サクラミズ10
壱拾 サクラミズ〜櫻見ズ〜
"ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ"
あれ以来、謙也は一度もこの場所には近付いてはいなかった。
あの日は寒くて冷たかった。
だけど今日はこんなにも穏やかな春の日和に包まれて暖かい。
堅い蕾に包まれたまま冬を越し、やがてこの季節を迎えて華麗に咲き誇っている。
何万という花は儚く花弁を散らしながら次の季節を待つ。
謙也は丁度光が横たわっていた場所に腰を下ろし、宙を見上げた。
群雲が僅かに梢から覗くだけで目に鮮やかな桃色銀河が空の色を解らなくしてしまっている。
一つ溜息を吐くと視線を下に戻した。
「あれ…?」
丁度肩位の高さに、明らかに人為的につけられた傷を見つけた。
何だろうと目を凝らして見れば、それは文字だった。
「…んやこれ…何て書いてあんのや?」
随分と前に書かれたであろうその字は消えかかっておりほとんど読み取ることはできない。
断片的に読む事が出来る文字を読み上げていく。
「……ラルル………ミヲバ……ノ…ヲシク…カナ…………?」
そして最後にはっきりと読み取れるその文字に、謙也は大きく目を見開いた。
「……光」
刹那思い浮かんだのは悲恋の歌。
"忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の をしくもあるかな"
それは光が残した辞世の句だった。
この数年ずっと心に絡まっていた糸がようやく解けた。
光はここで自らの命を絶ったのだ。
どうしてここまでやってこれたのかはまだ解らない。ただ確かなのは光が自害したという事。
光はあの日の誓いを忘れてはいなかった。
神に誓いずっと側にいると言ったあの言葉を。
戯れのように言った言葉を。
だがそれを破り光は逝ってしまった。
それでも尚、彼は謙也を思っていた。
自らがこの世から居なくなる事も、それによって忘れ去られてしまう事も厭わず。
ただその事で神への誓いを破った事になってしまう謙也が神罰を受けてしまうかもしれない事が心配だと言っているのだ。
どんな思いで一人彼の世へ旅立ったのだろう。
謙也はあの日以来流す事もなかった涙を堪えるので精一杯だった。
「お帰りなさいまし坊ちゃん!!」
「ただいま」
久方振りの生家で出迎えてくれたのは、重ねた年月よりも幾分老け込んだ増だった。
先刻あった衝撃的な出来事など億尾にも出さず謙也は安心させるように微笑み返した。
「まぁまぁ随分と逞しくなられて…さぁさ中へ。旦那様も奥様も皆さんお待ちですよ」
増に促されるまま門をくぐり中へと入る。
庭はすっかり様変わりして花壇の植物は植え替えられていたが、大きな沈丁花と桜の大木だけは健在だった。
それが懐かしくもあり心苦しくもある。
謙也はそれらから視線を外したまま玄関に入った。
丁稚や女中達使用人、弟と相変わらずの顔ぶれが出迎えてくれる。
玄関を上がり突き当たりにある襖を開ければそこは居間。
卓袱台の前には両親が座っていた。
黙って新聞を読む父親と弱弱しく微笑み涙を拭う母親の前に座り頭を下げる。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい。元気そうで何よりやわ……長旅で疲れたでしょう?今お茶を持って来させましょうねぇ」
そう言って立ち上がろうとする母親を制止し、謙也は深く頭を下げた。
「すみませんでした…何度手紙が来ても梨の礫で…」
「ええのよ。貴方の怒りは当然でしょう?貴方の気持ちも考えずに一方的に………」
「いえ…誤解なさらないで下さい。ほんまに、あの事に対しては…誰を責める気持ちもないんで」
「それやったら、何で急に士官学校に行こうなんて思た?」
それまで黙って母と謙也の話を聞いていた父親が口を開いた。
「我が子の不幸せを招いておきながらこんな事言うのは憚られるが…お前が一人京都へ行ってから母さんがどんな気持ちでいたと思っているんや?」
「親不孝なのは十分解っています。けどこのままでは…どないしても気持ちの整理がつかへんのです。せやから……」
謙也は持ってきた荷物を手に取ると部屋に戻ろうと立ち上がった。
去り際もう一度二人を振り返り真っ直ぐと見据える。
「俺の事は理解してくれとは言いません。ただ彼の…光の命の重さを解っていただければ…それで充分です」
そう言い残して出た居間には父の深い溜息と母のすすり泣く声が響き渡った。
翌日、謙也は朝から町の外れにある寺へと向かった。
無縁仏として葬られた光は本堂横にある墓に入れられていた。
数多に並ぶ石を眺めるがどれが光の仏かすら解らない。
謙也は墓の群に向かい手を合わせ静かに目を閉じた。
線香の臭いの間からする鼻をくすぐる甘い香りは謙也の懐にある香り袋が放つもの。
この片割は光が持っている。
出棺の時、しっかりと握らせた。
きっと彼の世でも同じ香りに包まれている事だろう。
その時、背後からする足音に目を開けた。
振り返りそこに居たのは見知らぬ男だった。
誰かの墓参りに来たものだと思った謙也はその場を明け渡そうと横をすり抜けようとした。
「あ、待って待って」
だが不意に呼び止められ、歩を止める。
「忍足…謙也さん、ですね?」
「そうですけど…あの…?」
「初めまして。満の兄の…渡邊オサムいいます」
静かに会釈する男があの気性の激しい女性と血が繋がっているとはにわかに信じ難い。
だらしないスーツに無精髭姿であまり真面目そうな雰囲気はなく、だが優しい面容をしていて雰囲気は妹とはまるで真逆だった。
年もかなり離れているようで、少なくとも十歳以上は年上に見える。
そんなオサムに、謙也は警戒心を解き同じ様に会釈をした。
「ご実家に帰ってる聞いたんですけど、訪ねたらここに来てるいうて聞いたんで、慌ててこちらに来たんですわ。お会いできてよかった」
「…わざわざ?何で…」
「ちょっと話したくてね…お時間はよろしいかな?」
謙也が頷くとオサムは本堂の横にある石段に座った。
そして謙也も同じ様に隣に座るのを見届けるとオサムは口を開いた。
「まずは…謝らせてもらえますか?」
不思議そうな表情を見せる謙也に、オサムは苦い表情を返す。
「光さんの事ですよ。妹が……彼に酷い事しているんは解ってたんですけどね、
どないもこないも我儘がすぎて言う事なんか聞いてもらえんで…情けないんですけど。
転院させるて聞いた時も最後まで説得はしたんですけど、結局無理矢理…あの日の事は聞きましたか?」
「いや、何も……」
「そうですかー…あの日の事は…いや…それ以外の事も、何も言いよれへんのですわ、うちの妹。
せやから何があったんかは俺も知らなくて…もしも満が…妹が、…彼を…その、殺めたとなると…」
そう口籠るオサムの沈痛な面持ちに謙也は静かに弁解した。
「それはない思いますよ。昨日光の亡くなった池に行ったんですけど…見つけたんです、遺書を…」
「え…?けど彼は目が……もしかしたらそれも満がやった事かもしれんわけやし」
「それもない思います」
不安げにそう話すオサムに、思わず失礼な事を言いそうになってしまい謙也は慌てて口を噤んだ。
光の残した句は、知性も教養も薄い妹さんが残したものだとは考え難い、と。
実兄を前にそれを言うのは流石に憚られてしまう。
謙也はさりげなく話題転換をした。
「あの…妹さん…満さんはどうされてますか?」
「戦局に身を案じた両親が長岡京にある女学校へ疎開させましたわ。向こうには親戚も多いんで…」
「…そうなんですか」
会話が続かず暫し流れる重い沈黙。
しかし突然何か閃いた様にオサムが声を上げた。
「せや!!…今日はこんな話しに来たんちゃうわ!!」
「は…?あの…」
「妹を除いて光さんに会うたんは俺が最後やと思うんです。せやからその時の事話そ思て…それで今日は来たんですわ。聞いてもらえますか?」
思わぬところから光の自害の真相が明らかにされる事となった。
オサムの口から出るのは光が行方不明になった当日の話。
その日満と共に光を東京の病院に行く算段となっていたオサムは初めて光の病室を訪れていた。
それは満のいない数分の間に交わされた会話だった。
「…お兄さん?」
「はい、あの僕…満の兄のオサム言います」
満は使いの者を伴い転院手続きに事務所に行っていた為病室には光とオサムの二人。
オサムは見えていないと解りながら深々と頭を下げた。
「初めまして…何や……優しそうな方ですね」
「え…?見えてません…よね?」
オサムは唇に微笑を湛えたまま言う光に不思議そうに言い返す。
「声で何となく解るんです」
「あ…声…声ね…なるほど…」
「背は……謙也君と同じ位か…痩せ型やけど、骨格は結構がっしりしてる、かな?」
尤もな返答に頷きながらオサムは目の前の少年をじっと見詰めた。
聞きしに勝る肢体と顔容、醸し出す一種異様な雰囲気に一回り以上も年下だと解っていながらも、その威圧感に負けてしまいそうになる。
目を閉じ静かに佇む姿に圧倒されながらオサムは遠慮がちに近寄った。
「本当に、申し訳ない事したと思ってます…妹の事では。年いってからの初めての娘で両親も俺も甘やかし放題にしてしもた所為で…
自分の思う通りにならんと…あの通りで、ほんまに……」
「…俺……俺は謙也君が幸せであればそれでええんです」
「え?」
噛み合いの悪い会話にオサムが言葉を失くすと光は独り言の様に呟き始めた。
「…相手が誰であれ謙也君が幸せになれるんなら俺の事なんか捨ててそっちに行けばええ…
ただ謙也君の心の片隅にでも俺を憶えていててくれればそれでええんです。ほんまに。それだけで。
愛し合う気持ちはいつか薄れてまうけど一度傷付いた心は一生…たとえその傷が癒えたとしても受けた痛みを完全に忘れる事なんか無理や。
ほんまに人の心奥深くに棲み付く感情は愛情なんて生温い想いやとあかんのですよ。俺は謙也君に好きやて言われたい訳でも、
まして愛してるだとかそんな痒い言葉聞きたい訳やない。俺は………その重い感情を与える…たった一つやけど、その方法を知ってる…
せやから、俺は謙也君の忘れえぬ人になれる……それで充分なんです。妹さんにもお幸せにとお伝え下さい」
そう清々しい表情で言われオサムはそれ以上何も言えなくなってしまう。
「最後に…謙也さんに会わんでもええんですか?このまま行ってしもても…」
「はい。きっとこれからも、ずっと一緒にいられますから」
「急に仕事が入ってしもたんで僕もその後の事は知らんのですけど…」
俯いたまま黙り込んだ謙也に気付いたオサムは、泣いているのではと顔を覗き込んだ。
泣いてはいない。だが今にも崩れそうな表情のまま地面を見つめている。
「あの…すんません、何や変な事言いました?」
「いえ……ありがとうございます……ずっと気になってたんです……事の真相が」
「もっと早ように話出来てればよかったんですけど…あれ以来一度もこちらに戻ってないて聞いてたもんですから…今日お会いできてほんまによかったです」
謙也は謝礼の意味を込め、もう一度頭を下げる。
そして家に戻る為に立ち上がった。
「せや、士官学校に進まれるて聞いたんですが…すぐ戦地に?」
「こればっかりは上の指示なんで何とも…ただ戦局が戦局なんで……」
「ご武運お祈りしてます」
頭を下げもう一度礼を言うと謙也は元来た道を戻り始めた。
家に戻れば門前で増が掃除をしていた。
ゆっくりと近付けば変わらぬ笑顔で迎えてくれる。
「お帰りなさいまし坊ちゃん。渡邊様とはお会いになれましたか?」
それは幼い頃、裏山で遊んで帰ってきた時と寸分の違いも無かった。
酷く安心させられる温かい笑顔に謙也も自然と笑みを向けることができた。
「うん。色々…話してきた。光の事…最期の話、聞いた」
「最期…ですか?」
「お兄さん…光と会った最後の人なんや言うて。せやからそん時の話な、聞いたんや」
「坊ちゃんその事なんですが……」
先刻とは違う少し自虐的な笑顔に増はずっと心に留めていた光との秘め事を話す決意を固めた。
一瞬の躊躇いの後、増は遠慮がちに話し始めた。
「光さんは…坊ちゃんから満お嬢様を引き離そうと思われてたのではないでしょうか?」
「…え?……何…?どういう事や?」
「光さんに口止めされていたのでずっと話していなかったのですが…」
全く予想だにしていなかった増の言葉に謙也も驚きを隠せない。
しかし自分を除く人間の中で増以上に光と親しくしていた者はいなかった。
それだけに信憑性は疑わない。
光は小賢しい満の罠にはまらない為に一人酷い仕打ちに耐えていたというのだ。
そしてそんな彼女から謙也を引き離す為に光が命を絶ったと、増はそう言う。
「…坊ちゃんを守ろうと必死だったのでしょうねぇ。何もかもが自分とは違う相手と闘う為には
正攻法じゃぁどないもならんとよく仰ってましたが…私もまさかこんな事になるなんて思ってもいなかったもので……
きっと光さんは満お嬢様に一生消えない泥を塗って、二度と坊ちゃんに近付けない様にされたんでしょう」
「光…が……?」
「家の者も界隈の者も皆口を揃えて満お嬢様が酷い事をしなさったから光さんが亡くなったのだと噂してますし、
結果として光さんの思いは叶った訳ではありますが…こんなのはあんまりやないですか」
涙ながらにそう話す増を呆然と眺め、謙也は言葉を失った。
そしてどうしてこんな事になってしまったのかと抗えない己の運命を呪った。
「坊ちゃん…光さんの願いでもあるんです……どうかお考え直し下さいまし。今戦地へ向かわれるのは得策では御座いません」
このご時世、不謹慎な発言だと解っていながらそう言わずにはいられなかった。
それは謙也の両親や弟、増を始め使用人達皆の願いでもあった。
だが光を失い心の中枢を失ってしまった謙也にその声はついに届かなかった。
心を燻っていたわだかまりが一つ一つ溶けている。
春の光が雪を溶かすように。
光の想いは充分すぎる程謙也に伝わっていた。
彼が願った幸せと矛盾する彼の願い。
光の願いは二つ。
謙也の幸せと、自分が生きてきた証を謙也の中に残すという事だった。
謙也にとっての幸せは光無しではありえない。
しかし光にとってたった一つ残された方法それはこの死、他ならなかったというのだ。
結果として彼の思惑は充分過ぎる程に成果を上げる事になった。
謙也の心には決して癒える事の無い大きな傷が生まれた。
だが前者は光の思惑から外れてしまっている。
二度とそれは果たせないだろう。
謙也にとっての幸せは光あっての幸せ、他ならないのだから。
光の誤算はただ一つ。
謙也が抱いていた光への想いが、彼の思っていたものよりもずっとずっと深かったという事だった。
大切な想いを掌に握り締めたまま空高く舞う春の香りに包まれて、謙也は故郷を後にした。
それはサクラミズ。
決して桜を臨む事の出来ない春を告げる花、桜見ずして散りゆく沈丁花の事。
去りゆく冬を惜しむよう甘い甘い香りを振り撒き春への期待を胸に抱かせる。
春を願う香り。
君を想う香り。
桜の季節を待たずして逝ってしまった君と同じ様だ。
芳醇な香りで切ない気持ちを胸に残し散ってしまった君の姿と重なる。
鮮烈に生きた彼は、まさに彼の生き様を表す鮮烈な方法を選び、そして名を示すよう明澄な光りとなり消えた。
どんなに苦しめばまた君に逢える。
どんなに想えば君を幸せに出来る。
決して失う事はないだろう想い。
この心を支配し続ける想い。
この心を蝕み続ける罪の意識。
それはまた花の季節がやってきて、やがて春を迎えても消える事はない。
永久に失ってしまったのだ。
自らを幸せにする為に必要な、この世で最も大切な存在を。
だからどうか今度こそ、この想い君に伝えさせて下さい。
勇気が奮えず言えなかった言葉を。
誰よりも大切な貴方という存在を、誰よりも愛していました。
次に出逢った時はきっと幸せになろう。
他の何を失おうと、それがどれだけ苦しいものだろうと、君を失う事よりも辛く哀しい事はない。
今生で逢えぬというのなら今ひとたび貴方に逢える様、彼の世へ参ろうか。
再び出逢えるなんて約束は無い。
それでもこれだけは誓える。
ずっとずっと君を想い続ける、これから何度春が巡り来ようとも。
そして喩え幾たび生まれ変わろうとも、この命ある限り君を想い続けるから。
どうか君はそこで笑っていて。