誓約結婚 6
「ただいまー」
この家で同居を始めた頃にはなかった帰宅を知らせる仁王の声に、柳は必ず家のどこからかやってきて玄関で出迎えていた。
しかし何故か一向にやってくる様子は無い。
以前ならばさして気にもせず自室に直行していた。
だがそんな僅かな変化がいやに気に掛かるのだ。
何かあったのだろうかと心がざわめく。
仁王は靴を脱ぐと玄関に上がり、リビング、ダイニング、キッチンと順に探して回る。
しかしその姿が見当たらない。
一階や自室、柳の部屋、空き部屋まで探すが、やはり柳はどこにもいなかった。
「…どっか…行ったんか?」
この家から出るなという祖母の言いつけを破り。
否、考え難いと思い直す。
あれ程気にするな、出掛ければいいと言ったが考えておくと答えるだけで、
実際行動に移す事がなかった相手が何も言わず出て行くとは考えられない。
ならばこの広い家のどこかにいるはずだ。
だが本当にいるのか、本当は何かあって出て行ったのではないか、そんな不安が心を過ぎる。
「おーい…ほんまにおらんのかー?」
家中を見て回って最後、裏庭に続く和室に入り、狭い室内を見るがやはり見当たらない。
子供ではないのだ、まさか押入れに入っておどかしてやろうなどと考えるはずもない。
そう思いながら見るとも無しに庭を眺めると、大きな木の根元に突っ掛けが見えた。
あれは裏庭に出る為にこの和室の縁の下に置かれていたものだ。
仁王は慌ててスリッパのまま庭に出た。
「お…おい!!どうした?!」
部屋から死角になる場所に、柳はいた。
ただし、立つなり座るなりしていれば仁王もこれほど焦らなかっただろう。
探し人は根元に横たわり気を失っていた。
「おい!しっかりせえ!」
上半身を抱き起こし肩を揺さぶると小さく唸りながら目を開いた。
「う…あ……?」
「大丈夫か?どないしたんじゃ?どっか具合でも悪いんか?」
心配そうに見下ろす仁王の表情にようやく何が起きたのかを理解した柳が小さく呟く。
「あ…ああ……おかえり…」
「おい、質問の答えになっちょらんぜよ」
仁王の助けを借りながら体を起こすと、柳は後頭部を擦る。
「……猫が…」
「猫?」
そういえば、と仁王は目を見開く。
これまで倒れているという異常事態にばかり気を取られていたが、柳の白い頬に赤い筋が三本引かれている。
「引っ掻かれたんか?」
「ああ…この木に登っている子猫がいてな……下りれないと鳴いていたから手を貸したら驚かせてしまったようで引っ掻かれた。
それで驚いた拍子に…」
そう言って柳は木の根元に置かれている造園用の大きな石を指差した。
「あれで頭打ったんか?!」
「それで気を失ってしまったようだな」
「おいおいマジか…」
仁王がそっと後頭部に手を当てると柳は顔をしかめた。
痛いはずだ。立派なコブになっている。
「ちょ…救急車呼んでくる」
慌てて立ち上がり踵を返す仁王の腕を掴み柳は引き止めた。
「そんな大袈裟な…大丈夫だ。意識もはっきりしているし気分も悪くない」
「やけど…」
あまり顔色が良いとは言えない。
何度も手をあてている痛々しい頬の傷も気になる。
子猫だと言っていたからそれほど強い力ではなかったのだろうが、細い爪で掻かれたのだ、痛くないはずもない。
「せめて病院行こう。近くに知り合いの医院があるけ、今から診察してもらお」
「しかしもう診療時間外だろう?」
春になり、少し日が長くなったとはいえ辺りはすでに薄暗い。
部屋の時計を見ればすでに七時を回っている。
だが仁王は頑として譲らず、しかしそれ以上に遠慮する柳は家から出ようとしない。
仕方なく仁王は診療が終わったらうちに来いと無理矢理にその医院の医師を呼び出す事にした。