浄玻璃ノ鏡8
春の陽気に誘われ、重い瞼がようやく動いてくれたと、光は寝癖のついた髪を撫でた。
本堂を出ると眩い光りが目に刺さる。
寝起きにこの一撃は厳しいと手を額にかざし、境内を見渡す。
眠りに就いた頃にはなかった賑わいがそこにはあった。
明るい光りに照らされた境内には草木が溢れ、子供達がはしゃぎ回っている。
その中心に見える大きな背中には見覚えがある。
約束を守ってくれたのだと嬉しくなった光は履物もはかないまま外に飛び出した。
「師範!!」
しかし驚き振り返った顔は光の知っているものではなかった。
「あ、目が覚めたんですね!」
「……だ、誰…?」
嬉しそうに駆け寄る男に見覚えなどない。
まだ目覚めて間もない所為か、頭ははっきりとしないが、恐らくは会った事のない男だ。
そんな光の怪訝そうな顔に男はああ、と思い出したように自己紹介をした。
「ああ、私はご院主様に貴方の世話をするよう仰せつかっていた僧の鉄です。今ここでお世話になっています」
「院主って……師範?……師範…は」
光は何かを感じ取り、弾かれたように境内の隅へと向かった。
そこには大きな桜の古木が立っていて、銀はそれを甚く気に入っていたのだ。
そしてその根元には大きな岩が置かれている。
「師範……そうや……俺、ずっと見てた……師範が…ここでずっとずっと俺を待っててくれたんを」
四季の移ろいも、眠る光にかける言葉も、彼の人となりに惹かれた人々が徐々にこの寺に集まっていた事も、そんな彼が最期まで自分を思い続けてくれていた事も、光は遠い意識の先に感じていた。
目覚めの衝撃に一瞬忘れてしまっていたが、全て光の記憶に残っていた。
「光、さん」
いつの間にか鉄が光のすぐ背後までやってきていた。
光は岩を愛しげに撫でながら尋ねる。
「師範は…寂しい思いしてなかったんやな……こんなに皆に慕われて…最期まで……」
「はい。ご院主様は本当にこの里の者から慕われてました。過去に何かあったようですけど、私達には何も教えてはくれませんでした……ただ私にだけは、その…貴方の正体を教えてくれて……自分の遺志を継いでほしいと。光が寂しい思いをしないようにと……」
その言葉に光は思わず笑いを漏らした。
どこまでも彼らしい言葉だ。
「阿呆やなぁ……俺は師範さえおってくれたらええのに先にくたばりやがって……」
あれからもう数十年の時が経ってしまっているのだから、時が彼を攫ってしまう事は必然だった。
それでも言わずにいられなかった。
そして彼もまた、そんな自分を望んでいるはずだ。
約束通り最後の最後まで自分を守ってくれた銀に向け心の中で誓った。
今度は自分が守るから、と。
彼が築き上げたこの寺を、里を、子供達を、遺志を託したこの人を。
だから次に眠りに就くまでどうかそこで見守っていて下さいと、光はそっと銀の眠る岩を抱き締めた。
その姿に鬼の面影はなく、ただ慈愛に満ちたものとして人々の目には映ったのだった。
終