眩暈〜君の見る夢2

その名を聞いた瞬間、背中に悪寒が走った。
この界隈で知らない人間などいない。
政界にも名を轟かせる人物。
その大御所が光の、伎芸天の持ち主だ。
それをユウジに聞かされたのは、光と白石が話すようになってから半月ほどたったある晴れた日だった。
ユウジとは大学内ではほとんど話したことはなかったが店に通うようになって親しくなった。
この日も共に食事でもと、日の射す中庭で弁当を広げていた。
そこで聞かされた事。
それはあの店の絶対的秘密。
光が誰に望まれても座敷に上がらなかったのも、あの薄暗い廊下奥にある格子に阻まれた空間に閉じ込められただじっと瞳を、唇を閉ざしたまま座っていたのも。
全てその男に望まれてのこと。
男は大枚と引き換えに光の全てを奪ったのだと聞かされ、白石は全身の血の気が一瞬にして引いたのを感じた。
「店はそれ承知しているんか?」
「ああ…伝統ばっか重んじてた所為で経営が苦しかった時にその申し出があってな…あの女らはそれ喜んで受け入れよったんや」
あの女。
ユウジはあの店に引き取られた養子で、女将たちとは血縁関係にはない。
だから義母を母と呼ぶことも義姉たちを姉と呼ぶこともなかった。
多少恨んでいるようにさえ感じるその棘のある言葉。
白石は黙ってそれを聞いた。
「あいつには…光には初めっから拒否する権利なんか与えられてへん…可哀想やけどしゃーないわ。俺の力だけやどうにもならん…」
そして苦しげに最後に吐かれた言葉に、白石は完全に言葉を失った。
「来月…光はあの大先生に連れられて渡米する」



彼がいなくなる日なんて考えてもいなかった。
ずっと側にはいられなくても、それでも時々は会って話ぐらいはできると思っていた。
それで充分だと思っていた。
だがそれももう叶わない。
望んでもいない相手と見知らぬ異国へ行くなんて、彼は一体どう思っているのだ。
会いたい、今すぐ会って話がしたい。
そう思い、白石は授業が終わるとすぐさま店へと向かった。
「光は…光はいてますか?!」
「え?はぁ…今の時間はまだ部屋におる思いますけど…ちょっと…学生君!?」
訝しげな女将の顔には見向きもせず、朱塗りの階段を一気に駆け上がると廊下の奥にある物置の扉を勢いよく開ける。
四畳半ほどの狭い空間。
ここが光の部屋だった。
いきなり駆け込んできた白石に部屋の主は心底驚いた表情を見せる。
「蔵ノ介さん?何スか、そない慌てて…」
「………ユウジに聞いたんや……自分の事…」
主語のないその言葉にも光は過敏に反応を示した。
そして暗い表情を隠すように俯く。
「自分はそれでええんか?!」
「しゃーないっスわ…身寄りもないし…拾てもろたこの家への恩返しや言われたら言葉返せんし」
「来月…米国に渡るて聞いたけど……ほんまにそれでええんか…?」
走ってきた為、息も切れ切れ所々掠れ気味な白石の声を振り払う様に、光は強い調子で声を出した。
「俺は!…俺はあの人に買われた人形やねん……意思や感情も全部、あの人のもんや。せやから俺は何も感じへん…何でもない事や…」
しかしその声を遮るように更に強い調子で白石が言い放つ。
「違う!違うやろ。自分俺があの廊下で言うとったん聞いてたんやろ?人形にかて心はあるんや。
俺は何べんも自分の前で言うてきたんや!知っとるやろ?!どないしたら光みたいに心のある存在を生み出せるんかって!」
「―――っ!」
平素穏やかに話す白石からは考えられないほどに強い言葉に、光の瞳が揺らいだ。
「もう一回聞くで……光は、ほんまはどないしたいんや?」
そして小さく呟かれる言葉。
本当に小さくて注意をしていなければ聞き逃したであろう。
だが白石の耳にはしっかりと届いた。
蔵ノ介さんと離れたくない、と。
強く掴まれた手首が信じられないほどの鼓動を打った。
白石の手が温かすぎて自分が汚く、ひどく醜いものに思えてしまう。
言ってもいいのだろうか、と光は戸惑った。
白石の望む"人形"の如く、この心の内を曝け出してしまっても叱られやしないのだろうか。
光はじっと見つめる白石の瞳を見詰め返した。


そして更に信じられない事実を知らされ、ますます光を引き渡すわけにはいかないと白石はある決意をした。
「あの大先生、異常な好色家やて、そっちの道やともっぱらの評判らしいわ」
幼い少女や少年を手篭めにしては人形のように扱い、そして精神が壊れるまで支配するとあとは捨て犬の如く裏路地に放り出す。
その繰り返しだとのこと。
ユウジにそれを聞かされたのはそれからまた三日も過ぎた頃。
それを受けて白石はその人物との接触を試みた。
相手は政財界でも名を轟かせる人物。
門前払いを食らうのかと思いきや、あっさりとその門は開かれた。
まるで中世の城を思わせるかのような豪奢な建物にすくみ上がる。
しかし光を助ける為ならば、と歩を進めた。
「君の事は女将から聞いているよ…最近私の伎芸と親しくしているそうだね」
うっすらと浮かべられる卑屈な笑みと、私の、という台詞にこみ上げる怒りを抑えるように深く息を吸い込むと静かに口を開いた。
「はい…彼は私にとっても大切な人や…貴方のような方に渡すわけにはいきません」
「聞き捨てならんな…伎芸は私のものだ…それとも君が代わりをしてくれるとでも?」
舐めるようにいやらしい目で全身をくまなく見つめられ背筋に冷や汗が流れていくのを感じる。
しかしここで怯んでしまっては光を渡さなければならないと、白石は一歩前に詰め寄り強い口調で言い放った。
「悪いけど貴方のような人に光は渡せません!絶対に!!」
「君のような若造が吠えたところで痛くも痒くもない……だかしかし君にも一つ機会をやろうか…」
屈辱的な言葉に身を硬くし、睨み付けるが男は飄々とした態度を一貫して崩そうとはしなかった。
「……機会?」
「そう…渡米する日が伸びたんだよ。だからその日…来月末日までに代わりの人形を用意するんだ…そうすれば君に伎芸を渡そうではないか」
人を人とも思わない最低の言葉。
それ以上にからかわれているのだと、そんなことが貴様なんかにできる訳が無いという視線が痛かった。
しかし白石は静かに頷くとそれを承知した。




忍び寄る悪魔の蹄に怯える君を、どうして守れようか?




「ちょっ……いきなり何なんっスか!!」
「うるさい!!…黙ってついて来い!!」
強く握られた光の手首が赤く腫れている。
まるで白石の強い意志を主張するかのように。
温和な彼の口から吐き出された初めての怒声に驚き、光はそれ以上何も言わずにその後を追った。
ようやく手を放してもらえたのは白石が修行している工房の前。
扉の向こうに消える白石の背中を追い、光もまた中へと入った。
刹那、見つめ合った後、突然抱き締められる。
「…なっ……!?」
全く意図の読めない光は戸惑うばかりで抵抗することも忘れてしまう。
「俺が……俺が必ず助けたるから…光をあんな奴に渡したりせんから」
「何…?意味解らん……」
「不満か?俺には光を解放したれへんか?」
「なぁ…ほんまに話読めんねやけど……」
白石はゆっくりと体を離すと男との一件を光に聞かせた。
それを受け、光の顔はみるみる蒼褪める。
「この…アホ!ボケ!何考えとんねん!…そんな……ありえへん!…あの人からは逃げられへんっ!絶対にあんたにまで酷い事する!!」
「大丈夫やよ。何があっても絶対に光を守るから!!」
何の根拠もない。
相手がどんなに酷い奴なのかもどんな地位にいるかも知っている。
だが、ただ手を拱いて見ているだけなど耐えられない。
白石は再び力強く光を抱きしめた。
「蔵ノ介さん!!………アホやろあんた!!!」
力の限り抱き寄せる腕を振り払い、光はきつく睨みあげた。
光の視線は痛い程に白石へと突き刺さる。
しかしそれは白石も同じ事だった。
その瞳はこの決意が尋常なものではないという事を物語っている。
それに負け、逃げるように目をそらすと光は踵を返した。
「…謝りに行ってくる……先生に…」
「光!!」
「あんたのその頭飾りやろ!顔ばっか綺麗に整いくさりよって中身カラか?!現実見て考えろや!あの人が…どんな奴か解ってんやろ?!」
「解ってるから…」
「全然解ってへんわ!!こんな……こんな事………迷惑や!!」
そう強く言い切られ、白石は大きく目を見開き動きと言葉を止めた。
光はそんな白石を苦しそうに一瞥すると工房から静かに立ち去った。

あの日離れたくないと言ったあの瞳、偽りはないと思っていた。
真っ直ぐに見つめ、確かにそう言ったはずなのだ。
だが今はこうして突き放されてしまった、迷惑だと。
一方的に押し付けたこの思いは、彼にとっては不必要だったということなのだ。
白石は己を恥じた。
利己的な思いで彼を傷つけてしまった事に。
しかしこのまま見捨てるには想いは膨らみすぎていた。
翌日より、工房では黙々と作業を進める白石の姿が見受けられた。
あの男と交わした約束を果たすために。


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