眩暈〜君の見る夢3
「おーい光。白石の奴見てられんような風体になっとったで」
白石が大学に来なくなって十日が過ぎた。
流石に心配になったユウジが工房を訪ねると、つい最近女将に褒められたばかりの男振りが見るに忍びない姿になり、何やら熱心に作りこんでいた。
そしてその報告は光を絶句させた。
「………は?」
店は開店前の準備で慌しく女将らが走り回っている。
光も店先に出る為の着物を着付けている途中だった。
そこにひょっこりと顔を出したのはこの店の嫡男。
着付けに手を貸していたこの店の給仕係の女を廊下に追いやり、ユウジは自ら手伝いを買って出た。
何であんたが、と嫌がる光をいなし、ユウジは慣れた手付きで帯を結い始める。
そして自らの目で見てきた白石の姿を報告した。
「もう三日は風呂入ってないって感じやったなぁ…髪はボサボサ、髭も伸び放題。この店の女共が見たら泣きよるわ、絶対」
「…俺かて見たないわ…あの人のそんな姿…」
光には想像すらつかなかった。
何故なら白石はどんなに仕事が詰まっていたとしても、いつも髪を整え髭を剃り、誂えの洋服をキッチリと着ている姿しか見せていなかったからだ。
ユウジも同じく、大学には絵に描いたような袴姿で現れ、いつも女生徒たちを魅了している白石以外見たことがなかった。
それまでは、いつもすかしてばかりで好青年を地で行く彼をどこかいけ好かない奴だとばかり思っていた為、その酷い姿を見てもそう嫌悪しなかった。
むしろ白石が一気に身近なものに感じられた。
ああ、あの男も人間だったのだと。
しかし光はそうはいかなかったらしく、顔をしかめたまま口の中で文句を繰り返している。
「ほい、完成や。今日は粋に乙女結びにしてみました。どうや?苦しないか?」
「大丈夫……っちゅーか、何で乙女やねん…普通に結べや」
ユウジはそんな小言など右から左にかわし、綺麗に結わえた帯の腹を二三度叩き落ち着かせると、鏡台に向かい白粉を手に取った。
「ほら、早よ仕度せな店開いてしまうで」
「せやから何であんたが…」
「えーから。早よ座れや」
軽くそう言われ、何も言い返せず光は大人しく鏡台の前に座り目を閉じた。
店の活気に火照る肌に心地よい化粧水ときめ細かい白粉が肌に塗りこまれていく。
光はこの感触がたまらなく嫌いだった。
偽の仮面に彩られ、格子の中に閉じ込められ人々の好奇に晒される。
その準備をしているのだと思うと、美しく彩られる顔容とは裏腹に心は闇に支配されてしまう。
仕方のない事だからと何度も自分自身に言い聞かせたが、やはり心に嘘はつけない。
「光」
「何?」
「変な顔しとんなや」
「……安い喧嘩なら買わんで?」
光は彩りよく塗りこめられている目元を気遣いながら睨みあげる。
てっきり揶揄するような表情を浮かべていると思っていたユウジは、思いの外優しい顔で見つめていた。
それに戦意を失い再び目を閉じると、ユウジが言葉を続けた。
「ちょっと前まではいつも以上に華やかになったなあて思てたのに。今は何や色褪せたって感じやわ」
紅を差す筆が唇を這っている為口を開く事は儘ならない。
光はどういう意味だ、と薄目を開き目で問いかける。
「白石の事、だいぶ衝撃的やったようやな」
それはたぶん、この報告による白石のあまりの変貌を知っての事ではないだろう。
筆を置く音を聞き、光は静かに口を開いた。
折角の紅を落とさないように、といったわけではなく、心とは裏腹の気持ちを口に出す為だ。
「…そんなん……ただ俺の所為で酷い目に遭うたりしたら…目覚め悪いやん……迷惑やわ、ほんま」
「なるほどな」
張り付けた笑顔でそう言われ、些かむっとした表情を返すがユウジはそれを上手くかわし、黙って部屋を出た。
ユウジはその足で白石の篭る工房へと足を運んだ。
相変わらず工房の奥で小汚い格好のまま座り込んでいる。
完全に行き詰まっている様子で頭を抱えていた。
物音に過剰反応を示す姿に、ユウジは思わず笑った。
「光やと思たか?」
「…いや……」
「お前なー…何で光が迷惑やー言うたか全然解ってへんねんな」
白石の足下には、人形の頭にするのか丸く削られた木片が落ちている。
ユウジはそれを拾い上げながらそんな事を言う。
「…そんなん…俺の独りよがりが…光に迷惑やて気付かんかったからで…」
「だーかーらー…」
拾い上げたそれは光の面影を映し出している。
白石の無意識、彼の中にある理想が形になっているのだ。
この現実にユウジも思わず苦笑いする。
「なーんで一人で恋しとるんかなぁー自分らは」
「何やて?」
自分の顔の前に木片を持っていき、ユウジは彼の気持ちを代弁する。
足りなかった言葉を補足して。
「"せやかて蔵ノ介さんが俺の所為で酷い目に遭うんなんか耐えられへん"」
「何やねん…それ…」
光そっくりの声で語られ、驚いた表情を見せる。
それを見て満足げに笑うとユウジは更に続けた。
「"大好きな人が俺の所為で苦しむ姿、見たないもん"」
言葉を止め、木片を顔の前から外し、目を合わせた。
白石は呆然と見上げたままだ。
「あいつも同じやって事や、自分と」
「……ユウジ…」
「迷惑や言うたんは自分に迷惑かけたないから。あいつは自分の事なんて微塵も考えてへんわ」
好きだから助けたい。
好きだから傷付けたくない。
お互い同じ思いだった。
「二人してお互いに片思いしてどないすんねん、アホ」
その木片を渡すと、白石は弾かれた様に立ち上がろうとした。
しかしユウジに肩を掴まれ再び床に座らされる。
「落ち着け!そんな格好のまんま会いに行ったら流石のあいつも卒倒するわ」
「あ……」
窓に大きく映る自分の姿に、白石自身驚いた。
髪はボサボサ、髭は伸び放題、着たきりすずめで風呂にも五日入っていない。
「……銭湯行ってくる」
「是非そないして下さい」
光の中にある理想の白石像の為にも、とユウジは心の中で毒づいた。
ユウジに言われた通り銭湯に行き、きちんと洗濯をした服を着て身なりを整えると白石はその足で店へと向かった。
時間は夕刻、店が最も活気づく時間帯だ。
誰にも見つからないように店に入る事など不可能に近い。
だから白石は正面から堂々と入っていった。
「あら?学生君…今日はお一人え?」
「はい。用済んだらすぐ出て行きますんで…」
「え?用て…ちょっと…」
一体何を、と女将が尋ねるより先に、白石は廊下奥の格子前に立つと目を閉じたまま微動だにしない光に話し掛けた。
「光…光……心配せんかて俺は大丈夫やから……せやからもう無理せんと、思た事全部俺に言うて。
俺頼って、俺の手離さんとってや…俺は光に助けられたんや。もうずっと、ずっとやで。
光がおったから頑張れてん。光が行き詰まってた俺に光射して…今おるとこまで連れてきてくれてんで?」
「学生君!困るわ!何ぼ先生のお連れや言うたかて約束は守ってもらわんと!」
「すいません!けどこれだけは…!!」
営業時間中は決して光に話し掛けない事を条件に出していた為、女将は力ずくで格子の前から追い返そうとする。
だがその腕を振り払い、白石は格子を握り、微かに動揺の見える光に言った。
「光!せやから俺……俺、絶対お前の事守る。何あってもや。せやから…待ってる…光の事、ずっと待ってるからっ…光が自分の意思で俺んとこ来てくれるまでっ!」
あっけに取られている女将にお騒がせしましたと深々と頭を下げ、白石は光に一瞥もくれずに店を後にした。