誓約結婚 15
唐突に突きつけられたその現実は、仁王を絶望に叩き落すには十分すぎる程だった。
柳の都合でこの契約のような婚姻関係を解消するのだと、二人の暮らす家に祖母が部下を引き連れてやってきて、そんな事を言い出した。
全く理解出来ず、呆然とする仁王を置いて、柳に会う事もなく重厚な車に乗り込んだ祖母を見送るや否や、仁王は部屋にいる柳の元へと駆け出す。
ばたばたと大きな足音を立てて上階へやってくる仁王に驚き、柳は部屋を片付けている手を止めた。
「どうした?お祖母様はもう帰られたのか?」
「ああ、今帰った。んな事より、ここから出て行くってどういう事じゃ。何言われた?」
「仕事も住む場所も用意すると言われたのだが…急な事で少し戸惑っている」
「は?ど、いう…事や?お前さんの都合なんじゃ…」
確かに祖母はそう言っていた筈だと思い聞き返すと、柳は一瞬間を置いた後、そうだと答える。
だがそこに彼の意思などは感じられず、話の辻褄を合わせようとしているとしか思えない。
「それで…出ていくつもりしてんのか?こっから…この家から」
荷作りをしているようではないが、部屋に山積みになった本を段ボールに片付けている事に背筋が寒くなるような感覚を覚える。
まさか本当に出て行くのでは、と。
確かにこんな契約などそもそも無意味なもので、柳にとっても不利益なだけなのだ。
だが、しかしと青い顔のまま柳を見つめる仁王に淡々とした声が突き刺さる。
「俺は言われるままに従うだけだ。出て行けと言われれば出て行く。それ以外に選択肢は……」
「だったら出て行かんでええんじゃ!」
「え…?しかし…」
「とっ、とにかく!お前さんが出て行く必要なんてない。ずっとここにいろ」
首を傾げ、不思議そうにしながらも柳は頷いた。
その事にとりあえず当面は心配なさそうだと安心していたが、心に引っかかるものまでは拭い去る事は出来なかった。
それを払拭させようと、今まで以上に柳と時間を共有しようとした。
「なあ」
「どうした?」
夕食を終え、全ての片付けが終わるのを待たずに私室に戻る仁王がまだリビングにいた事に少し驚きながら、柳は側に寄る。
あー、うー、と何か言い辛そうにしている仁王を訝しげに見つめていると、やっぱり何でもないと言って部屋に戻ろうとする。
だが気になった柳は思わず後を追った。
「仁王、どうした?具合でも悪いのか?」
「……ちょっとな…」
「大丈夫か?顔色は悪くないようだが…熱もないな」
柳はドアの前で俯く仁王の額に手をあて心配そうに顔を覗く。
「あー…具合悪くて一人じゃ心細いから一緒に寝てくれんかの」
「何だ、子供のような事を言って…」
苦笑いをしながらも柳が仁王の言う事を嫌がる事はない。
柳は寝る身支度を整えた後、初めて仁王の部屋へと入った。
冗談めかしにしか言えなかったが、本懐を遂げられればそれでいい。
仁王は邪魔にならないよう遠慮がちにベッドに横たわる柳をじっと見つめた後、体を摺り寄せる。
「何だ?人肌恋しいのか?」
「そうやの」
何となく肯定してしまったが、柳はそれ以上何も言わなかった。
以前ならば必ずそれならば外で好きにすればいいのに、と自由を促すような、突き放すような言葉を続けていたはずだ。
それがない事に妙な安心を覚え、仁王はホッとしてそのまま眠りについた。
会社に行っている間にいなくなってしまっては、という訳の解らない不安にかられ、仁王は嫉妬する暇もなくし切原を毎日家にやっていた。
どこか様子のおかしい仁王に気付き、この件に関してはなるべく深く関わらないようにと思っていた切原だったが、
その事に勘付いた柳が戸惑っているのを見てそんな事も言ってられず、ついお節介を焼いてしまった。
なかなか口を割ろうとしない柳に何度もしつこく尋ねると、漸く聞かせてくれた。
最近、何故か本当の夫婦のように振舞ってくるのだと戸惑いながら言う柳に、切原は聞いてはならない内部を見てしまった気がする。
「そ、それって…」
「何だ?」
「いえ、別に……」
夜の方も、と下世話な事を聞きそうになり、慌てて口を噤む。
そして話題を転換させた。
「アンタはどうしたいんっスか?」
「俺は……仁王の…この家の邪魔にならなければそれでいい」
「邪魔って言われたの?」
「いや…仁王は…ここにいろと言ってくれた。だがもう同情する謂れもないというのに…不思議でならない。
お祖母様は俺に金も家も仕事も用意してくれると言って下さったのだ」
それの示す意味の解らないとは、仁王も全く厄介な人を好きになったものだと切原はこっそりと同情する。
「ならここに居ればいいじゃないっスか。仁王さんの願い、叶えてやりたいんでしょ?だから迷ってんじゃないんっスか?」
「…お祖母様にはまだ言うなと、口止めされているのだが……仁王に見合い話があるそうなのだ。
そうなればこの契約もなくなり…俺も必要なくなる。いや、むしろ邪魔になるのだから早く出て行った方がいいと思っている」
「ちょっ…待っ…え?何っスかそれ…仁王さんがアンタ以外の人と結婚?」
何て勝手なのだと怒りが沸々と湧いてくる。
だが柳の意外な、少し困ったような表情を見てそれも治まった。
今までならば、感情音痴のこの人の事だ、事実だけを見て誰が何と言おうと仁王の祖母の話だけを受けて、その時点で家を出ているはず。
だがまだここに留まろうとしている事に切原は柳のある変化を見た気がした。
契約だから仁王の願いを叶えている風を装っているが、今はもう既にこの契約は破棄された状況なのだ。それも一方的に。
だから今この家にいる事は柳の意志が少なからず働いているといえる。
それを仁王に伝えるべきか否か、切原は新たな問題を抱えてしまう事となった。