眩暈〜君の見る夢6
あの日以来、光が店に戻る事はなかった。
逃げる事はしたくないと言っていたが、結局二人に残された道はそこにしかなかった。
女将始め店の人間は血眼になり大切な預かり物を捜していたが、光が姿を現す事はない。
白石が翁より預かっていた庵に二人ひっそり身を隠していたのだ。
京の中心からは少し離れていたものの、そこでよく一人で作業していた為に翁の家の者にも怪しまれていない。
だが二人が仲良くしていた事は周知の事実であり、いつここも露見するかも解らない。
忍び寄る悪魔達の足音に怯えていた光であったが、白石の膝の上に凭れ眠る間だけは安心出来るようで、子供のように無邪気な寝顔を見せている。
その寝顔を見下ろし、白石はホッと息を吐き優しく髪を撫でた。
「ん……」
起きるか、と思い手を離すが小さく声を漏らすだけで起きる様子はない。
もう一度頭を撫でると嬉しそうに顔を綻ばせ、すりっと白石の膝に顔を擦り付けた。
夢でも見ているのだろうか、猫を思わせる仕種に思わず笑いを漏らす。
あと少し、あと少しでいい。
こうして穏やかに過ごしたいと願わずにはいられない。
光を初めて抱いた日、疲れ果てて眠る光の頭を今と同じように頭を撫でていた時だ。
不意に目を覚ました後話してくれた真実に白石は心底ホッとさせられたのだ。
あんな噂はあるけど、ただの一度もあの先生は自分に手は出していないのだ、と。
自分が初めての行為であったと、汚されていなかったという事より、ただ光を傷付けられていなくてよかったと白石は安堵した。
だが光は不満げに、ただじっと見られているのも居心地が悪いと言っていた。
それでもよかったと、そして何より彼を傷付ける全てがこの世からなくなればいいと願いながら、何度も髪に指を絡める。
「…可愛いな…可愛い…ほんまに可愛い」
「……恥ずかしいんで止めてもらえますか…」
流石にやりすぎたようで髪を撫でる手を握りながら光が恨めしそうに睨み上げている。
だがそんな仕種も可愛くてならないと白石は懲りずに笑みを向けた。
「…何がそんな楽しいんっスか」
「んー?楽しいで。光が側におるだけで幸せやからな」
本当に嬉しいのだと衒いもなく表情に出す白石に目元を少し染め、光はぷいっと顔を逸らしてしまった。
その視線の先は白石の手にしていた人形の部分品がある。
「どないや?」
少しずつ形になっていたそれらは光の表情をよく映し出していた。
やはり想像で作るのとは違うと白石は思っていたが、光は不満げに唇を尖らせる。
「……俺そんな顔してへんし…」
「そうか…まだまだやな」
「けど……綺麗やと…思う」
小さく呟かれた声に、それが謙遜しての事かと安心して白石はありがとうと返して再び作業に戻る。
暫くは会話もなく、黙々と手を動かしていた。
その間に光は再び眠ってしまったかと思ったが、ずっと白石の手元を眺めている。
「…見てて楽しい?」
「ん……別に…楽しない」
「ほな寝ててええで?」
どうせ今晩も寝かしてやれんし、と言うと思い切り腹を殴られてしまった。
だが膝から頭を外す事はせず、相変わらずじっと白石の作業を眺めている。
機嫌は悪くないようだと思い、予てから尋ねたかった事を口にした。
「なぁ光…」
「何?」
「あん…な……何で規律破ってまで目ぇ開けてくれたん?」
突然の思ってもいない質問に驚き、光は外した視線を白石に戻す。
だが白石の真剣な瞳に少し恥ずかしそうに目を逸らしてしまった。
「そんなん……俺相手に泣き言言うとる情けない男がどんな顔しとんか見たろ思った…それだけです」
「うん…ほんで?どう思たん?」
再び恥ずかしそうに顔を逸らし、何か隠している事は確かだ。
今余計な事を言えばヘソを曲げてしまい絶対に話してはもらえないだろう。
白石は黙って頭を撫でながら言葉を待っていると、表情を隠すように膝に顔を埋めたままぽつりぽつりと語り始めた。
「……人形師やて…自分の方が…よっぽど綺麗な顔しとんのにって…俺よりよっぽど…人形みたいやって…伎芸の名に相応しいて思って…」
「うん」
「………初めて見た時から…好きでした…」
最後は聞こえない程の声の大きさであったが、確かに耳に届いた。
憎らしい口をきいていても、本当は一目惚れだったのだと光は言ってくれた。
「光…っ!」
体を抱き起こし、力一杯に抱き締めるが苦しそうに息を漏らしながらも光がそれを拒否する素振りは見せない。
「…アンタに必要なんが…理想の人形の俺やったとしても…んっ…」
光の紡ぐ悲しい言葉を聞いていられず、白石は手で光の口を塞いだ。
それでも光の瞳はどこかまだ悲しげだ。
「ごめん…俺があんな事言うたからやんな……けど忘れて。光は光で…俺には最初から大事な…大切にしたい人やねん。人形なんかやないで」
「…そんなん言われたら…信じますよ…」
「信じて下さい」
ちゅっと音を立てながら額や頬に口付けていると、恥ずかしそうに止めろと体を押し返してくる。
それにもめげず、白石は笑顔で何度も何度も信愛を込めて唇を寄せた。
やがて観念した様子で光は抵抗を止め、それを見るや否や白石は唇に自らのそれを重ねる。
初めは軽く触れるだけのものだったが、徐々に深まっていく口付けに光は色づいた目元で白石を睨んだ。
「はっ…蔵さ…そんなんされたら…っ」
「我慢せんでええよ」
「けどっ…あっ!」
首筋に口付けながら着物の裾から手を入れ足を撫で上げるとそれだけで感じてしまうのか、声が一際高まった。
「光が一番ええ顔しとるとこ目に焼き付けときたいからな…」
「何アホな事っ…!!」
顔を真っ赤にして抗議しているものの、体からは完全に力が抜けてしまっている。
ゆっくりと体を床に押し倒せば、もう抵抗の意思は消え去ったのか光の腕は白石の首に回された。
「こ…んな、事っ…あっ…ばっかし、やっとって……ほんまに大丈夫なんっ…スか…?」
「逆やで光…こないして光補給しとかんと、ええもん作れんねや…解った?」
恥ずかしげもなく平然とそう言い切る白石を信じられないものを見るかのような目を向けていた光も、
言葉とは裏腹に真剣な眼差しを向けられては何も言えず、ただ身を委ねるだけだった。
軒先でする物音に少し警戒するが、続けてする開けろ、という声に安心して白石は扉を開けた。
「いつもすまんな、ユウジ」
「いや、かめへんよ。光は?」
ユウジが店から持ち出してくれた光が使っていた生活道具や着物を一まとめにした風呂敷包みを受け取ると、白石は中に入るよう促す。
「ん、奥で寝とる。昨日もあんましよぉ寝れんみたいやったから…」
「寝かしたれへんかった、の間違いやろ」
「ははっ鋭いなあ」
「盛りついた犬ちゃうんやど…やっと一緒になれて嬉しいからて毎日毎日よぉやるわ」
呆れたように言っているが、本当にそれを望んでいたユウジはどこか嬉しそうだ。
一発白石の胸元を小突いた後、置いてあった座布団に腰を下す。
「どないや?そっちは」
「そうや…それ言いにきてん。朗報って言いたいんやけどちょぉ不気味な気ぃすんねや」
どういう意味だ、と眉をしかめる白石に、ユウジは声を顰めて話し始める。
「こないだ来た時な…うっかり後付けられてたみたいでやー…ここバレてしもたんや」
「えっ…」
「すまん。けど大丈夫や。誰も連れ戻しにとか来ぇへんよって」
ますます混乱して複雑な表情を見せる白石に、ユウジは気持ちを落ち着かせる為に一拍呼吸を置いてから続ける。
「あの大先生がな…好きにさしたれって言うたんや。どうせあとちょっとの事やから、せいぜい別れ惜しましたれって」
あの店の人間は光の持ち主であるあの男には絶対服従なのだ。
そんな彼がそう言ったのなら安心できる。
だが何故そんな事を言ったのかが不明瞭だ。
男の言うようにあと少しの事だから今のうちに自由にしておけ、という意味以上の何か裏があるような気がしてならない。
「どういう事なんや……何かあるんか…?」
「あとな…これもちょぉ気になんやけど…いや、関係ない思いたいけど……」
「何や?」
先刻の話よりも不可解な事なのだとユウジの表情が物語っている。
一体何なのだ、と白石は息を詰めて言葉を待った。
「藤将の翁のな、一番のパトロンらしいんや……あの大先生」
「師匠の?」
「せや……つまりはうちの店だけやのぉて…翁伝手にも話いっとったんや、光の」
何かある。
翁は人としてとても優れている。
門下に入り、日々生活を共にしている白石は、人形師としてだけではなく、人として学ぶべき事がたくさんあると思っていたのだ。
そんな人が、いくら金の為とはいえ噂に聞くような御仁と密に接するとは考え難い。
もしや何かとんでもない思い違いをしているのではないか、と白石は直感した。
「……なぁ…一つ頼まれ事してくれへんか…?」
「何やねん急に改まって…」
突然正座して姿勢を正す白石に驚き、それに倣うようにユウジも背筋を伸ばす。
「光預かってほしい」
「はぁ?」
「ちょっとの間……三日…あー…五日。五日だけここで…光の事守ったってほしい」
「自分は?」
「工房戻って…あれ仕上げる」
部屋の隅に置いてある作りかけの人形の部分品を指差すと、ユウジも納得がいったと頷いた。
連れ戻しには来ないとはいっても一人にするには不安が残る。
だからその間の事はユウジに光を任せる事にして、白石は一度工房へと戻った。