眩暈〜君の見る夢8

花の季節、古都はどれだけ美しい事だろうかと思いを馳せ、溜息一つ。
桜舞う庭の臨める縁側で寝転びながら、先程からそれの繰り返しである光を、いい加減呆れたユウジが勢いよく小突いた。
「さっきから何しとんねん!早よ支度せぇ!もう日ぃも高いのにいつまでーも寝間着でゴロゴロしくさって」
「あーうるさい。ほんまうっさい。この家はうっさいオバハンはおらんけどアンタおったら一緒やわ」
「はいはい、わかったわかった。かわいそうでちゅねー光くんはーどこいっても口うるさい奴が付いて回っててー」
馬鹿にしたような口調でそう言われ、些かカチンときた光はとりあえず身を起こしユウジを睨んだ。
だがユウジはそれを受け流し、光を足で蹴り縁側に転がした。そして窓を開け放ち外から空気を部屋の中に入れる。
「ほら」
「……何っスか」
「蔵ノ介から、手紙」
指で挟んでひらひらと目の前で揺らされる、季節を意識したであろう綺麗な桜模様の封筒を一瞥すると光は勢いよく目を逸らした。
「読んだれや。返事書けへんねやったら、せめて」
「知らんわ……あんな裏切りモン」
「えらい言われようやなぁ…お前の事思てやったった事やのに」
「知らんっっ!」
ユウジの話など聞く耳持たないと光は再び不貞寝の体勢になる。
やれやれと溜息を吐きながら、部屋の隅にある小さな物入れに入っていた鋏を持ってくるとユウジは封筒にそれをあてた。
「ほな俺が読むで?ええんやな?」
「……勝手にしたらええやないっスか」
「ハイハイ勝手にしますぅー…えーっと、また返事のないままこの便りが届くのでしょうか。私は毎日君の夢を見ては朝が来る事を拒み……」
びりびりとわざとらしく音を立て光の注意を引きつけながら封を開け、音読してやろうかと口を開いたものの、
見る者を辟易させる程の愛の言葉の羅列にユウジは胸焼けを覚え光に向けてその便箋を投げて寄越した。
仕方なく、といった様子でその紙を拾い上げ目を通しているが、その顔には隠しきれない喜びが滲み出てしまっている。
何だかんだと言って月に何度も届くこの手紙は楽しみにしているのではないかとユウジは呆れながらも安心した。
「光、ユウジ。ここにいたのか」
「…何やオトン、仕事行ったんちゃうんかい」
「ああ、少し用があってな。戻ってきたんだが……何だ光。もう昼だぞ。いくら家にいるとはいえ、身なりはきちんとしなさい」
唐突に帰宅した父親の小言に光は心底面倒だと溜息を吐き、生意気な瞳で睨み上げる。
そしてこれ以上五月蝿く言われるのはごめんだとノロノロと起き上がり、自分の部屋へと早々に引き上げた。



確かにこの手を繋いで言ってくれたのだ、彼は。
離れたくないと、離さないと。
だがそれを彼はあっさりと覆してしまったのだ。
大阪へ来て早半年。
あれほどまでに堅く結ばれていたかに思われていた二人だが、白石は事の真相を知り、一旦身を引く事を選んだのだ。
全てが仕組まれていた事で、その中で自分の出来る事など微々たるものだった。
まだまだ修行が足りない。だから今は、光は折角会えたお父さんと一緒にいた方がいいと。
そもそも自分の持ち主である男が本当の父親であると話したのは白石であった。
未だ怯えの目で見ている自分ではなく、心を許している君が話してくれた方が彼も信じてくれるだろうと言って、男がその役目を与えたのだ。
その案は正しく、光は信じられないといった表情をしながらも白石の言葉を理解し飲み込んだ。
「何…で、そんな事…言うんですか……ずっと一緒におるって、言うてくれたやないっスか!!」
そして続けて語られる良い子の意見に光は猛烈に反対した。
だが白石は頑なで意見を変える事はなかった。
「今はあかん。今回の事で俺…自分の限界知ったんや。ほんまに、今のまんま一緒におっても光の事守ってあげられへん。幸せにしてやられへん…」
「…今一緒にいる幸せやない…いつかくる幸せってどんなんやねん……意味解れへん…」
「光……」
「もうええわ……好きにせぇや…」
「光っ!」
白石は足早に庵を立ち去ろうとする光の腕を掴み引き止める。
だがそれを振り払うように暴れてどうにもならず、白石は力ずくで体を引き寄せ抱き締めた。
暫くは罵倒の言葉と共に暴れていたが、次第に大人しくなっていき、涙を堪えるようにぐっと唇を噛み締め白石の腕に縋りつく。
「ほんま意味わからん……あんたやっぱしアホやわ…」
「ごめん…ほんまに……ごめんな…」
「……謝るぐらいやったら離すなや…一人にすんな…」
苦しげに吐かれる言葉に頷いてやりたい。
本当はこの手を離したくない。
一緒にいれる事以上の幸せなど、今の二人にはないのだ。
それでも、一度離れなければ中途半端なまま互いに依存して過ごしてしまうだろう。
やっと掴む事の出来た人形師としての心を手放して光と共にいる事は、いずれ必ず彼の心の重荷となる。
自分の存在が枷になってしまったのだと。
今淋しい気持ちを我慢しなければ、必ず。
それを伝えれば、ようやく光は小さく頷いてくれた。
「一人ちゃうよ、もう。光には家族が出来るんやで…?兎に角、二年…時間頂戴。その間に光が他の人好きになるっていうんやったらそれもかめへん。
けど、俺は二年経ったら必ず光の事迎えに行って、そいつから光の事奪うから覚悟しときや」
「……何かっこつけとんねん…アホちゃうか…」
漸くいつもの調子に戻った光に安心した白石は、幾度となく唇を寄せて額や頬に口付けていく。
「…約束…」
「何?」
俯き、口の中で小さく呟かれる言葉が上手く聞き取れずに聞き返すと、光は真っ直ぐに白石を見据えたままに言った。
「何も無しに待つのとか無理や…何か約束下さい」
「せやな……ほな、とりあえず半年離れてみよか。俺もそれ以上光に会われへんのなんか耐えられへんし……桜の季節に会うてくれるか…?」
「……しゃーないっスね…」
「手紙書くから…」
「…そんなんいらんから会いたい」
その小さな呟きに、白石が頷く事はなかった。

あんなに一緒にいようと固く誓い合ったはずなのに、手放そうとする白石を恨んだままに大阪に半ば強制的に連れて来られた訳なのだが、
やはり心は離れる事はできないようでこうして定期的に送られてくる手紙を嬉しそうに読んでいる。
ただ、意地を張ったままなので一度も返事はしていなかったが。
白石は光の様子などお見通しだとばかりに懲りずに何度も便りを寄越している。
いい加減不憫に思ったユウジが光の様子を知らせる手紙を送るようになり、二人と一人の奇妙な文通が続いていた。
ユウジは畳の上に等閑にされた手紙を拾い上げるとそのすぐ横に放置されたままになっていた封筒に入れる。
「また手紙か?筆まめだな、彼は」
「どーせあの人形眺めて光の事ばーっかし考えてんちゃうか。煩悩だらけであいつこんなんでほんまにちゃんと修行しとんかぃって感じやわ…」
ユウジの言葉に男は可笑しそうに声を上げる。
男が連れてくるはずだった光を模した人形はまだ白石の手元に残っている。
二年後、光を迎えに行く日に交換するという約束を男と交わしたからだ。
自分の納得していない事を勝手に決めるなと光は怒っていたが、勝手に二人は話を進めてしまった。
そして最後の最後まで白石と離れ大阪に来る事を拒み続けていた光が出した条件、それはユウジも共にあの店を出る事だった。
真新しい土地で父親とはいえ見知らぬ男との生活など嫌だと言い張るの光に負ける形で、光だけでなくユウジも養子として引き取り共に大阪へとやってきた。
兄弟同然にあの店に長く住んでいたユウジの存在は白石と離れてて淋しがっていた光の支えになっている事は確かで、
始終あんな調子で不機嫌な光と実父の緩和剤となっていた。
その面倒な役回りもユウジは持ち前の明るさや器用さで上手く立ち回り、毎日腐っているだけの光と違い大阪の生活を満喫している。
「ほんまありえへん。鬼畜な変態相手やったらあんだけ強気やったくせに……何で父親やゆうたらいきなり身ぃ引くねん。ほんまないわ」
まだ文句が絶えないのかと呆れ顔の父親やユウジなど我関せず、光は相変わらず我が道行くだけで着替えてきたものの、
すぐに縁側から庭に出て大きな桜を見上げてぼんやりとしている。
その横顔はどこか淋しげで、やはり二人でいられない事は光にとってどれだけ負担になっているかが窺い知れる。
どうするんだ、と隣に立つ男に意見を乞う様に見上げると、やれやれと肩で一つ息を吐き縁側に近付いた。
「光、三日後また旅行に出るから準備しておきなさい。ユウジもだ」
「えぇー……めんどくさ…旅行や言うても半分仕事やんけ…やれ仕入れや視察や言うて…」
「ええやんけ光!タダでどっか連れてってもらえんやど?」
旅行と聞いて嬉々として声を弾ませるユウジとは対照的に、光はますます態度を硬くした。
「なら光は留守番でいいんだな?」
「ユウジさんだけ連れてったったらええやん…俺めんどい…」
「本当に、いいんだな?」
いつもならば光の我侭など聞き流すはずなのに、何度も確認するように尋ねる父親に首を傾げる。
そして不思議に思ったユウジが尋ねた。
「何なん、どこ連れてってくれん?」
「今度若い伝統工芸士達の作品展をうちの会社で企画運営する事になってな、その視察も兼ねて祗園へ」
「……え…?」
「展示品は漆器や焼物、染物に織物、石細工…それに、人形」
最後に加えられた言葉の示す先にいる人に気付き、光は転がるように縁側に戻ってくる。
「えっ…それって…」
「何だ、行かないのだろう?光は」
「それやったらそうて早よ言えやアホ!!行くに決まってるやろ!」
意地悪くニヤリと笑う男を突き飛ばすように部屋に戻る。
そしてユウジが握ったままにしていた手紙を引っ手繰るともう一度中身を読み返し、喜びを表情いっぱいに出した。
そんな現金な様子の光に再び呆れながらも男は光の頭をぽんぽんと撫でる。
「約束したのだろう?彼と。桜の季節に一度会おうと」
「え、何で……」
「翁に聞いたよ。年が明けて以降それだけを楽しみにして修行に励んでいるとな」
「あんのアホ……」
何べらべらと喋ってくれているんだと恨み節の一つも聞かせてやりたくなるが、それ以上にもうすぐ会えるという事実が全てを打ち消してしまう。
離れ離れになり、一旦別の道を歩もうと言われた時はただ裏切られたという気持ちでいっぱいだったが、離れて冷静になってみれば理解できた。
共に過ごす幸せだけが、二人にとっての幸せではなかったという事を。
それに夢にまでみた再会の日がもう間もなくやってくる。
文に綴られる愛の言葉を何度も読み返し、花舞う古都で、約束通り再び会える数日後に思いを馳せ、庭の桜に彼の姿を重ねた。
半年間放っておいた事への復讐は、この便りを一度も返さなかった事で帳消しにしてやろう。
薄紅色の世界が広がる下で、きっと彼はこの便りと同じような恥ずかしい言葉を並べ、出迎えてくれる。
その言葉に何と応えようか、それを考えるだけで幸せな思いが体を満たしている。




二人、桜舞う下で再会できるまで、あと少し―――




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