サクラミズ5

::: 五 願ハクバ :::


光の瞳から光が失われて半年の時が過ぎた。
忍足家の庭にある桜はきっと満開だろう。
病院から出られなくなってしまった光を世話するのは決まって謙也。
だから病室にはいつも謙也の姿があった。
最初の怪我をした時の様に、家の連中や母親はいい顔をしなかった。
父親の知人であるこの病院に、光は隔離される様に入院させられている。
世間体ばかりを気にする父が取ったこの行動に謙也の両親への不信感が募る。
そして時が経つにつれ、愛しい者を傷つけてしまったという罪悪感が謙也の中にあった純粋な恋心を邪魔し始めた。
あまりに重過ぎる『愛してる』という言葉は口には出来なかった。
それでも気づいていた、互いに相手を想っている事には。
憶測ではない確信。
口に出来ない想いは触れ合う指先の優しさとなって互いに伝わっていた。

今日も例外なく病室に謙也の姿があった。
それは光が言ったある言葉があったからだ。
光の瞳から光を奪ってしまい、償う方法を見出せず苦しんでいた謙也への言葉。
ただ側にいてくれるだけでいい。
その一言で謙也の心は不思議なほど軽くなったのだった。
以来、謙也は学校が終わると毎日、山のようにある書庫の本から光の好きそうなものを選んで読み聞かせるのが習慣となった。
最初は萎縮していた光だったが、文学者になりたいという謙也に、
ただ目で追って読むよりも声に出した方が身につくからこれは自分の勉強でもあるのだと言われ、喜んでそれを受け入れるようになった。

「今日は何ですか?昨日で源氏物語の夕顔は終わりましたよね?」
「今日は羅生門。知ってるか?」
病床脇にある小さな椅子に腰掛けて、鞄から数冊の本を取り出す。
その中から一冊を手に取って謙也は光の顔を見つめた。
「知ってますよ。馬鹿にしてんっスか。芥川でしょ。まぁ一回読んだだけで…ちゃんと意味解らんままやけど」
「さよけ。ほな俺の解説付きで朗読しようではないか。短い話やから一回で読み切れるしな」
「はぁ、ほなよろしく…謙也君の解説て自分で読んでなくっても情景浮かんでくるんですよね」
目の焦点は合うはずも無く視線は宙を浮いたまま。
だが声のする方をしっかりと向く光に、見えないと解っていても笑顔を向ける謙也だった。

しかし、そんな二人のささやかな幸せは音を立てて崩れようとしている。
日々献身的に看護をしている謙也の光に対する気持ちが、最早友情の域を越えている事に気付いた両親が言い出した事。
それは謙也への縁談だった。
口に出さないまま膨らむ一方の二人の気持ちに終止符を打つ為に持ち出した縁談に、謙也が首を縦に振る筈も無く、
頑として拒み続ける謙也の意思など構わず、婚約だけでもと話は着々と進んでいると知った。
だが両親に逆らうわけにもいかず、また光にそんな事を話せるわけもなく謙也は板ばさみになったまま見合いをさせられてしまった。
相手はどこかの銀行頭取のお嬢さんだそうだ。
何処の誰であろうと謙也にとってはどうでもいい事だった。
光以外の人間を受け入れる気になんて到底なれないでいたからだ。
見合い以来、相手のお嬢様は謙也をいたく気に入ったらしい。
そしてこんな良い縁談は他にはないと、二つ返事で快諾した両親は相変わらず謙也の意思などまるで聞き入れないままに謙也は婚約させられてしまった。

光にだけは嘘を吐きたくなかった。
だからこの縁談も正直に話そうと思っていた。
しかし病室に出向き光の顔を見ると、それが叶わなくなってしまう。
謙也は歯痒い思いを抱えたままふた月の時を置き、ようやく今日こそはと病院に向かった。
病室に着きいつものように本を読み聞かせ、数時間。
窓の外には夕方の紅い光が溢れている。
静かだった病室に謙也の声と紙擦れの音だけが響く。
脆弱な光の体も、対照的に日々精悍さを増す謙也の体も差し込む夕陽に染まっている。
謙也の読み聞かせに耳を傾け、目を閉じてその情景を脳裏に映し出しているのだろう。
光の表情は真剣そのものだった。
謙也は思っていた。
もっと自分に力があればこんな狭い世界に閉じ込める事無く、光を外の世界に連れ出してやれるのではないかと。
「謙也君?続きは?」
突然読む事を止めた謙也に不安げな表情を浮かべる。
「なぁ光…」
「何っスか?」
「…もうちょっと、待っててくれるか?」
「え?何を?」
不安げに揺れる光りのない瞳を安心させるように、謙也は光の真っ白な手を握り締めた。
「……こんなとこ早よ出られるようにな………早よ大人んなって、親父らにも文句言われへん大人になって…
お前の事あの家から連れ出したるからな…それまで待っててくれるか?」
突然の申し出に光は目を丸くした。
今までそんな事を言った事がなかったからだ。
「謙也君……何。気色悪いな……いきなりそんな事…ほんま、何かあったんっスか?」
「いや…あの、光が命かけて俺の事守ってくれたからな…今度は俺がお前の事守ったりたいなって思て……」
驚かせないように、優しく優しく抱き寄せる謙也の腕に嘘も揶揄する気持ちも微塵と感じられない。
光はゆっくりと目を伏せて身を任せた。
「うん……ありがと…」
珍しく素直に礼を告げる光が愛しくて、謙也は更に腕の力を強めると、決心が鈍らないうちに口を開いた。
「このまんま聞いてや………俺な……結婚させられるかもせぇへん…好きでもない相手と………」
刹那伝わる、動揺。
抱き締めたままの腕の中で、強張る光の体。
しかし謙也はそのまま続けた。
この縁談が決して自分の意志ではないという事を伝える為に。
「けどな、今すぐって訳ちゃう。俺は絶対嫌やから断る。ほんまに。絶対結婚なんかせぇへん…せやから……」
同情、責任感。
一瞬脳裏を過ぎった言葉を振り切るように光は頭を振った。
謙也の気持ちがそんな言葉では計り知れないほど大きいものであると解っていたからだ。
そして、ただ口下手で言葉が足りない謙也が必死に行動で伝えようとしている事に気付いていたからだ。
「……今はまだ親の言いなりになる事しか出来んけど…絶対な、必ずこっから連れ出したるから、信じて待っとってや」
言葉に出来ない気持ちは、言葉にしてしまえばたった一言なのだ。
『愛してる』
『好きだ』
出逢ってから数年。
口に出せないでいた言葉は、とうとうどちらからも吐露されなかった。
ただ互いの胸に、確かな気持ちだけを残して。

願わくばこれから先ずっとずっと一緒にいたいと、
光は声にならない気持ちを伝えるように、謙也の胸に縋りついたのだった。


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