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誓約結婚 17
こんなに緊張をした覚えはなかった。
いつだって、どんな状況でも自分のペースを乱される事などなかった。
それがたった一人の為にこんなに心を乱され、不安に泣きそうになったり些細な一言に怒ったり、少しの笑顔に喜んだりする日が来るなど思いもしなかった。
これが柳生や幸村の言う恋というのなら、もううんざりだ。
人生一度きりで十分だ。
これが最後でいい。
いや、最後だ、これが最初で最後で、唯一の恋にする。
それが実らないならきっと自分はまた以前のようないい加減で適当な駆け引きの世界で生きていけばいいと仁王はひっそり溜息を漏らす。
そして玄関の前で二度三度と深呼吸をすると、扉を開けた。
いつもはどこからか帰宅の音を聞きつけ迎えに出てくれる柳が来ない。
残業をしていた所為ですっかり遅い時間となってしまったが、まだ幸村の家から戻っていなかったか、と思い室内に入ると一階の一番奥の部屋から物音がする。
その音に裏庭に続く小さな和室に行くと柳がいて、そこに置かれていた小説を段ボールに詰めているところだった。
「……柳」
「ああ、おかえり。すまない、気付かなかった」
「いや…それ、何しとんじゃ」
見れば解る事だが何と聞けばよいか解らず、とりあえずそう尋ねると柳は少し困った表情を見せた。
「…引っ越しの準備だ…すぐに片付けて、二三日中には出て行くから…」
ここで引いてしまえば、本当にこれで終わりになってしまう。
今までのように本心を見せないままではいられない。
ああ、そういう事だったのかとようやく柳生や幸村の言っていた言葉を理解した。
気持ちを伝えずにはいられない瞬間とは今まさにこの時の事で、それによって自分は変わるのだ。
仁王は柳の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
「俺の話、聞いてくれんか?」
「話?何だ?」
「こっち来んしゃい」
仁王は柳の手を取ると部屋の隅にある座布団を持って窓を開け放ち、そこにある縁台に座布団を置いて座らせる。
そして部屋の電気を落とし、自分も縁台に座った。
暗闇となり、僅かに光る蛍光灯の豆球の明かりだけが目に入り、柳の顔を照らしている。
「仁王?」
「すまん…顔見られてやとちゃんと喋る自信ないから」
部屋からの明かりは障子に遮られ、仁王の表情を見れる程に光りは届いていないのだろう、柳の視線は定まらず、ぼんやりと仁王のいる方を見るだけだ。
「とりあえず…まず謝らせて。昨日は…すまんかった」
黙ったままの柳に言葉を挟まれないよう、仁王は言葉を繋げた。
「あれ、ほんまの、本心やないから。出て行けなんて言ったけど……あれは、ほんま…違うんじゃ」
「ああ」
こんな風に自分の事を喋った事のない仁王はどう表現していいものか解らず、何度も言葉を詰まらせる。
その度に柳がゆっくりで構わない、最後まで聞くからどうか落ち着いて、と伝えるように頷く。
それに徐々に気持ちが落ち着いた仁王はついに核心を口にした。
「最初はな…初めは厄介事としか思ってなかったんじゃ…お前との事。けどずっと一緒にいて、
同情みたいな気持ちが湧いてきて……それでお前に向き合うようになった。
そっから…だんだん惹かれていって、のぅ…今は同情なんかじゃなく…だぶん本気で愛している。
あーたぶんってのは……まだそんな感情、誰にも抱いた事ないから…自分でもちゃんと解っとらんのじゃが…
けどな、お前を手放したくない、ずっと一緒にいたいと思っとる。
けどそれに感じるんが…義務感しかないっちゅーんなら、それはもう必要ないんじゃ……ほんま、苦しいだけやけ」
柳の表情が少しずつ変わっていくのを見ていられなくなった仁王は、最後の方はうつむきながらの告白となってしまった。
しかし全てを吐露し、妙にすっきりとした気持ちになっていると不意に膝に乗せた手に温かい物が触れた。
それが柳の手である事に顔を上げると、少し戸惑ったような、思いつめたような柳の表情が見えた。
そして柳はその表情のまま静かに口を開いた。
「自分でも理解できなかったのだ……弦一郎の申し出を断った理由が。ただその時に契約など関係なく純然とした気持ちでお前の側にいたいと感じた。
それが愛しているという事かどうかはまだ解らないが、それでも一緒にいたいのだと…そう思った。
お前に抱く思いが…他に俺を気にかけてくれている精市や弦一郎や赤也と…誰とも異なっている事は解る」
「……柳…それ…」
「俺もお前と同じだ。こんな思いは初めてだから正直戸惑っている。だが……義務感ではない事は確かだ…もう俺にはそんな義理はないからな。
この家を離れ、もうお前を愛さずともよいと言われてなお側にいたいと思うこの気持ちは…お前にとって不要ものか?」
少し苦しげに表情を歪め、訴える柳の手を握り返し、それを引っ張ると両手で体を抱きしめる。
「不要やない。必要なもんやけ」
「そうか…よかった。行き場のない思いを抱えてここを出る事にならなくて」
「どっこも行かんでええんじゃ。ずーっとここにおって」
絶対に離したくない存在なのだと伝えるように、抱きしめる腕の力を込める。
柳は身じろぐ素振りを見せるが、離れる様子はない。
「だが…しかし…」
「もう契約なんかいらんから、誓って。ずっとここにおって、ずっと側におるって。
お前のその気持ちがどんなもんかはっきり解るまででええから…」
それがやはり勘違いであったと思うのであれば、その時はここを離れればいい。
それまでは自分を欺き続けてくれ、それで幸せだと仁王は思っていた。
だが柳はふっと柔らかい笑みを浮かべると仁王の背に腕を回し、すがるように抱き返す。
「何を馬鹿な…それなら一生解らなくてもよい事になる。俺はここを離れるような事はしたくない」
「あー…それはそれで困る」
「早く解りたい…そして愛してるという言葉でお前に誓いたい。生涯共にいたいのだと」
臆面もなくそう言いきる柳に思わず赤面してしまう。
部屋が暗くて本当によかった、と仁王は体を離し顔を隠すように手で覆った。
「よくまぁ恥ずかしげもなくそんな事言えるのぅ…」
「いけなかったか?」
「いや、惚れ直した」
新たに結び直した誓約は互いの心を繋ぐもので、これまであったような利害一致の契約ではない。
生涯何があろうと破られなければいいと思いながら、仁王は今一度柳の体を抱きしめた。
不細工な鳴き声を上げて部屋を逃げまどう猫は、避難場所を求めるように柳の膝の上に飛び乗った。
「どうした?またいじめられたのか?」
優しく頭を撫でられ、気持ちよさそうにニャア、と声を上げる猫を見下ろし仁王はその横に座り込む。
「何じゃー生意気やのぅ」
ぐりぐりと無遠慮に喉を撫でられ、不機嫌な声を上げる猫を見て仁王も同じように不機嫌そうな表情を浮かべる。
「だから猫と張り合うな」
すっかりと仁王邸に住みついた迷い猫は柳になつき、首輪と名前を与えられて我がもの顔で柳を占領している。
それが不満なのだと仁王は子供のように何かとちょっかいをかけていた。
おかげですっかりと犬猿の仲となってしまったのだが、結局いつも軍配は仁王に上がる。
今日も首を掴まれた猫は床に放り出され、入れ替わりにそこに仁王は頭を乗せた。
だが負けじと猫も仁王の腹に乗りにゃあにゃあと鳴いて抗議している。
「どこも行かんようなってすっかりうちの猫になりよったの」
「そうだな」
「お前もここが一番居心地がええって、やーっと気付いたか」
先刻より優しい手つきで撫でられ、それまで不満そうに鳴いていた猫が大人しくなる。
「他ん奴では与えてもらえんもんがあるって…最初っから気付いてればよかったんじゃがの」
「この猫もそうなのか?」
柳が膝に乗った仁王の頭に手を添えると、それまで猫を見ていた視線を柳に合わせニヤリと笑みを見せる。
他の者が与えるものなど、たとえ同じだとしても必要ない。
仁王が必要としているのはただ一つなのだ。
二人の関係には現実問題としてまだ多くの障害を残している。
仁王の家からの圧力も終わったわけではない。
だがそれも二人の交わした誓約の前では大した隔たりではなかった。
マイナスの関係から始まり、少しずつ心を通わせた果てに掴んだ幸せは何があろうと手放さない。
これは二人にとって最初で最後の恋なのだから。