誓約結婚 12
「最近溜息多いなーこの部署は」
辛気臭いよ、とカラカラと笑いながら入ってくる幸村に、仁王に渡された書類と格闘していた切原は突然何事だと目を丸くする。
若い人材の集まる事務所なので、ほとんどが二十代で構成されていて幸村の年で重要なポストに就いていても何ら不思議はない。
だが社内でもエリートが集うという商品開発部の部長で、この子会社を仕切っている仁王よりも上から目線で物を言い顎で使うこの人は、
実質社で最も力を持っていると言える。
そんな相手に嫌われては会社に居辛いが、逆に目に掛けられすぎて四六時中こうして構われてもやり辛いと切原は常に思っていた。
相手の機嫌を損ねてクビになるよりは幾分譲歩の余地はあるが。
「何か用っスか?」
「んー?赤也が仕事サボってないかなぁと思って見に来たんじゃないか」
「サボりませんよ!!ただでさえ時間なくって死にそうな思いしてんのに!」
その言葉を証明する様に、切原は書類に書き込む手を休めずに抗議する。
そして室内にいた女性社員達がきゃあきゃあと黄色い声を上げながら空いていた椅子とお茶やお菓子を手にやってくる姿すら切原には苛立ちの材料となる。
お前達一生懸命仕事している俺にその気遣いは一切ないのか、と。
相手は明かされていないものの、結婚してまったと社に知れ渡った仁王の人気が落ち着きを見せている今、このように社内人気は幸村の独壇場となっていた。
「努力は認めるけど、間違えてる、数字。発注数0が一個多いよ。これだととんでもない数の段ボールでこのフロア埋まっちゃうよー」
「げっ!ほんとだ!!すんません!」
指摘された箇所を急いで訂正して、これまでに書いた書類にも間違いがないかと目を通し直し確認する。
「なるほど?今日は忙しいから愛の巣には行ってないんだ」
「……は?愛の、巣?」
人が必死になって仕事をしている最中に何を言い出すのだと思わず白い目になる切原に幸村が可笑しそうに笑い声を上げる。
そして遠巻きに二人の会話を気にしている女性社員達を笑顔で追い払い、幸村は声を潜めた。
「そう。蓮二と仁王の」
「愛の巣って…何の事かと思いましたよ……」
「新婚さんの愛の巣だろう?何だかんだ言って仲良くやってるじゃないか、あの二人」
「……まあ…確かに」
あれからも変わらず切原は仁王の家に行き、柳の世話をしている。
否、世話をしているというよりむしろ柳の手を煩わせに行っているようなものだ。
柳は昔と変わらない態度で切原を存分に甘やかしている。
それが所為でいらぬストレスが増えているのも現状だ。
深い溜息を隠さない切原を見て幸村が笑いを漏らす。
「まただ、溜息」
「あ、すんません…けど俺もうどうしていいかわかんなくて」
「フフッ…何か赤也、夫婦喧嘩の間に挟まれた子供みたいになってるよ」
幸村の言葉は切原も常々思っていた事だった。
二人に挟まれきりきり舞いさせられる姿は仲の悪い夫婦に挟まれた子供そのものだ。
「派手に喧嘩でもしてくれりゃこっちだってやりやすいんっスよねー…冷戦って訳でもないし…お互い腹ん中隠したまんま上辺だけの関係って感じだし…
その癖なーんか微妙に睨まれてるような気がして…どーすりゃいいんっスかね、俺」
「どうって…まあ俺だったら間違いなく引っ掻き回すだろうね、面白おかしく」
そんな事出来るわけがないと胡散臭げに睨む切原に幸村はふふっと笑いを漏らした。
「そもそも何で俺だったんスかね……俺より若い新入社員とかもっと言う事聞きそうなのいるじゃないっスか、ここ」
フロアを見渡せば切原の後輩達が雑用に追われて駆け回っている。
仁王が一声掛ければ切原のように嫌々ではなく喜んで手先となり使命を果たす社員は多くいるだろう。
切原も最初は仕事を堂々とサボる口実に出来ると喜んでいたのだが、それも二度三度と家に訪問するうちに考えが変わっていた。
今やその特命を、多少面倒だとさえ考えている。
忙しい仕事に追われる事もなく、幼馴染の柳に会えるのも、のんびり過ごせるのも嬉しいのだが、そこに仁王が加わると話は変わる。
形は歪ではあるが所謂上司の嫁と上司の家で二人きりで半日程の時間を過ごし、最近はほぼ毎回相伴に預かり夜半に帰宅する事が常となっていた。
それがまた仁王の機嫌を損ねているような気がしてならないのだ。
言葉にも態度にもほとんど出さないものの、時折漏れる鋭い気持ちが切原を襲っている。
家に行くようになってから、名字呼びから名前で呼ばれる程に仲良くはなったものの、どこか仁王の態度はキツイものがあった。
はぁーっと今までで一番深い溜息をついてデスクに突っ伏す切原を見て幸村は頭を小突きながら笑った。
「そんなの、本人に聞けば?」
「へ?!」
「何じゃ、幸村とくっちゃべってサボってんか思うとったら、ちゃんとやってたんか赤也」
「ああああおおおおお疲れ様っス!」
幸村の言葉に慌てて顔を上げると、会議を終えた仁王がフロアに戻ってきていた。
そして仁王はその足で幸村と切原を挟むように席に着く。
デスクに散乱する書類にさっと目を通し、そのうちの一枚を切原の目の前に突き出す。
「おい、これ見積もり甘すぎじゃ」
「あ、ほんとだ。もっと色んなとこ競合させて原材料費落とすところまで落とさないと」
「こっこれ提示底値っスよ?!」
「そこから下げさせるのが腕の見せ所じゃないか。そんな甘い事言ってたらこの不況乗り越えらんないよー」
笑顔で訂正を入れられたその数字を見て切原は猛抗議する。
「無理ですって!!相手の会社潰れちゃいますよ!!!」
「相手気遣ってばかりでうちが潰れたらどう責任とるつもりじゃ、赤也」
「そっ…それは……」
「お前も笑顔でゴリ押して相手にうんと言わせる話術ぐらいつけなよ」
「んなもんできんのアンタらぐらいっスよ!!」
切原は商談の度に青い顔をして会議室から出てくる他社の社員を何人も目撃していた。
一体どのような話し合いがあの中で何が行われているのかと、興味はあるが見てはいけないような気がしている。
「それで、俺に何を聞くって?」
「えっ?!」
「ああ、赤也がな、何で蓮二のお世話係にされたんだろうって愚痴ってるんだよ」
「ぐっ愚痴ってないっス!!変な事言わないで下さいよ!!」
先程の幸村の言葉は仁王の耳にも届いていたらしいが、流石に言い辛いなと思っていると幸村が先に言ってしまった。
慌てて否定するが仁王の鋭い視線が切原を襲う。
「ほーう…赤也は夏のボーナスカットでええらしいな」
「だから言ってないって!!」
これ以上余計な事を言わないでくれと睨む切原など意に介さず、幸村は可笑しそうに笑うだけだ。
そして仁王は逡巡した後、切原の頭に手を乗せてからかうように言った。
「お前さんがここで一番手ぇかかるからのぅ」
「なっ…どっどういう意味っスか」
「柳は誰かの世話んなるより、誰かの世話する方が気ぃ紛れてええかと思ったんじゃ」
意外にも本心の垣間見える言葉に驚き、幸村と切原は思わず顔を見合わせた。
これまで何を聞いてもはぐらかすばかりで言葉を濁してきた仁王がこのように心の中を見せる事は、仕事上では勿論の事、他の事でも皆無だ。
「何じゃ、赤也。お前もう柳に会いに行くのが嫌なんか?」
「いや!全然!!ただ何か……俺が行っていいのかなー…なんて、思ったもんで…」
「変な奴じゃのぅ…いつもは厚かましいぐらいに遠慮ないくせに」
「そんな事ないっスよ!!」
失礼な、と膨れる切原を仁王はあやすように頭を撫でる。
「お前さんはあいつの作る飯食いに来るぐらいの気持ちでええんじゃよ」
「え…あの…」
「別に肩肘張って何かしてやろうとか考えんで、普通に話し相手でもしてやって」
そして自分の与えてやれないものを代わりに与えてやってくれ、そんな事を聞こえるか聞こえないかの声で言われる。
先刻以上に驚き、聞き間違えではないかと聞き返そうとしたが、すぐ側のデスクで仕事をしていた部下に名前を呼ばれ、仁王は席を立ちそちらへ行ってしまった。
「へぇ…仁王のやつ、嫌だ嫌だって言ってた割には相当入れ込んでるみたいじゃないか」
「へえってアンタ…いいんですか?親友がこんな訳わかんねぇ契約で家ン中閉じ込められてんのに」
「俺はあのアホの巣窟みたいな家から蓮二を連れ出してくれるのなら相手も手段も選ばないよ」
「あ…アホの巣窟って…」
「お前も幼馴染なら知ってるんだろう?蓮二の家がどんなに酷いところか」
確かに幸村の言う通り、柳の家の者は誰も彼も凡そ人から離れたような考え方の者ばかりで、
そんな中でずっと過ごしていた柳は相当息苦しい思いをしていたはずだ。今のこの理不尽にも耐えられるのだから。
「…それは…そうですけど…」
「何、お前は嫌なの?」
「や、そんな事ないっス……俺も最初は…契約だとか家が勝手に決めたとか言われてどうなんだって思ってたけど…今日確信しました」
「何を?」
「仁王さん…本気ですよね…蓮二君の事……誓約結婚なんて口ばっかで、マジで相手思ってねぇとこんな事…」
切原の重い言葉を受け止め幸村は茶化す事もせず、そうだね、と呟く。
だがやはり重い雰囲気は必要ないとすぐに切原の癖の強い髪をかき混ぜながら笑いながら言い放った。
「何だ赤也。ママを取られちゃって淋しいのか?」
「そっそんなんじゃねえ!!!っつーかいい加減仕事戻ったらどうっスか!!」
「はいはい、解ったよ。とにかく俺からもよろしく頼むよ。蓮二も仁王もお互いなかなか面倒な性格だからね…上手く立ち回ってやってくれ」
口で言うは易いが、それが最も難しいのだと睨みつける。
だが幸村は朗らかに笑いながら、具体的な解決法など教えてくれないままに自分の部署へと戻ってしまった。