誓約結婚 3

その日はたまたま得意先からの直帰で珍しく日の高いうちの帰宅となった。
こんな事は結婚してから初めての事で、柳も驚くだろうとぼんやり考えながら庭を横切り玄関を目指していると、
庭に面した座敷から甲高い声が聞こえた。
慌てて身を隠し、中の様子を伺おうと耳をそばだてれば、祖母が部下や伯母を連れやってきているのか声がした。
なるべく、というより絶対に顔を合わせたくない。
面倒はごめんだと仁王は裏口から入ろうかとそっと足を進めようとする。
しかし祖母や伯母の言葉に縛られ、仁王の足は止まった。
「何の為にあなたをこの家にやったのかはご理解いただけていますわね?」
「はい」
「理解しているのなら、どうして雅治はこの家に寄り付かないのかしら」
「全く、何度も何度も同じ事を言わせないでちょうだい!!」
「本当に申し訳ありません…全て私の不徳の致す所です」
雨戸に体を押し付け、気付かれないようそっと中を見れば柳は畳に額を付け、土下座をして謝っている。
祖母らの口振りからして、自らが原因で攻撃を受けているのは間違いないだろう。
それに何度も、という事はこの一ヶ月の間に同じような事が少なからずあったという事だ。
しかしそんな事は一度も聞かされていない。
それだけではない。
こんな風に仁王の所為で責められていたなどと一言も言っていなかった。
それからも祖母の静かな声と伯母の甲高い怒鳴り声が交互に柳に降りかかっている。
耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言の数々を浴びせられながらも、柳はずっと頭を下げたまま一言も反論をしなかった。
「先にこちらが破棄した契約とはいえ…ごく潰しの貴方を拾ってやった恩を忘れたわけではありませんわね?」
「もちろんです」
「でしたら、どうすればいいかお分かりね?」
「はい」
「貴方がここ以外に身を寄せる場所がないのは解っているのですよ」
「はい」
「でしたら、これからどうすればいいか、頭のよろしい貴方なら…」
「重々に承知しております」
そう言って顔を上げた柳は嫌な顔一つしておらず、真っ直ぐに祖母を見ている。
反抗の意思がない事に気を良くしたのか、祖母も伯母も満足げに薄笑みを浮かべた。
「そう、それならいいわ。くれぐれも口先だけにならないようにね…貴方も、育ててもらったあの家にこれ以上迷惑はかけたくないでしょう?」
「はい」
「だったら、せいぜい雅治の機嫌を取りながら暮らす事ね。その面容ですもの、女だったらこんなに苦労なさらなかったでしょうけど…
でも女ならこんな事にはなっていないでしょうし、皮肉なものね。
貴方はどうしたって誰の役にも立たないのですから、この家で死んだように暮らしていればいいのよ」
柳の人権や尊厳などまるで無視した発言の数々にただ唖然として突っ立っていると、
俄かに騒がしくなり客人が帰るのだと察知した仁王は慌てて裏口に回った。
キッチンにある勝手口から入り、床に腰を下ろした。
いや、下ろしたというより抜けたと表現した方が正しいかもしれない。
先刻のやり取りを思い出し、呆然としていると柳がいつの間にか戻ってきていた。
背後からおかえり、といつもの表情で言われる。
「何だ、今日は早いんだな」
「あ…ああ」
「お祖母様がいらしてたからここから入ったのか」
機嫌が良くなかったようだから顔を合わせなくて正解だ、などと呑気に言い、
シンクの前に立って冷蔵庫で冷やしたおしぼりと麦茶を用意する。
やはり言うつもりはないのかと仁王は隣に立ちその手を握り遮った。
「お前、あんな事いつも言われとったんか」
「…聞いていたのか?」
お互い、この家に来て初めて見る表情を浮かべる。
仁王は真剣な、柳は焦ったような。
その顔を突き合わせ一瞬時が止まる。
静寂を先に破ったのは柳の方だった。
強く握られた手首を振り払うような仕草を見せ、肩で一つ息を吐く。
「そうか…だがお前は気にしなくていい」
「気にするわ。俺の所為じゃろ」
「そんな事はない。お祖母様も、伯母様も…理由をつけてただ鬱憤晴らしをしたいだけだろう。お前を直接叱らないのがいい例だ」
仁王が手を離すと、柳はその二つを盆に乗せてダイニングテーブルに置いた。
そして仁王に座るよう促す。
言われるまま椅子に座り、出されたお茶を飲む。
「お前…何考えとる。嫌々ここ来たんじゃなかったんか?」
「何、とは?俺は俺の意思でこの家に来た。それが全てだ」
「違う。全部聞いとったんじゃ…あのババア、変な事言うとった」
「聞きたいのか?あまり気持ちのいい話ではないが?」
「言え。洗いざらい全部…気になるわ」
真剣な顔で言う仁王に、柳はこの空気に不相応な抜けたような表情を見せた。
それを訝ると、柳は何事もないようにいつもの表情に戻す。
「俺の事など気にしていないのだと思っていた」
「それは…」
その通りだった。
確かに柳の事など全く興味はなかった。
ただあんな場面を見てしまえば、裏を知りたいという好奇心ではない、たとえば同情や労りのような思いが湧いていたのだ。
この状況を無視できるほど仁王も非情ではない。
そんな事まで見透かしているかのように、柳は初めて会った日と同じ様に淡々と身の上を語り始めた。
「お祖母様の言っていたように、俺にはここ以外に行く場所がなかった。それは確かだ」
「実家は?」
「妾出の俺には針の筵だ。なるべく迷惑はかけないよう色々と気遣ってはみたが無駄だったようだな。
お前との話が出た時に他の縁談もあったのだが…どうやら俺には子種がないらしい。
相手の家には跡継ぎも作れん様なごくつぶしはいらないと言われた。だからここに来たのだ。
ここならば家の為に子を作る義務もないからな。俺も気が楽だ」
のんびりと茶で喉を潤しながら、まるで世間話でもしているかのように何でもない事のように語られる日常は、
恐らく仁王には理解できないほどに壮絶だったのだろう。
しかし柳は実家への恨みは無いのだという。
行き場のなかった自分を二十年も育ててくれた事に感謝していて、これ以上迷惑かけたくはないとここに嫁ぐ事を了承したのだ。
「やからって…こんな…ありえんやろ。あんなキツイ事言われてまで……」
「ああ、あの程度。実家ではもっと色々言われていたから全く問題ない」
「何やと?」
あれ以上何を言われてきたのだと、流石の仁王も二の句が継げない。
だがこの落ち着き払った様子から強がりや無理を感じる事はない事からそれが真実であろう事は伝わる。
「まあ成人もしているし自活もできるが…今は役目を全うする事だけを考えている」
「役目?」
「この家にお前を引き止め愛する事、という役目だ。俺はその為にこの家に来た」
「そんなもん誰かに頼まれてする事違うて…」
こんな訳の解らないお家騒動に巻き込まれ、どちらの家からも冷たい風に晒され続けていたのだ。
この一ヶ月の間、ずっと。
仁王はそれまでの己の行動を省みた。
自分一人迷惑を被っているとばかり思っていた。
しかし相手は自分など比ではない扱いを受け、それでも文句一つ言わず尽くしてくれている。
これ以上何かを望むなどおこがましいにも程がある。
「だが、それは俺の勝手な都合だ。俺は俺で勝手にお前を愛しているからお前はお前で好きにすればいい」
「いや、そういうわけにはいかんやろ…」
「そう言うと思っていたから俺はお祖母様や伯母様との事をお前に言わなかったんだ。本当に、気にするな。
お前にまで気を使われては俺はこの家に居辛くなるから、今まで通りにすればいい」
そうは言われても、こんな話を聞かされたまま今までのように遊びに出るわけにはいかないだろう。
今日も一度着替えに戻っただけで、これから出掛けるつもりにしていた。
それは柳も解っているのか、風呂の用意をしてくると言った。
だがもうそんな気持ちは完全に失せている。
「あ、それより腹減った。飯がいい」
「飯か…今から作るつもりにしていたから少し時間がかかるが」
「構わんよ」
柳は時間がかかると言って作り始めたが、手際よく用意されたて一時間ほどで早めの夕食となった。
初めて二人で向き合いながら食事をして改めて気付かされる。
奔放に育てられた仁王とは対照的に、柳は厳格に躾けられたであろう美しい所作を持っていた。
洗練された所作に見合う容姿や優れた頭脳、もしやとんでもない逸材をこの家に閉じ込めているのではないのかと思う。
そもそも、あれだけ頭がいいのだ、働き口など引く手数多だろう。
仁王も一応は人を使う立場にある。
その視点からしても柳のような人材はどこへ行っても重宝がられるに違いない。
それだけに何かとても贅沢で勿体無い時間を無理に過ごさせているような気分になってきた。
「あん、さ」
「何だ」
互いに言葉もなく黙々と箸を進めていたが唐突に声をかけられ、柳が驚いたように目を見開く。
それまでじっくり見た事がなかったが、薄い瞼の下には存外な薄い飴色の瞳があった。
仁王は一瞬それに見蕩れ、慌てて言葉を繋げる。
「仕事とかしたい思わんのか?」
「働きに出ろという事か?」
「あ、いや、違う違う。無理に出ろって事じゃのうて、一日家ん中篭っとったら滅入らんか?」
「滅入るも何も…俺はこの家からは出れん」
「は?」
「この敷地からは一歩も出ない。それもお祖母様とかわした契約の一つだ」
そしてまた、柳は何事でもないように箸を動かし始める。
しかし箸を止めたまま、口をぼんやり開けて呆然と見つめる仁王に気付き、どうしたんだと再び箸を止めた。
「出るなって…言われてんのか?!ありえんじゃろ?!買い物は?」
「配送サービスを頼んでいる。最近は便利なものだな…電話一つメール一つで何でも届く」
いつも家にいたのはそういう理由もあったのかと合点がいく。
恐らくは他の者の目を気にしてこの家に閉じ込め、また、他の者に柳の目が行かないようにする為だろう。
だが納得はいかない。
こんな理不尽を押し付ける祖母も、そんな理不尽を平然と受け入れている柳も。
「そんなもん気にせんで自由にしろよ。俺は構わんけ」
「考えておこう」
笑いながらそうは言っているが、恐らくこの契約を破る事はないだろう。
そしてその仁王の予想は当たってしまっていた。
この奇妙な結婚話の裏を知ってからひと月、仁王の知る限り家を出たようには思えない。
会社に行っている間に家を出ているのならば解らないが、しかし玄関より外に出て行った形跡がまるでないのだ。
そしてそのひと月の間、仁王は会社から真っ直ぐ帰宅していた。
良心が咎めて外で遊んでいても何一つ楽しくないのだ。
これが祖母の思惑ならば大したものだと思う。
頭ごなしに押さえつけても聞かない仁王の、なけなしの良心に訴えかける非情な策だ。
だがこんな事の為に犠牲になっている柳にはいい迷惑なのではないか。
この現状も含め、とりあえずは反省をして定時に帰る仁王に、今度は柳が訝る番となった。


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