サクラミズ3

::: 参 アル冬ノ朝  :::



愛してる。

謙也はその一言を絶対に口に出せない。
失うものがあまりにも多すぎるからだ。
大家の嫡子として生れ、周囲の期待も大きい。
身分の違いも、何より大きな壁が男同士だという事。

好きだ。

相手の様子を伺い、冗談の様に言う事はできる。
嫌われていないという事は解っているからだ。
兄の様に、弟の様に思っている。
しかしその線を越えるのがいけない事なのだと本能が悟る。




決して声にする事の出来ない二つの想いを胸に、幾重も季節を過ごした。




そして謙也が十七を迎える年。
二人にとって忘れられない出来事が起きてしまった。
事故。
それは大きな事故。
大惨事だった。
謙也は、小春日和で朝から穏やかな光に包まれていた庭先で雑草抜きをしている光に近付こうと歩いてた。
「光」
「謙也く…」
近付いてくる謙也の存在に気付いた光は顔についた泥を拭い立ち上がった。
しかし納屋の横に差し掛かったとき、その場に立てかけてあった材木が謙也目掛けて一斉に倒れてきた。
「謙也君危ないっっ!!」
それに気付いた光は瞬時に飛び出し謙也を突き飛ばした。
悲鳴ともつかないその叫び声は重なり合った瓦礫に吸い込まれる。
勢いよく突き飛ばされた謙也は雑草の山に足元を掬われ地面へと転げた。
間一髪、謙也は瓦礫の犠牲にはならなかった。
しかし光はその細い体全てが瓦礫に飲み込まれてしまっている。
謙也も転んだ表紙に足首を痛めてしまった様だが今はそんな事よりも生き埋めになってしまっている光を助けなければならない。
急いで駆け寄ると瓦礫を掻き分けた。
「光っ!光!!大丈夫か!?」
「ってー…ぃてて…大丈夫…っスわ…」
瓦礫の中から出てきた光は傷だらけになっていた。
その様子を見た謙也は顔を青くして体中を見回す。
血が滲み、痣だらけになっている手足にますます青くなった。
「大丈夫って…大丈夫ちゃうやんけ全然…待っときや、誰か呼んでくるから」
「謙也君!ほんま大丈夫やから!」
そう言い立ち上がろうとしたが体は言う事をきかない。
それに目敏く気付いた謙也は使用人を呼び、すぐに病院へと連れて行った。
診察の結果、創傷の他打撲と捻挫で済んだのだが頭を打っているという事で大事をとって入院する事になった。
恐縮する光を何とか宥め、謙也は看病を買って出た。
本当なら自分が大怪我をしていたはずだというのに、光をこんな目に合わせてしまったという念もあるが本当に純粋に心配していた。
小言を言おうとする母親や女中連中を黙らせ、学校から光の病室へと直行しては書庫での密会と同じく二人で読書をする。
平日の午後、そして休日は朝から晩まで二人の姿が伺えた。
しかしその後の検査で異常が見つからなかった為、十日程で退院する事となる。
まだ心配だったのだが忍足家の女衆たちの小言に萎縮した光が心配する謙也を振り切ったのだ。
家に戻ると待ち構えていたのは忍足家女衆の陰険な空気だった。
謙也に遠慮して目に見えて何かをするわけではない。
だが光を疎む空気は次第に皆に伝染していった。

謙也は頭が良く、文学少年であった。
温厚だがしかし、活発で運動も良く出来る文武両道。
誰彼にも優しく癖の無い明朗快活な性格が皆に受け入れられ、
しかも父親譲りの精悍さと母親譲りの優しさが同居している均整のとれた面持ちにも好感が持て、女衆だけでなく男衆も含め皆に好かれていた。
一方光も性格は大人しいながらに明朗で頭の回転も早く、元の身分を考えれば多少傲慢になろうものだろうがその様な事はなく、
また身分を失った事を僻む事も無く真っ直ぐな性格をしている。
だが如何せん元お殿様。
真っ直ぐな性格が転じてか言いたい事を包み隠さず全てさらけ出す性分が直らず、それが忍足家では大層評判が悪かった。
女中連中が饅頭をこっそり食べているのを見つけてしまい、黙っていろと言われればそれ以上に太ってどうするのだと毒づき、
また丁稚の少年が好意を寄せているという女中に勝手にその想いを密告してしまい大顰蹙を食らう、といった具合だ。
だが光に悪気は微塵もなく、皆何をそんなに憤慨する事があるのだと首を傾げた。
謙也も最初はその正直すぎる性格に戸惑いを覚えたのだが、ある日、
普段は仲良くしているように見受けられていた女中たちが実は互いに陰口を叩き合っているのだと知り、
その場面を目撃してしまって以来、その真っ直ぐな性格に好感を覚えるようになったのだった。
光の評判が悪くなったのも謙也が必要以上に構うからという事、そして光の容姿や元の身分も要因にあるだろう。
近辺に年頃の男子が謙也とその弟以外にいないから、というのもあるが女衆誰もが憧れる謙也が、
これまで誰も独占しないというのが暗黙の了解であったにも関らずその謙也が光にかかりきりだという事。
またこの辺りの女達は皆畑仕事や家事で肌は浅黒く焼け、荒れ放題なのだ。
そんな中にいる光だから皆の劣等感を刺激してしまう。
女も羨む整った顔容が嫉妬心を更に上長させていた。
それらがより皆の悪評を誘う事となっていた。
その上元の身分に遠慮してか他の使用人たちとは一線画した扱いを受ける光を妬んだ当然の結果であろう。
かくして埋めることが出来ないほどに開いてしまった光と使用人たちの溝は深まるばかり。
しかしそれに反して謙也との絆はますます深まっていった。
家族も財も、自分を取り巻く何もかもを失ってしまった光にとって謙也は唯一、心の拠り所であった。
誰彼にでも優しい謙也は当然光の事も大切にしていた。
血を分ける存在で兄は知っていた。
だが親子程も年が離れていて、母親も違う。
一緒に暮らしていても仕事で忙しく飛び回っていた兄との接点はほぼ皆無といってよかった。
そんな光にとって謙也との関係は新鮮な男兄弟の様なもの。
謙也もまた他の丁稚たちとは違い、あまり隔たりを感じない光の飾り気のない性格を大変気に入り、常に側に置いていた。

そんな広い家の中で二人きりでいるかの様な錯覚の中、ひと月あまりが過ぎた。
謙也が光の異変に気付いたのはその頃。
北向きの風が庭を包み始めた霜月十日。
謙也はいつもの様に庭掃除をしている光を部屋から眺めながら小説を読みふけっていた。
だがその光の様子がどうもおかしい。
竹の箒を片手に犬の如く地面に這いつくばり、手探りで落ち葉の所在を確かめているのだ。
気になりしばらくその動きを看視していると、足元は覚束無い様子で時折落ちている石に足を取られている。
そして家の壁を手で伝いながら玄関を探り当て中へ入っていった。
あれではまるで目闇ではないか。
慌てて廊下に出ると光の姿を捜した。
光はまだ玄関にいて相変わらず手探りで靴や草履を除けている。
「光……?」
驚かせないようになるべく優しく声をかけたつもりだった。
しかし光は突然した謙也の声に大きく肩を揺らした。
「あ…謙也君?何?どないしたんっスか?あ、お茶やったら後にしてくださいよ。俺今忙しいんで…」
光の焦点は全く謙也に合ってはいない。
やはり、と落胆した。
光の瞳から光が失われていたのだ。
いつからか、全く気付かなかった自分を酷く悔やんだ。
光の様子からすれば昨日今日見えなくなった訳ではないだろう。
「……いつからや?」
「何が?」
「いつから見えんようなっとってん?!」
気持ちを抑えようと自然と声が低くなっていく。
それを怒りと捉えた光は身を小さくしてただひたすら頭を下げて謝った。
怒っているわけではないから正直に話せと言うと、まだ完全に目闇になってしまったわけではない、と先に断り噛み締めた唇を開き静かに話し始めた。
その兆しを感じ始めたのは霜月に入ってからで視界の端に黒い斑点が見え始め、その黒い闇がどんどんと視界を蝕んでいった。
そして今朝起きるとほとんど見えなくなっていたと言う。
それを聞いた謙也は何故すぐに言わなかったのだと責めたかった。
だがそう言っても埒が明かないと、すぐに町外れの病院へと連れて行った。
診察を待つ間、まるで処刑をまつ囚人が如く心臓は高鳴る。
静かに開かれる扉から看護婦が顔を覗かせ、謙也を診察室へと招いた。
医師の説明があるのだ。
光はすでに病室に連れて行かれた後らしく、忙しなく検査器具を片付ける看護婦と医師だけが室内にいた。
招かれるまま医師の前に座り言葉を待つ。
「……結果から話そか。左眼はかろうじて光が入っているけどな、右眼は完全に目ぇ見えんようなっとるわ」
「原因は?病気何かですか?」
「何ぞ強い衝撃受けた所為やろなぁ。覚えは?」
真っ先に謙也の脳裏に表れたのはあの日の事故だった。
黙ったまま固まってしまう謙也に医師は淡々と説明を続けた。
頭を強打してその衝撃で目の裏にある膜に小さな穴が開いたのだ。
その時すぐに医者にかかっていればまだ適切な処置もできたのだろうが、すでに時遅し。
小さな穴は次第に光の視界を蝕んでゆき、そして失明に至らせた。
直接ではないとはいえ、原因の一端を担っていると謙也は自責の念に迫られた。
しかしそれを光の前で出してしまえば気にするに違いないと、光の前では努めて明るく振舞う事にした。

病室に向かうと光は看護婦に渡された浴衣に着替え、病床に座っていた。
見えるはずもない窓の外をぼんやりと眺めている。
得も言われぬ緊張感が謙也の心を支配し、なかなか話し掛けられないでいると先に光が口を開いた。
「ごめんな…ほんまに、ごめん…すみませんでした」
謝るのは自分の方だ、と口に出してしまいそうになった。
しかしその身を呈して助けてくれた光の気持ちを反故にしたくない、そう思い寸前で押し止めた。
そして近くによると手を差し伸べる。
その気配に気付き一瞬肩を竦めたが謙也の指先が頬に触れると力を抜き身を任せた。
「何も心配せんでええから」
小さく頷く光の仕草を掌に感じ、謙也は言葉を続けた。
「いっぱい頼ってくれてええから」
光を映さない瞳が縋る様に動いている。
不安だ。
目は口程に物を言うと、そう物語っている。
「一人ちゃうからな…迷惑かけてるなんか、思わんでええから」
頬を軽く撫でる。
仔猫に触れる様に、優しく何度も。
すると光は今まで閉ざしていた口を開いた。
「見えんようなったんが…アンタの目やなくってよかったわ……」
そう言い綺麗に微笑む光への愛しさが謙也の胸に染み渡った。
同時に、これから先何があっても腕の中で小さく震える肩を守ろうと心に誓った。
責任感でも同情でもない。
ただ光を想う気持ちがそうさせた。
何も言えないでいる謙也に、光は更に続けた。
「……約束…してや、謙也君…」
「何?」
「これからはこの事で…謝らんようにしましょ、お互い。誰も悪ないんやから…」
「…解った」
二人小指を絡め、誓い合った。
ある冬の朝。


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