁそうそう、今日は鎮守の祭ですので旦那様が早くお帰りになるようおっしゃってましたよ」
「もうそんな時期なんや…」
開け放った窓から入る風は、太陽を含んだ青い匂いから枯葉の匂いに変わっていた。
季節の移ろいを景色で感じられなくなっていた光は肌で感じるようになっていた。
足音も無く近付いてくる秋の気配にも気付かなかったのは、今までの様に緩やかに時間が過ぎなくなってしまったからだろう。
鎮守の祭は初秋に行われ、その年の豊作を祝う界隈一番の年中行事だ。
その祭を取り仕切るのは代々忍足家で嫡男である謙也も毎年借り出されていた。
光も二度ばかり参加した事がある。
紋付袴に身を包み大人たちに囲まれる謙也の姿を見て頼もしく感じていた。
と、同時にいつも側に居たはずの謙也が急に遠くの人のように感じて淋しくも思っていた。
光の心の闇を掻き乱す存在はそれを決定的にしてしまった。
「坊ちゃん…今日のお席で旦那様がこの縁談を皆に正式に話すと……」
「………え?」
増の言葉に寝耳に水だと謙也は大きく目を見開いた。
光も動揺を隠せずに手にしていた箸を落としてしまう。
何度も何度も説明し、先方からこの縁談を断るように頼んでくれと言ったにも関わらず謙也の知らない所でまだ話は進んでいた。
今日の出来事も満の勝手が起こしたものだと思っていたが、その裏では両親の画策もあったのだ。
「……ごめん増さん…俺ちょぉ家戻るよって!光の事よろしく!!」
「謙也君!待っ…!!」
慌しく出て行く謙也の引きとめようと伸ばされた光の腕は空を掻き、そのまま体勢を崩して寝台から転げ落ちた。
「危ない!ご無理なさったら怪我してしまいますよ…」
「お増さん…どないしよ……謙也君が…」
助け起こしてくれる増の皺だらけの手に縋り、光は悲痛な声を絞り出した。
「大丈夫です。坊ちゃんを信じて。さ、いつまでも床に座っていては体が冷えますよ…布団にお戻りなさいな」
優しい手が光の細い肩を撫でる。
しかし光は首を横に振るとそのまま窓辺に歩み寄った。
風に乗って遠くから祭囃子が聞こえてくる。
外気に触れ些かの冷静さを取り戻した光は静かに口を開いた。
「違う…ちゃうんです…俺は謙也君に幸せになって欲しいから…別に謙也君が結婚するのが嫌なんちゃうねん。
ただあの女だけはあかん…あんな奴と一緒になっても謙也君幸せになれへん…そうやろ?」
「光さん…」
「俺は謙也君が幸せになれるんやったら何だってする…何でも…」
この胸にどれだけの葛藤があるのだろうと、増は心を痛めた。
その身を挺して謙也を助け、なおも彼の幸せを願い自らが傷付く事も厭わず真正面から満と闘う光とそんな彼を愛しむ謙也。
最早二人の間にある想いをただ愛してるという一言では片付けることは出来ないだろう。
互いが互いを想う気持ちが、ただ双方を想う気持ちがそうさせている。
それ程まで大きな気持ちを抱えながらも上手く歯車がかみ合わない。
引き離してもその絆は深まるばかり。
季節は間も無く、光が明を失ってから二度目の冬を迎える。