誓約結婚 2
正式な婚姻関係ではないにせよ、身を固めたという事実上一緒に住まないわけにもいかない。
そもそも、その為の契約上の結婚なのだ。
仁王は郊外に建てられた離れ屋に半ば軟禁のような形で追いやられてしまった。
二人で暮らすには十分すぎるほどの広さの家の為、一日顔を合わせない日もあり、仁王のストレスは当初心配していた程でもない。
それどころか五月蝿く言う家の者が居なくなり、その上同居人の柳は何も文句を言わず家事の一切を引き受けてくれている。
いつしかこの上なく至上の場を手に入れた気分になっていた。
今日も仕事の後、飲んでから帰宅したのが午前過ぎ。
しかしいつも柳は笑みを浮かべお帰りと迎えた。
良妻の鑑だ、と仁王は思った。
少なくとも今まで付き合った女とは違う。
否、男なのだから比べる方がおかしいのだが、どこへ行っていた何をしていたなど聞いてくる事がない。
それだけ興味が薄いのだろう。だが一緒に暮らしているのだから多少は気にしてもいいのではと矛盾した思いが仁王の中に生まれていた。
「飯は食ってきたのか?」
「ん?ああ、すまん、作る前に連絡したらよかったのう」
大して悪くも思っていないのだろう仁王はへらりと笑いながら酔い醒ましの水を飲む。
ダイニングには仁王の分であろう一人分の食事だけでなく、柳の分の食事も残っていた。
「っつーか…お前さんまだ食うてないんか?」
「ああ、気にするな。俺が勝手に待っていただけだ」
「気にすんなっつってもなあ…俺が気ぃ使うから、次から待っとらんでええぜよ」
「いや、しかし…」
まだ何か言いたげにしたが、それを遮るように仁王は音を立ててグラスをシンクに置きキッチンを出た。
「明日も早いけ、俺はもう寝る」
「風呂は?」
「朝入る」
「そうか、おやすみ」
この様子なら風呂も用意されていたのだろう。
しかしやはり仁王を口煩く咎める事も責める事も無い。
だからこそこの同居も成立しているのだが、柳の考えている事が全く解らないのだ。
これは相手への興味如何ではない。
柳が考えている事を知りたいとは思わないが、ここまで尽くされると何か裏があるのではと考えてしまう。
ただでさえ疑り深く、物事の裏の裏を見ようとする仁王は薄気味悪さすら感じるのだ。
広い家の中、たった一人のような気持ちのまま仁王はベッドに潜り込む。
二人の部屋は二つ空き部屋を挟んでいて、普段は物音すら聞こえてこない。
だが、今日は妙に気になり仁王は闇と静寂の向こうにある柳の気配を探った。
仁王が寝室に篭ってから約一時間後、ようやく階段を上る音が聞こえてくる。
しかしそれも余程注意していなければ聞こえてこないほど小さな音。
どれだけ気を張って生活しているのだろう、それとも普段からそのようにしていたのだろうか、
仁王の中に初めて柳に対する興味が少し湧いて出てきた。
そんな翌朝、目を覚ました時点ですでに風呂の湯は張られていた。
「気持ち悪いのぅ…毒でも入っとるんじゃ……」
風呂から出て用意されていた朝食は朝から一汁三菜、しかし食の細い仁王に合わせて量は控えめ。
昼にと持たされる弁当は仕出し屋も顔を青くしそうなほど。
夕食を一緒に食べた事はまだないが、用意されているものは常に見目も美しい料理ばかりだった。
「何を馬鹿な事を言っている。早く食べなければ遅刻するぞ」
いたのか、と驚き振り返ると洗濯物の籠を抱えていてこんな朝早くから洗濯していたのかと更に驚かされる。
庭にある物干し台に向かう後姿を眺め、もういっそ都合のいい家政婦か何かだと割り切ればいいかと思った。
今のところ一緒に住むのに苦痛を感じるような問題があるわけではない。
同居が始まって丁度半月、ようやく仁王はこの歪な結婚生活を受け入れられるようになった。
だがそれは柳本人を受け入れるものとは違った。
いつも無表情でどこか暗く後ろ向きな印象の柳とは打ち解けられなかったのだ。
一日中家に篭りきりで何をしているのかと思えば家事か読書、書やお茶の稽古と仁王には理解できないものばかりであった。
しかしその分柳はあらゆる分野において知識が多く、話をすれば未知の世界を知った気分になり、それなりに楽しかった。
それを酒の席などで話題に出せば間違いなく女の子の気を引ける為、よく利用していた。
仁王は相変わらず外で遊ぶ事を止めず家に帰らない日など週に一度や二度ではない。
生活は結婚前と何ら変わらないまま、気がつけばひと月が過ぎていた。
その間、ただの一度も柳の口から恨み言などを聞いていない。
だからその現実を目の当たりにするまでは何の疑いもなく柳もこの生活を受け入れているのだと思い込んでいた。