サクラミズ2

::: 弐  書壇ノ窓辺 :::


どれだけ君を想えば、この気持ちは膨らむ事を止めてくれるのだろう。

木枯らしがまた冬を告げる。
こうして冬を迎えてもう何年も越えた。
この季節、鮮明に思い出されるのは君がこの家にやってきた時の事。



辺り一帯を取り仕切っていた忍足家の主人が知人を介して紹介された少年を奉公人として雇った。
それは謙也が十四になる年の初冬。
謙也はこの忍足家の嫡子で周囲の多大なる期待を一身に受け、窮屈な生活を強いられていた。
友達と呼べる人物はおらず、年の近い者といえば二つ下の弟、そして家庭教師をしていた大学生だけ。
大人たちに囲まれ、窮屈で退屈な毎日に光が射した思いだった。
その少年がこの家にやってきた時は。

光という名のその少年は、生きている事も俄かに信じ難いほどに華奢で白く透き通る様な肌をしていた。
父親に挨拶をしている光を物影から覗き、不躾にもつい凝視してしまう。
小さな顔で一際存在感を放つ猫のような黒耀の瞳と紅い唇。
これから庭の端にある納屋で住み、この家で働くと聞いていたがあんな体で本当に働けるのだろうか。
それにもう使用人は足りているのだからこれ以上雇う必要なんてあるのだろうか。
謙也の中にいくつか疑問は生れたが、何か事情があるのだろうと冷静に対処したのだった。

さて、この光という少年。
謙也の興味を引くには充分すぎるほどに不思議な違和感があった。
こんな風に住み込みで働きに出なければならないのだから貧しい生まれなのかと思ったが、
他の使用人と違ってどこか気品があって仕草の一つ一つが小さな頃から充分に躾られた者である事を物語っている。
やはり何か事情があるのだろう。
しかし漂う近付き難い雰囲気が話しかける事を躊躇させる。
だからといって光から話しかけてくる事もなく、暫くは様子を影から伺う事しかできないでいた。

貧しい生れでないだろうと思った理由は、まず字の読み書きが難なくできるということ。
本が好きで時間が空いた時にはいつも納屋の窓から射す僅かな光を頼りに読書をしていた。
その様子が庭の端から伺える。
謙也はそれを飽きもせず何時間も眺めていた。
自身も読書をしながら。
そして誰からも教わらずに完璧に身につけていた礼儀作法。
何より使用人は大部屋で共同生活しているというのに、彼だけに特別にあてがわれた別室。
元は納屋だが普通に人が住むには充分である。
あらゆる要素が彼が普通の使用人でないと示しているのだ。

「何者なんやあいつ…」
「名家の御曹司やて」
いつものように遠くに光を眺めながら読書をしていた時。
ついぽつりと出た独り言に、いつの間にか後ろにいた謙也の弟が口を挟んだ。
「ほな何でこんなとこおんねん」
「いわゆる没落貴族って奴らしいで。元々は地方の有力大名のお家柄で、順風満帆にいってた海外での事業もこの恐慌で壊滅状態。
家も財産も何もかも失ったんやって」
「ふーん……ほんで何でお前がそんなん知ってんねん」
「おば様らがでっかい声で井戸端で噂しとったから聞こえただけや。何やうちみたいな田舎侍なんか比べもんならんぐらいの家らしいな、財前って」
年に似合わず耳年増な弟だと謙也は呆れ顔を向けた。
しかし彼もやはり光の存在を不思議に思っていたのだろう。
謙也がそうであったように。

読書をしながら居眠りをしてしまった謙也は何か暖かいものを感じて目を覚ました。
誰かが上着をかけてくれていたのだ。
上品な紺色のセーター。
見覚えがあるそれを持ち主の元に返そうと、謙也は立ち上がり庭に出た。
田舎の庭らしく椿の垣根に囲まれた広いそこを抜け、少し離れた場所にある納屋の扉を叩いた。
暫しの間を置いて微かに聞こえる声に謙也は木戸を引いた。
彼は謙也の思っていた通り窓の下で読書をしている。
突然の訪問者に驚いた部屋主の黒い瞳がゆらりと揺れた。
「これ…お前がかけてくれたんやろ?」
綺麗に畳まれたセーターを差し出され光は大きく目を見開いた。
何か用事を言いつける為に来たのだとばかり思っていたからだ。
そして謙也と会話をするのがこれが初めてだったからか、戸惑い気味に言葉を繋げる。
「あの…さっき庭掃除してたら昼寝してはるんが見えて…風邪引いたらあかんと思ったんで……」
「ありがとうな。めっちゃ温かったわ」
真っ直ぐな謝礼と共に差し出されるセーターを受け取り、光は遠慮がちに笑顔を向けた。
「いつも何読んでんねや?」
無表情から生まれたその笑顔が思った以上に人懐こく、少し心を許した謙也はいつも疑問に思っていた事を問い掛けた。
「これ?…日本神話」
「日本神話?純文学かと思ってた…」
「あ…俺これしか持ってないから……あ…です…」
弟の話が本当ならば自分など比類にならない程の家柄で世が世ならばお殿様であろう。
今まで人の下にかしずいた事などなかった光の不自然な敬語に謙也は思わず笑いを漏らした。
自覚しているのか光も頬を赤らめ苦笑いを返す。
「本好きなん?」
「うん…あ…はい……」
少しも邪気のないその様子を見ていると、彼との隔たりなどほんの微々たるものだ。
これから時間がそれを埋めてくれる。
謙也はもう少し光を知りたくなった。
恐らく年の近い者が側にいなかった所為もあるだろう。
しかしそれ以上にこの少年自身に興味が湧いたのも事実だった。
「あんな…よかったら俺の本貸そか?書庫にようけあるし」
「え……ええん?…あ…ですか…?」
何も取ってつけたようにしてまで丁寧に話し掛けられたいわけではない。
それどころか二人の間にできる隔たりにすぎない。
謙也はそれを使う事を禁止した。
光も最初は戸惑ったが、間を置かずして自然に話す事ができた。
二人は謙也の部屋へと場所を移し、本選びを始める。
「どれでも持っていってええで。ここにある本もう全部読んだから」
「全部?ここにあるん?すげぇっスね…」
千冊は下らない本の数々を目の前に光は目を丸くした。
様々な種類の小説や詩集、歌集。
その全てを読破したという謙也に羨望の眼差しを送る。
謙也はその中でも読みやすそうなものを何冊かを手渡し、また読みたくなったらいつでもここに来ればよいと言った。

しかしその約束はすぐに破られた。
仲違いしたわけではない。
納屋にいる時間よりも書庫で過ごす事が増えたから。
謙也は勉強机に座って、光は窓枠に座って。
二人で会話もなく陽だまりで読書をする。
それが二人の日常になっていた。
「謙也君、謙也君」
「んー?何や?」
光は窓枠から立ち上がり謙也の元へと歩いていく。
そして本を開き謙也に見せた。
「これ何て読むんですか?」
「……あぁ方違か…"かたたがえ"陰陽道で忌避すべき方角に出かける時、前の晩に他の方角へ行って泊まってから目的地に行く事。平安貴族の習慣やで」
光の質問に難なく答える謙也に羨望の眼差しを向ける。
「へー…謙也君って意外と頭ええんですね」
「意外と言うな意外とて。失礼なやっちゃな」
「読んでても全然解らんねんけど…古典作品はやっぱ難しいっスわ」
「何読んでん?」
謙也の疑問に光は持っていた本の表紙を見せた。
そこには源氏物語との印字が伺える。
謙也は立ち上がると数多の中からそれの口語訳された本を探し出し、手渡した。
光のお礼の後、再び訪れる沈黙。
しかしそれは二人にとって苦痛なものではなかった。
ただ穏やかに流れる時間、それだけが二人に許された共通項だったから。
「あ…なあ、前から気になっとってんけどあのでっかい木、何?」
「あぁ…沈丁花の木やよ。バケモノじみとるやろ、あそこまででっかいと」
「ほなもうすぐ咲くんですね…」

微妙に変わり始めた二人の空気。
それは春の訪れと共に。
沈丁花の甘い香りと共に。


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