誓約結婚 16

言葉の果てに何という事を言ってしまったのだろうか。
仁王は頭を抱え、一人ダイニングに立ちつくした。
テーブルにある置き手紙と一人分の朝食が虚しく主を見上げている。
手紙にはしばらくは家を離れる、近いうちに荷物を片付けに戻るがすぐに出て行くから安心してくれとあった。
昨夜つい勢いで出て行けと言ってしまったのだ。
柳がこの家を出るように祖母から圧力を掛けられていた事は知っていたが、それを無理に引き止め続けていた。
そしてそれを柳は叶えてくれていた。
家から受ける理不尽な言葉など意に介さず、仁王の願いを叶え続けていた。
どんな言葉も我がままも、全て受け止め慈しんでくれた。
だがそれらは全てが義務感からくるものなのだ。
義務以外で愛してやる事は出来ないという彼の言葉は時間を含み、今になって重く仁王にのしかかってきている。
現に彼はその義務感からこの家を出て行ってしまった。
出て行け、という仁王の言葉を真に受けて。
しかし一つ気になったのが、そう言った時の彼の態度だ。
てっきり淡々と、それこそ初めて会った日のように何でもない事のように了承すると思っていた。
だが彼は酷く曖昧な口調で、今この家に自分がいる事がいけないのならば出て行くが、と言葉尻を濁した。
まるで本当は出て行きたくはないのだと思わせるように。
口論、というより仁王が一方的に言葉を荒げていただけなのだが、
そのきっかけは彼の親友である真田が違約金を用意したから蓮二を解放してやってくれと連絡を寄越した事にある。
それまで溜まりに溜まったストレスが一気に噴出した。
そもそも柳の事は訳の解らない契約で縛っているだけで、別に仁王のものでも何でもない。
それ以上の関係などないというのに、自分には義務感以外に何もなく、何故親友と名乗るあの男には甘えるのだ、などという何とも身勝手な思いをぶつけてしまった。
こんなとこになんて一分一秒いたくないだろうからさっさと出て行って、真田のところでもどこでも行けばいい、と。
完全な八つ当たりで、醜い嫉妬からくる言葉だった。
柳が真田をどう思っているかなど、聞かずとも解っている。
幸村と同じく、学生時代から共に過ごしてきた友人、それ以上の思いなどない。
仁王が柳に抱いているような思いが真田にない事も解っている。
そう、頭では理解出来ている。だが心はそうもいかない。
決して安いとは言えない額をあっさりと出すと言われれば、何かあるのではと思ってしまう。
「クソッ…」
行き場のない気持ちを晴らそうとテーブルを叩くとガシャン、と食器類が音を立てる。
今朝出て行く前に作ってくれたのだろう。
いつもの変わらない、否、冷めても美味しく食べられるように工夫されたメニューだ。
そしてその横に置かれた見慣れたペールブルーのナプキンにもしや、と思い冷蔵庫を開ければいつもの弁当箱がそこに鎮座している。
これが、この思いが義務ではなく自分を思うものであればどれほどまでに幸せだろうか。
面倒な契約で自由を奪われ、同情するだけであったはずの相手が言葉にならない程に愛しい。
誰かをこのように思った事などなかったし、そんな思いは自分には無縁であると思っていた。
それだけにどうしていいかが解らずについ暴走してしまった。
いつもと変わらず美味しいはずの朝食が、目の前に誰もいない事に味気なさを覚えながらも仁王は残さずにそれらを食べた。



用意されていた弁当を持ち出勤したが、会社へ着くや否や待ち構えていた幸村に捕獲された。
出会い頭、何も言わずに顔面を殴ろうとする仕草を見せた事に気付いた。
今、柳が幸村の家に身を寄せているのだろうと。
「今朝蓮二が突然家に来た」
やはり、と思い黙っていると幸村は誰もいない会議室へと仁王を連れ込んだ。
出社したばかりの社員が二人のやり取りをチラチラと見ていて落ち着かないのだ。
ようやく朝の喧騒から離れられ、幸村と仁王は同時に溜息を吐く。
「何があったかは…まぁここ最近の蓮二や赤也の言ってた事で察しはつくけど……それにしたって随分な言い方しちゃったね、お前」
「……ピヨ」
目を逸らし、覇気なく呟く仁王にそれまであった怒りが削げた幸村は椅子に腰を下す。
そしてぼんやりとつっ立ったままの仁王も座るように言った。
「お前ね、蓮二がどれだけお前を思って動いてたか解ってるんだろ?お前の不利にならないようにずーっと頑張ってたじゃないか」
幸村の言う通りだった。
先日夕食を食べに出かけた事が祖母にバレた時も、自分がねだり、外に連れて出てもらったのだと謝っていた。
本当は仁王が無理矢理に連れ出したというのに。
「断ってたよ、蓮二。真田に、金は必要ないんだって」
「……もう必要ないからのう…金なんか」
仁王の家からの契約破棄だから、当然違約金は発生しない。
それにいくら親友とはいえ、大金を柳が受け取るとは思えないと卑屈になる仁王に幸村は
はっきりと言いきった。
「違うと思うよ、それ」
「何…?」
「真田にはっきり言ったんだよ、蓮二。契約から始まった事だが今は自分の意志で仁王の側にいたいんだって」
思いもよらない言葉に酷く驚いた顔をする仁王を見てやれやれと溜息を吐き、幸村は頬杖を突き呆れたような表情を見せた。
「俺だって吃驚したんだからな。蓮二がそんな風に自分の意見言った事なんかなかったし…そんなにまでしてお前のところにいたいんだって……」
頑なに金を受け取ろうとしない柳と譲らない真田の間に入り、仁王宅で設けた話し合いの場にいた幸村は見た事のない親友の姿に酷く驚かされた。
彼がこんなにまで自我を通した事は過去にない、と。
「けど、自分ではそう思ってたってどうにもならないんだよね…蓮二、お前のお祖母様に頭下げられてたし」
「え?」
「お前に別の縁談が上がったから、お前やこの家の為にどうかあれと別れてくれって頭を下げられてたよ」
偶然にもその話し合いの日にやってきた祖母の話を隠れていた隣の部屋で聞いてしまった幸村は、仁王にその時話されていた事実を告げた。
その事を知らされていなかった仁王は言葉を失った。
口をぱくぱくと何度か開閉して、ようやく聞いてない、と呟く。
「やっぱりね。お前が妙に蓮二に執着してるから黙って蓮二追い出しておこうって思ったんだろ。不本意でも、頭下げて」
珍しく怒りを露わにして派手にテーブルを叩く仁王に、幸村は努めて冷静に続けた。
「そんな風に頼まれる方が…蓮二には効くからな。実際、自分は仁王の側に居たいってはっきり言ってたけど、
お祖母様に言われて出て行かなきゃならないって思うようになってた矢先にお前に出て行けなんて言われて…蓮二はどう思っただろうな」
冷静に、と話し始めたものの、最後は若干感情が混じってしまいキツイ言い方となってしまった。
だがそれは仁王の心に直接突き刺さり、今まで闇に隠れていた柳の心の中が見え、改めて昨日の自分の態度や言葉を省みた。
「今日帰るように説得してやるから、ちゃんと話し合いなよ。もうこんなお節介しないからな、俺は」
これが最後のチャンスだ、もう逃げるなという意思表示に仁王は真剣な表情で頷いた。


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