眩暈〜君の見る夢1

「あら学生君。今日はお一人どすか?」
「えぇ…あの…」
「あぁ、光やったら今日店お休みやさかい出かけてますえ」




伎芸天―――本当の名は財前光といった。
伎芸天は芸の神の名で容姿端麗だったという。
光の面容は正にその名に相応しいと周囲を唸らせた。


初めて逢った日から、どうしても逢いたくて、逢いたくて忘れられずにいた。
白石はなけなしの金を握り締めて店に逢いに行った。

「…伎芸…どすか?あの子は……あの子は誰にもつかへんのがこの店の規則やさかい…」
どうしても話がしたかった。
いや、その目に映るだけでもかまわない。
しかし何度頼んでも女将は受け入れてはくれなかった。
仕方なく帰ろうとした時。
女将と入れ代わりに誰かが後ろから顔を出した。
「おい…蔵ノ介」
「……ユウジ…」
この茶屋の嫡男である一氏ユウジは白石の大学の同級生だった。
「こっちこい」
「え?」
「ええから早よ。誰か見つかったらややこしいやんけ」
ユウジの心遣いに、白石は遠慮がちに歩を進めこっそり玄関の扉をくぐった。
座敷にいる人に見つからないように足音を殺して廊下の奥へと突き進む。
「……伎芸…」
薄暗い廊下の隅に、その人形は今日も座っていた。
重厚な格子に阻まれ触れる事は許されない。
伎芸、伎芸と声をかけたが答えられるはずもない。
ただ姿を見られただけで幸せだったはずなのに、その声が聞きたくなった。
その瞳を見たくなった。
白石は心の中で何度もその名を呟いた。
「………あ…」
その心の声が届いたのだろうか。
僅かに動く重い瞼。
白石は大きく胸が跳ね上がったのを感じた。
しかしその直後。
「おい誰か来んどっ!早よ去ね!」
物影からのユウジの警告に我に返ると身を翻し、後ろ髪引かれる思いのまま店を後にした。
結局その瞳を見ることは叶わなかった。

翌日も、その翌日も毎日毎日通い詰めた。
ユウジの口添えで伎芸に逢う事を許された白石は、学校が終わってから店が開店するまでの間廊下の奥に座り込み、その人形に話し掛けていた。
決して言葉は返されない。
その瞳が開くこともない。
格子に阻まれ、もちろん触れる事など許されない。
だが、だからこそ心の内をさらけ出す事ができた。
「今日また師匠に怒られてん…まだまだ未熟やって」
その時、表情が僅かに曇ったような気がした。
「……どないしたら君みたいな人形創れるのんやろなぁ…」
器の美しさだけでは駄目だ、お前の創る人形に心は無い。
師匠から心がない人形は出来そこないだ、お前の作る人形は器ばかりに囚われていて命のないただの木片でしかないときつく言われた。
だからこそ、白石にとってこの"人形"はまさに完璧なる理想と言えるのだ。
俯いて何も言わなくなった白石は何か強い視線を感じて顔を上げた。
廊下の向こうでは騒がしく夜の宴会の準備が進められている。
この廊下には白石以外誰もいない。
「…伎芸……?自分か?今の、自分なんか?」
次の瞬間。
体中の血が逆流を始めたのではないかと思うほど心臓が跳ね上がった。
「…あ………」
僅かに潤んだ闇色の瞳。
だが淀みはなく、奥まで透き通った綺麗な綺麗な瞳。
心の中も、何もかも全てを見透かされそうな瞳。
声を上げようにも、喉が干上がり何も言えない。
白石はただその無表情を見つめた。
刹那、微かに向けられた笑顔。
しかしそれも次の瞬間崩れ去ってしまった。
「………伎芸!?」
その大きな金切り声に驚いて振り返ると、この店の芸妓が立っていた。
ここの三人いる娘の末っ子だ。
「こいさん?何大きい声出してはるん、はしたない…」
続いて座敷から顔を出した女将が騒ぎを止める。
「お母はん!この子――…伎芸が……」
「伎芸がどないしたん?」
振り向けばその人形は開けてはならない瞳を向け、怯えた目つきで二人の顔を交互に見ている。
「伎芸―――あんた…」




「どこ行ったか解りますか?」
「伽羅橋の方向いて歩いていきましたけど……行き先までは言うてませんでしたわ」
「そうですか、ありがとうございます」

結局光は御咎めなしで事無きを得た。
何故あれ程まで頑なに規則で光を縛り付けていたのかは教えてはくれなかったが、以来外で光に逢う事を許された。
これも偏にユウジの口添えのお陰なのだ。
口の達者なユウジに丸めこまれる形で女将は渋々と了承した。
それを機に白石は今日も大学が終わると店に直行した。
一度家に帰れば外に出る事は許されないからだ。
厳しい門下生の生活を強いられていた白石だったが、たった数秒だけでもいい。
光に逢いたかったのだ。
界隈で一番大きな商店が軒を連ねる大通りに続く朱塗り橋の中程に目立つその姿。
顔を隠すように綺麗な紗綾を頭からかぶり、石を蹴りながら歩いている。
白石は背後から静かに近付くと掌でその人物の両目を隠した。
「…蔵さんですか?」
「当たりや」
掌を退けると途端に向けられるうっとうしげな顔に、白石は対照的な笑みを返す。
「どっか行くんか?」
「もう行ってきた後っスわ。ほら」
光の手にあった紙袋の中には月餅がいっぱいに入っている。
「そんな食うたら流石に太んで?」
「それ俺やのぉて姐さん方に言うた方がええわ」
冗談か本気かも解らない白石の問いかけに、光も平然と答える。
刹那、互いの瞳を見つめ合い、同時に笑う。

初めの頃、ユウジは妙な事を言っていたのだが白石は心の底でそれがずっと気になっていた。
あいつの器に惑わされていたらドえらい目に遭うど、と。
その言葉の示す意味はといえば、口を開けば毒ばかり、一言言えば三倍以上の喧嘩腰の言葉を返す男だった。
もっと柔らかな人物を想像していた為、初めこそ驚いた白石だったがその美を守る為の棘なのだろうと勝手な解釈をしていた。

「一緒に食べます?蔵ノ介さん来たら姐さん喜びますわ」
店を指差し光に誘われるが、白石は申し訳なさそうに手を振る。
「ああ、すまん、もう工房に行く時間やわ」
「何か用あったんちゃいますの?」
純真な瞳を向けられ、本心だけが白石の唇から漏れる。
「いや?そんなん、ただ自分に会いたかっただけやから」
「なっ…何恥ずかしい事言うとんねん!!そうゆーんは姐さんらに言えや!!」
「あれ?悲しいわぁー信じてくれへんの?」
「酒の席の常套句なんか、いちいち聞いてられるかボケ!!」
そう言って光はぷりぷりと怒ったまま、店の方へと立ち去ってしまった。
暫く呆然とその後姿を見送った後、白石も踵を返し工房へと向かった。
怒っていたように見えたが、髪に隠れない耳が少し赤くなっていた。
照れ隠しなのだろう。
白石は少し上機嫌になり、工房までの道のりを歩いていった。




どうして君を見捨てられよう
どうして君を忘れられよう
私には解らない

君の心が
私の心が

だけどたった一つ想うこと
ただ君を救いたい
それだけだ


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